第217話 届いても止められない声
「王の家臣が、あの兵の配属を調べています」
夜、フェリクスの部屋へ入ってきた家臣は、扉を閉めてから言った。
レオンハルトを斬ろうとした兵が、いつ王都へ来て、誰の口添えで西門の小隊へ入ったのか。王の命令で調べ始めたのだという。
「こちらへ来たことは、知られたか?」
「今のところは。ですが、出入りを見た者がいれば……」
フェリクスは、机から立ち上がった。
あの兵は生きている。自分から聞いた命令を、いつまで密命だと信じて黙っているだろうか。
王へ問いただされれば、答えられない。
引き出しから、金の入った袋を取り出した。
「馬を用意しろ。私に従う兵も集める」
「どちらへ?」
「まず王領を出る。街道の関所を通れば、呼び止められるかもしれん。ヴィオレスタとの領境に沿って、林の道を使う」
家臣が戸口で止まった。
「王都を離れれば、疑いを認めたことになりませんか?」
「ここで捕まれと言うのか!」
声が大きくなった。
フェリクスは扉を見て、息を抑えた。
「夜が明ける前に出る。荷は増やすな」
*
フェリクスに従って出たのは、アウレリスから王都へ来た兵と家臣だった。
その中には、王都の守備へ回されていた弓兵もいた。戦場で壊滅した部隊とは別に、城と門を守っていた者たちだ。
二日目の昼には、一行は王領の西南へ入っていた。
関所を避けたため、馬を速く走らせられない道ばかりだった。
木立が薄くなった所で、先頭の兵が足を止める。
「この先は、ヴィオレスタへ入る道と合流します」
「合流する前に、林へ戻れ。領主の兵に見つかるな」
フェリクスは後ろを振り返った。
追手の姿はない。
王都を出てから、ようやく少し息をつけた。
*
その頃、ヴィオレスタの領境にある詰所では、ポルフィラが寝台に横になっていた。
王兵を退かせるために飛んだあと、立ちくらみが続いていた。脇腹も痛み、館へ戻るのを医師に止められている。
窓の外で、オブシディオンが首を動かした。
目を向けると、紫の瞳がこちらを見た。
〈周りを見てくる〉
王兵が退いたあとも、詰所では警戒が続いていた。
彼も、ときどき近くを飛び、武装した者がポルフィラのいる場所へ向かっていないか確かめていた。
〈遠くへ行かないでね〉
〈すぐに戻る〉
翼の音がした。
窓の外を黒い体が離れていく。
ポルフィラは目を閉じたが、眠ることはできなかった。右手を寝具の上へ置き、彼が帰る音を待った。
*
道の上を、影が滑った。
フェリクスが顔を上げたとき、前を歩いていた兵が叫んだ。
「竜だ!」
黒い翼が、木々の上を覆った。
オブシディオンが、一行の上で旋回する。
馬が暴れた。
手綱を握る兵が引きずられ、弓を背負った男が地面へ倒れる。
フェリクスも馬の首へしがみついた。
なぜ、ここにいる。
竜のいる館へ向かっていたわけではない。
王子を捕らえに来たのでもない。
逃げているだけだ。
オブシディオンが高度を下げた。
兵たちの胸当てに残る王家の印。
背負われた弓。
彼の頭が、弓兵たちへ向いた。
一人が震える手で弓を外した。
矢を落とし、拾おうとして膝をつく。
「構えるな!」
別の弓兵が怒鳴った。
だが、弓を取った男は竜から目を離せなかった。
*
〈王の弓兵がいる〉
ポルフィラは目を開いた。
呼びかけてきた声が、いつもと違った。
低く抑えられているのに、言葉の一つ一つが突き刺さる。
〈どこにいるの。こっちへ来るの?〉
〈林の道だ。焼き払う〉
ポルフィラは体を起こした。
脇腹が痛み、息が詰まる。それでも戸口へ向かって叫んだ。
「リゼリア! 誰か、来て!」
廊下の足音が止まった。
戸口にいたヴィオレスタ兵へ、ポルフィラは右手を伸ばした。
「リゼリアを呼んで。レオノーラ様にも、早く!」
兵が走り出す。
ポルフィラは寝台から足を下ろしたが、立ち上がった途端、床が傾いた。
寝台の縁へしがみつく。
〈待って。オブシディオン、何もせず、戻ってきて!代わりに誰かに行ってもらう…〉
〈次に見たら殺すと、言ったはずだ〉
声は届いている。
自分が目を覚ましていて、呼んでいることも分かっている。
それでも、彼は戻らない。
〈私のそばへ帰ってきて〉
返ってきた言葉は、怒りに震えていた。
〈おまえの血が、私の背に流れた。呼んでも、おまえは返事をしなかった〉
ポルフィラの指が止まった。
〈また同じものを、おまえに向けさせると思うか〉
扉が開き、リゼリアが駆け込んできた。
「どうしたの!」
「オブシディオンが、王の弓兵を見つけたって。林の道にいるって……焼くと言ってる」
リゼリアの顔が強張った。
すぐに窓へ走り、空を見上げる。
「シルヴァで行ってみる。レオノーラ様が来たら、あなたをお願いするわ」
ポルフィラはうなずいた。
自分も行きたい。彼の顔を見て、呼びたかった。
だが、立つことさえできず、右手で寝台を支えている。
レオノーラに続いて、騒ぎを聞いたレオンハルトも部屋へ来た。
リゼリアは二人へ、王の弓兵を見つけた竜が焼き払おうとしていると伝え、庭へ駆けていった。
レオノーラは、ポルフィラを寝台へ戻した。
「今も、話せるのね」
「はい。でも、聞いてくれないんです。聞こえているのに……」
ポルフィラは窓へ顔を向けた。
〈お願い。まず、私の所へ戻って〉
〈あの弓兵を、生かしては戻らぬ〉
*
弓を握る人間が見えた。
倒れた男が矢を拾おうとしている。
オブシディオンの中で、あの戦場がよみがえった。
背の上で苦しんだポルフィラ。血に濡れた鱗。
名前を呼んでも、返らなくなった声。
今、彼女は生きている。
ようやく目を開き、自分へ手を伸ばした。
それなのに、人間はまだ弓を持っている。また、あの体へ矢を突き立てることができる。
喉の奥が震えた。
牙の間から、押し殺しきれない唸りが漏れる。
捨てて逃げれば、それで終わると思うのか。
生かせば、また拾う。
あの矢が届く場所へ、ポルフィラを二度と置かない。
オブシディオンの胸の奥で、音が生まれた。
低く、重い。
地面の下で巨岩が擦れ合うような響きが、一行の足元まで伝わった。
フェリクスは、その音を知っていた。
王都へ逃げ帰った兵が、声を震わせて語っていた。
竜が炎を吐く前、腹の底から音がするのだと。
「弓を捨てろ! 早く!」
弓兵が肩紐を外す。
弓を地面へ投げ、走り出す。
もう、遅かった。
オブシディオンの喉が膨らんだ。
開いた顎の奥で、黒いものが渦を巻く。
次の瞬間、空気が破れた。
黒い炎が道へ叩きつけられた。
先頭の兵と馬が、その中へ消える。
地面から土が跳ね上がり、立っていた木々の枝が吹き折れた。
悲鳴は、炎の轟きにかき消された。
オブシディオンが吠えた。
逃げる馬が音に怯え、道の脇へ突っ込む。兵たちは耳を塞いだが、腹の底まで震わせる咆哮から逃れられなかった。
黒い巨体が、逃げる一団の上へ回り込んだ。
フェリクスの馬が横へ跳ねた。
鞍から投げ出され、肩から地面へ落ちる。
息が詰まり、すぐには立てなかった。
「フェリクス様!」
家臣が駆け寄った。
その腕をつかみ、体を引き上げる。
背後では、弓を捨てた兵が黒い炎に追いつかれていた。
オブシディオンは追っている。
弓を持っていた者を、一人も逃がすつもりがない。
フェリクスは家臣を押し退けた。
道を外れ、木々の間へ逃げ込む。
枝が顔を打った。倒れた幹につまずき、四つ這いになる。
頭上で翼が鳴った。
顔を上げると、木立の向こうに竜の顎が見えた。
喉の奥から、先ほどより深い音が迫る。
「私は、弓兵では――」
黒い炎が、木々ごとフェリクスを呑み込んだ。
*
シルヴァが林へ近づいたとき、黒い炎が木々の上へ噴き上がった。
熱い風が、リゼリアの顔を打つ。
手綱を引いた。
シルヴァも炎から距離を取る。
その向こうで、オブシディオンが吠えた。
木々が折れ、黒い体が煙を押し分ける。
リゼリアは彼の背を見た。ポルフィラはいない。
今、あの竜のすぐそばで声をかけられる人間は、一人もいなかった。
「オブシディオン!」
叫び声は、次の咆哮にかき消された。
竜の頭は地上へ向いている。
もう一度、黒い炎が道を覆った。
リゼリアは、シルヴァをそれ以上近づけられなかった。
進めば、この熱と炎の中へ飛び込むことになる。
*
詰所でも、窓が震えた。
外にいた兵たちが、林から上がる煙を見て立ち尽くしている。
レオンハルトは窓辺へ進んだ。
木々の向こうから、黒い炎が空へ突き出した。
煙の中で竜が翼を開き、また地上へ降りていく。次の瞬間、木立の一角が炎に呑まれた。
窓枠へ手をかけた。
咆哮が届く。胸を押されるような音に、思わず息が止まった。
あの道を、人間が逃げているのだ。
今も父に仕える兵たちが。
「ポルフィラ。戻るように、伝えられませんか…?」
振り向くと、彼女はレオノーラに支えられ、窓の外を見ていた。
「呼んでいます。でも、弓兵を生かしては戻らないと……」
レオンハルトは、もう一度林を見た。
自分が叫んでも届かない。馬で向かっても、焼かれている道へ近づけるはずがない。
天馬で飛んだリゼリアも、竜を止められずにいる。
木々の上へ、また炎が噴き上がった。
その光景に王都の通りが重なった。
もし城壁の内側で、同じことが起きたら。逃げ込む家も、人々が集まる広場も、炎に覆われるのだろう。
レオンハルトは窓枠から手を離した。
父は、あの竜を相手に戦っているのだ。
兵を集め、武器を持たせて送り出しても、竜の怒りに触れれば、こうなる。城壁の内側にいれば安全だと、自分はまだ思っていた。
ポルフィラでさえ、呼び戻せない。
彼女を従わせれば竜も従うと考えた父の提案が、どれほど危ういものだったか。今は、分かった。
また戦えば、父とノクスも、あの炎の前に立つことになる。
その姿を思い浮かべた途端、喉が詰まった。
王が何を相手にしているのか。レオンハルトは初めて、その恐ろしさを目の前の現実として知った。
ポルフィラも、窓から目を離せずにいた。
誰を、何人殺しているのかは分からない。
分かるのは、彼がまだ怒っていることだけだった。
自分がそばに乗っていれば、止められただろうか。
考えて、目を伏せた。
彼は、自分が反対しても譲らないと言っていた。
その言葉を聞いたとき、自分は彼を責められなかった。
今も、責める言葉は浮かばない。
もし、あの弓がオブシディオンを傷つけたら。
声をかけても彼が動かず、血だけが流れていたら。
寝台の縁をつかむ指に、力がこもった。
「ポルフィラ。手を緩めて」
レオノーラの声で、ようやく顔を上げた。
レオノーラも、窓の外を見つめるばかりだった。
竜へ下せる命令も、炎を止める手段も、持っていなかった。
*
火が収まる頃、林の道で動くものはなくなっていた。
弓兵だけではない。フェリクスも、逃げる彼を追った家臣も、従っていた兵も、すべて炎に消えていた。
オブシディオンは、焼けた道を一度回った。
人の姿は見えない。
灰の中に折れた弓が残っていた。
彼は向きを変え、詰所へ戻った。
リゼリアも、シルヴァで離れた後ろから追った。
窓が近づく。
ポルフィラが、寝台からこちらを見ていた。
〈戻った〉
彼女はすぐには答えなかった。
右手を窓の方へ伸ばす。
オブシディオンは頭を寄せた。
〈怪我は、ない?〉
〈ない〉
鱗へ触れる指が震えていた。
彼の体から、焦げた臭いがした。
ポルフィラは、その鼻先へ手を置いた。
戻ってきてくれたことに、ほっとしている。
その気持ちを、自分から切り離すことはできなかった。
レオンハルトは、部屋の壁際に立っていた。
窓のすぐ外に、炎を吐いていた顎がある。
彼のところにも、焦げた臭いを含む息が届いた。
後ずさりかけ、足を止めた。
ポルフィラは、その竜の鼻先へ手を置いている。
ついさっきまで呼び戻そうとしていた彼女が、今は怪我をしていないか確かめている。
レオンハルトは何も言えなかった。
恐ろしくて窓へ近づけない自分と、竜へ触れ続ける彼女との間で、言葉を探せなかった。
窓の外では、まだ煙が上がっていた。




