第210話 返さない人々
ヴィオレスタの館が見えたとき、ポルフィラは角を握り直した。
途中で二度休み、夜も地上で体を休めてから、ここまで来た。
脇腹は鈍く痛み、左腕を支える布が肩へ食い込んでいる。
それでも、庭の様子を見た途端、疲れが頭から消えた。
黒い天馬が門の外にいる。
庭にはシルヴァがいて、その前に兵が倒れていた。
〈オブシディオン。あそこへ〉
彼の翼が大きく傾く。
ポルフィラは息を詰めた。体が横へ引かれ、脇腹に痛みが走る。
すぐに傾きが緩んだ。
オブシディオンは館を一度回り、門から離れた庭へ降りた。
地面が沈むような衝撃がした。
翼の鉤爪が土を掴み、黒い巨体が王と館の間を塞ぐ。
首が上がった。
喉の奥で低い音が膨らみ、周囲に響き窓が震える。
石柱の下で、リュシエンヌは顔を上げた。
黒い鱗に覆われた首が、館の屋根より高く伸びている。開いた翼の向こうでは、王の兵たちが逃げ惑っていた。
ポルフィラも来るとは聞いていた。
竜が来れば、王も手を出せなくなるかもしれない。そう期待していたのに、いざ目の前に降りると、立ち上がることさえできなかった。
牙が見える。
あの口がこちらへ向けば、自分も兵も、何もできずに死ぬ。
「……これが、竜」
唸り声が胸の奥へ響いた。
助けに来てくれた相手だと、頭では分かっている。それでも膝が震え、死んだ兵のそばから動けなかった。
王家の馬が暴れた。
近衛兵たちが手綱へしがみつき、引きずられる。
ノクスは翼を広げて後退した。王が前へ出ろと命じても、前へ出ようとしない。
オブシディオンは黒い天馬へ、唸り声を響かせながら顔を向けた。
その背から、王の顔がこちらを向いている。
ポルフィラは角を握ったまま、庭へ目を移した。
リュシエンヌが兵のそばに膝をついていた。
男の口元を拭こうとしている。布は血に染まっていた。
レオノーラのヴェスペラが、庭の端へ下りた。
リゼリアはシルヴァの背に残り、王の近衛を見据えている。
〈下ろして。あの人の所へ行きたい〉
〈あの天馬が、また動くかもしれぬ〉
〈私が下りても、ここにいて。お願い〉
オブシディオンはノクスを睨んだまま、頭を低くした。
レオンハルトは、間近へ下りてくる頭を見つめていた。
幼い頃からノクスを見てきた。その天馬が、王の命令を聞かずに後ずさっている。
自分も逃げたいと思っていた。竜がこちらを見るだけで、体が強張る。
王都で聞いた、逃げ帰った兵たちの声がよみがえった。
竜には近づけない。誰にも止められない。
報告を聞いたときには、それほどのものかと、どこかで疑っていた。
黒い首の上で、小さな人影が動いた。
添え木のある腕をかばい、片手で角につかまっている。
竜を操って兵を焼いたという娘が、今は下りることにも苦労していた。
ポルフィラは角を伝って、ゆっくり体を下ろした。
途中で脇腹が痛み、止まる。
レオンハルトは足を踏み出した。
竜の口元を見ないようにして近づき、体を下ろしかけたポルフィラを右側から支えた。
「足をつけますか?」
「……はい。少し、待ってください」
王子は急かさなかった。
地面へ下りても、ポルフィラの膝に力が入らない。彼の腕を借りて、ようやく立った。
「怪我をなさっていると、聞いていました」
「まだ、治っていません」
王子は何か言いかけたが、門の外から王の声がした。
「レオンハルト。その娘の所へ逃げるために、城を出たのか」
王子の手が、ポルフィラの右腕から離れた。
彼女が一人で立てると確かめてから、父へ向き直る。
「いいえ。ここへ来るまで、会うつもりもありませんでした」
「では、今すぐこちらへ来い」
「三人を処刑するお考えは、変わりませんか」
返事はなかった。
王は、ポルフィラの左腕を見た。その後ろにいる竜へ目を移す。
娘が傷ついていても、竜は巨大な体で立ち塞がっている。ノクスは、まだ後退しようとしていた。
レオンハルトは、石柱の下を見た。
倒れた兵に、家臣が上着をかけている。
「ここで、一人死にました」
王の眉が動いた。
「王命に逆らって道を塞いだのだ」
レオンハルトの唇が震えた。
父が何か別のことを言うのを、わずかに期待していた。
実際に兵の死をその目で見れば、これ以上、人を傷つけないと命じるかもしれないと。
「私を迎え入れたために、あの人は死んだのです」
リュシエンヌが立ち上がった。
血のついた布を、家臣へ渡す。
「門を守らせたのは私です。兵に責任を負わせないでください」
王は彼女を睨んだ。
「ならば、おまえが引き渡せ。罪人と王子の護衛を。息子も城へ戻す」
「お断りします」
今度の返事には、ためらいがなかった。
オブシディオンが首を伸ばした。
王家の近衛が、揃って一歩下がる。
ポルフィラは、その首へ右手を添えた。
顔を上げると、王が自分を見ていた。
「竜を使い、王太子まで奪うつもりか」
「私は、助けを求められて来ました。王子殿下を連れてくるよう、頼んではいません」
声が掠れた。
飛び続けた体が重い。だが、壁際の血を見たまま、部屋へ入ることはできなかった。
「もう、兵を下げてください。怪我をした人の手当てをさせて下さい」
王は返事をしなかった。
代わりにノクスの首を門へ向けようとする。
黒い天馬は動かなかった。
オブシディオンの口元から、もう一度、低い唸りが漏れた。
近衛隊長が王のそばへ寄った。
「陛下。ここで兵を進めることはできません。殿下も、竜の近くにおられます」
王の手が、手綱を強く引いた。
ノクスが対抗して頭を振る。
やがて、王は息子へ顔を向けた。
「最後だ。今ここで戻るなら、おまえ自身の処罰は考え直す」
レオンハルトは、玄関の方を見た。
商人の妻が、扉の奥から庭を見ている。その後ろには、鍛冶職人の兄の茶緑の髪が見えた。
自分だけが城へ帰れば、父は何もなかったように扱うのだろうか。
今日死んだ兵も、明日殺される三人も、自分が口にしなければ、話題にさえならなくなるのか。
「三人を殺さないと、約束してください」
王の顔から表情が消えた。
「ならば、おまえを王太子として扱うことはできん」
レオンハルトは、息を吸った。
返事をしようとしても、声が出ない。
父は待っていた。
息子が取り消しを願い、門を出てくるのを。
レオンハルトは、その場に留まった。
王は手綱を返した。
「引くぞ」
近衛の兵が馬を動かす。
王がノクスを庭から離すまで、オブシディオンは首を下げなかった。
*
王の一行が街道の向こうへ見えなくなると、リュシエンヌは石柱の下へ戻った。
上着の端から、死んだ兵の手が出ている。
彼女はその手を覆い、そばの家臣へ言った。
「奥様に、知らせを。私からも、お話しします」
家臣が頭を下げた。
遺体を運ぶために、別の兵が担架を持ってくる。
ポルフィラも近づこうとした。
一歩踏み出すと、視界が暗くなる。
「ポルフィラ!」
レオノーラの声がした。
右腕を支えられ、その場に座らされる。脇腹に手を当てたかったが、左腕は動かせない。
オブシディオンの頭が、すぐそばへ下りてきた。
彼の鼻先へ右手を伸ばす。
〈傷めたか〉
〈少し、疲れただけ。ここにいて〉
〈離れぬ〉
ポルフィラは黒い鱗へ額をつけた。
王は退いた。だが、死んだ兵は起き上がらない。
玄関の奥で、助かった人々がこちらを見ている。
レオンハルトも、運ばれていく兵を見送っていた。
やがて担架の後を追い、運び手の一人へ声をかける。
「私も、持たせてほしい」
兵は一瞬迷ってから、担架の持ち手を譲った。
王子は両手でそれを受け取り、館の中へ入っていった。




