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オブシディオン  作者: 空飛ぶワイン
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210/282

第210話 返さない人々

ヴィオレスタの館が見えたとき、ポルフィラは角を握り直した。

途中で二度休み、夜も地上で体を休めてから、ここまで来た。

脇腹は鈍く痛み、左腕を支える布が肩へ食い込んでいる。


それでも、庭の様子を見た途端、疲れが頭から消えた。

黒い天馬が門の外にいる。

庭にはシルヴァがいて、その前に兵が倒れていた。


〈オブシディオン。あそこへ〉


彼の翼が大きく傾く。

ポルフィラは息を詰めた。体が横へ引かれ、脇腹に痛みが走る。

すぐに傾きが緩んだ。

オブシディオンは館を一度回り、門から離れた庭へ降りた。


地面が沈むような衝撃がした。

翼の鉤爪が土を掴み、黒い巨体が王と館の間を塞ぐ。

首が上がった。


喉の奥で低い音が膨らみ、周囲に響き窓が震える。


石柱の下で、リュシエンヌは顔を上げた。

黒い鱗に覆われた首が、館の屋根より高く伸びている。開いた翼の向こうでは、王の兵たちが逃げ惑っていた。

ポルフィラも来るとは聞いていた。

竜が来れば、王も手を出せなくなるかもしれない。そう期待していたのに、いざ目の前に降りると、立ち上がることさえできなかった。

牙が見える。

あの口がこちらへ向けば、自分も兵も、何もできずに死ぬ。

「……これが、竜」

唸り声が胸の奥へ響いた。

助けに来てくれた相手だと、頭では分かっている。それでも膝が震え、死んだ兵のそばから動けなかった。


王家の馬が暴れた。

近衛兵たちが手綱へしがみつき、引きずられる。

ノクスは翼を広げて後退した。王が前へ出ろと命じても、前へ出ようとしない。


オブシディオンは黒い天馬へ、唸り声を響かせながら顔を向けた。

その背から、王の顔がこちらを向いている。


ポルフィラは角を握ったまま、庭へ目を移した。

リュシエンヌが兵のそばに膝をついていた。

男の口元を拭こうとしている。布は血に染まっていた。


レオノーラのヴェスペラが、庭の端へ下りた。

リゼリアはシルヴァの背に残り、王の近衛を見据えている。


〈下ろして。あの人の所へ行きたい〉


〈あの天馬が、また動くかもしれぬ〉


〈私が下りても、ここにいて。お願い〉


オブシディオンはノクスを睨んだまま、頭を低くした。


レオンハルトは、間近へ下りてくる頭を見つめていた。

幼い頃からノクスを見てきた。その天馬が、王の命令を聞かずに後ずさっている。

自分も逃げたいと思っていた。竜がこちらを見るだけで、体が強張る。

王都で聞いた、逃げ帰った兵たちの声がよみがえった。

竜には近づけない。誰にも止められない。

報告を聞いたときには、それほどのものかと、どこかで疑っていた。


黒い首の上で、小さな人影が動いた。

添え木のある腕をかばい、片手で角につかまっている。

竜を操って兵を焼いたという娘が、今は下りることにも苦労していた。


ポルフィラは角を伝って、ゆっくり体を下ろした。

途中で脇腹が痛み、止まる。

レオンハルトは足を踏み出した。

竜の口元を見ないようにして近づき、体を下ろしかけたポルフィラを右側から支えた。

「足をつけますか?」


「……はい。少し、待ってください」


王子は急かさなかった。

地面へ下りても、ポルフィラの膝に力が入らない。彼の腕を借りて、ようやく立った。


「怪我をなさっていると、聞いていました」


「まだ、治っていません」


王子は何か言いかけたが、門の外から王の声がした。


「レオンハルト。その娘の所へ逃げるために、城を出たのか」


王子の手が、ポルフィラの右腕から離れた。

彼女が一人で立てると確かめてから、父へ向き直る。

「いいえ。ここへ来るまで、会うつもりもありませんでした」


「では、今すぐこちらへ来い」


「三人を処刑するお考えは、変わりませんか」


返事はなかった。

王は、ポルフィラの左腕を見た。その後ろにいる竜へ目を移す。

娘が傷ついていても、竜は巨大な体で立ち塞がっている。ノクスは、まだ後退しようとしていた。


レオンハルトは、石柱の下を見た。

倒れた兵に、家臣が上着をかけている。

「ここで、一人死にました」


王の眉が動いた。

「王命に逆らって道を塞いだのだ」


レオンハルトの唇が震えた。

父が何か別のことを言うのを、わずかに期待していた。

実際に兵の死をその目で見れば、これ以上、人を傷つけないと命じるかもしれないと。

「私を迎え入れたために、あの人は死んだのです」


リュシエンヌが立ち上がった。

血のついた布を、家臣へ渡す。

「門を守らせたのは私です。兵に責任を負わせないでください」


王は彼女を睨んだ。

「ならば、おまえが引き渡せ。罪人と王子の護衛を。息子も城へ戻す」


「お断りします」

今度の返事には、ためらいがなかった。


オブシディオンが首を伸ばした。

王家の近衛が、揃って一歩下がる。

ポルフィラは、その首へ右手を添えた。

顔を上げると、王が自分を見ていた。


「竜を使い、王太子まで奪うつもりか」


「私は、助けを求められて来ました。王子殿下を連れてくるよう、頼んではいません」

声が掠れた。

飛び続けた体が重い。だが、壁際の血を見たまま、部屋へ入ることはできなかった。

「もう、兵を下げてください。怪我をした人の手当てをさせて下さい」


王は返事をしなかった。

代わりにノクスの首を門へ向けようとする。

黒い天馬は動かなかった。

オブシディオンの口元から、もう一度、低い唸りが漏れた。


近衛隊長が王のそばへ寄った。

「陛下。ここで兵を進めることはできません。殿下も、竜の近くにおられます」


王の手が、手綱を強く引いた。

ノクスが対抗して頭を振る。

やがて、王は息子へ顔を向けた。

「最後だ。今ここで戻るなら、おまえ自身の処罰は考え直す」


レオンハルトは、玄関の方を見た。

商人の妻が、扉の奥から庭を見ている。その後ろには、鍛冶職人の兄の茶緑の髪が見えた。

自分だけが城へ帰れば、父は何もなかったように扱うのだろうか。

今日死んだ兵も、明日殺される三人も、自分が口にしなければ、話題にさえならなくなるのか。

「三人を殺さないと、約束してください」


王の顔から表情が消えた。

「ならば、おまえを王太子として扱うことはできん」


レオンハルトは、息を吸った。

返事をしようとしても、声が出ない。

父は待っていた。

息子が取り消しを願い、門を出てくるのを。

レオンハルトは、その場に留まった。


王は手綱を返した。

「引くぞ」


近衛の兵が馬を動かす。

王がノクスを庭から離すまで、オブシディオンは首を下げなかった。


*


王の一行が街道の向こうへ見えなくなると、リュシエンヌは石柱の下へ戻った。

上着の端から、死んだ兵の手が出ている。

彼女はその手を覆い、そばの家臣へ言った。

「奥様に、知らせを。私からも、お話しします」


家臣が頭を下げた。

遺体を運ぶために、別の兵が担架を持ってくる。


ポルフィラも近づこうとした。

一歩踏み出すと、視界が暗くなる。


「ポルフィラ!」

レオノーラの声がした。

右腕を支えられ、その場に座らされる。脇腹に手を当てたかったが、左腕は動かせない。


オブシディオンの頭が、すぐそばへ下りてきた。

彼の鼻先へ右手を伸ばす。


〈傷めたか〉


〈少し、疲れただけ。ここにいて〉


〈離れぬ〉


ポルフィラは黒い鱗へ額をつけた。

王は退いた。だが、死んだ兵は起き上がらない。

玄関の奥で、助かった人々がこちらを見ている。


レオンハルトも、運ばれていく兵を見送っていた。

やがて担架の後を追い、運び手の一人へ声をかける。

「私も、持たせてほしい」


兵は一瞬迷ってから、担架の持ち手を譲った。

王子は両手でそれを受け取り、館の中へ入っていった。


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