第208話 もう一度、その背へ
レオノーラがアズレインへ来たのは、ポルフィラが一人で部屋の端まで歩けるようになった翌日だった。
寝台へ戻る途中で彼女を迎え、ポルフィラは足を止めた。
「リュシエンヌ様の所へ、王子殿下が逃げ込んだのですか?」
レオノーラはうなずいた。
持ってきた手紙には、王が処刑を命じた三人を、レオンハルトが助けたことが書かれていた。追手から逃れる途中、護衛も傷を負ったという。
「王子と三人を返せと言われても、引き渡さないそうよ。ただ、王がノクスを連れて来たら、自分の兵だけでは守れないと」
「それで、助けを求めて……」
「ええ。まず私が向かうわ」
寝台の横にいたリゼリアも立った。
「私も、シルヴァと行きます」
ロデリクは二人を見た。
「ここからも兵を出す。だが、天馬のようには着けん。先に館の様子を確かめてほしい」
ポルフィラは窓の外を見た。
オブシディオンの黒い首が、窓辺に伏せられている。
三人が何をしたのか、手紙で読んだだけだった。王子が逃げてくるほどのことが、王都で起きている。
リュシエンヌは、自分が危険になると分かっていて、彼らを受け入れたのだ。
「私も行きます」
部屋が静かになった。
「まだ、歩くだけで痛むのだろう」
ロデリクの問いに、ポルフィラはうなずいた。
隠しても仕方がなかった。寝台を離れるたび、誰かが近くで見守っていた。
「でも、ノクスが来たら、リゼリアたちも戦うことになります」
「だからといって、今のあなたを連れていくことはできないわ」
リゼリアは、添え木のある左腕を見た。
ポルフィラは右手で寝台の縁をつかんだ。
「私が行けば、必ず止められるとは思っていない。でも、オブシディオンがいたら、王もすぐには襲えないかもしれない」
レオノーラがそばへ来た。
「乗れるかどうか、医師に診てもらいましょう。それからよ」
*
診察のあと、医師はすぐには返事をしなかった。
脇腹を覆い直し、添え木の留め具を確かめる。
「傷口は塞がってきています。ですが、強く体をひねれば傷を痛めますし、腕の骨もまだついていません。戦場で前と同じ動きができるとは、考えないでください」
ポルフィラは唇を噛んだ。
分かっていますと答えたかった。だが、前と違う動き方など、まだ一度も試していない。
「少しだけ、乗ってみてもいいですか」
医師は、窓の外の竜を見た。
「まず地上で確かめましょう。痛みが強くなるなら、そこでやめてください」
庭へ出ると、オブシディオンが頭を下げた。
その鼻先へ近づいた途端、ポルフィラの足が止まった。
風を切っていた音が、耳の奥によみがえる。
左腕を貫いた衝撃。
息を吸おうとしても吸えず、角にしがみつくことしかできなかった。
黒い鱗が目の前にあるのに、手が伸びなかった。
〈痛むのか?〉
ポルフィラは、ゆっくり首を振った。
〈……あの時の事を思い出したの…〉
オブシディオンは動かなかった。
乗れとも、やめろとも言わずに、頭を低くしたまま待っている。
ポルフィラは右手を伸ばした。
鱗へ触れる。温かかった。
指の下で、静かな呼吸が続いている。
彼はあのときも、自分を落とさなかった。
意識をなくしてからも、ここへ運んでくれた。
〈少し、歩いてもらえる? 乗れたら…だけど〉
〈分かった〉
オブシディオンが首をさらに低くした。
ポルフィラは後ろへ湾曲する角の根元を右手でつかみ、鱗の凹凸に足をかけた。左腕は使えない。体を持ち上げようとすると、脇腹が引きつった。
息が止まる。
地上からリゼリアが支えようとしたが、ポルフィラは首を振った。
「待って。今、動くと痛い」
片足をかけたまま、痛みが引くのを待つ。
オブシディオンも動かなかった。
ようやく体をずらし、首の後ろへ腰を下ろした。
それだけで、額に汗が浮いた。
〈まだ、立たないで〉
〈ああ〉
右手で角を握り、ゆっくり息を整える。
いつも体を預けていた場所なのに、今日は左側が頼りなかった。
オブシディオンが、少しずつ首を上げた。
庭が下へ遠ざかる。
ポルフィラの指に力が入った。
一歩。
体が前後に揺れた。
〈……ゆっくり〉
次の一歩は、小さくなった。
ポルフィラは背を丸めすぎないようにして、揺れに合わせた。
庭を半周したところで、ポルフィラは止まってもらった。
怖さは消えていなかった。体も痛む。
それでも、角を握る手は、もう震えていなかった。
*
地上へ下りて診察を受ける間、マティアスが庭へ来た。
事情を聞いて、テオバルトへの急使を手配したところだという。
娘の汗に濡れた髪を見て、立ち止まった。
「痛みは、どうだ」
「さっきより強くはなっていない。でも、急に動くのは無理だと思う」
マティアスは、すぐには答えなかった。
医師の言葉を最後まで聞き、娘の脇腹に出血がないことを確かめる。
「一緒に行ける者を、誰か」
「私が付き添います」
レオノーラが答えた。
「ヴェスペラで近くを飛びます。途中で休み、無理があれば引き返す。そのつもりで」
マティアスは彼女へ頭を下げた。
ポルフィラの右手に触れ、何か言いかける。
結局、出てきたのは短い言葉だった。
「着いたら、知らせてくれ」
「うん」
*
リゼリアは、先にシルヴァで発った。
ポルフィラたちも向かっているとリュシエンヌへ伝え、現地の様子を確かめるためだった。
ポルフィラは、もう一度オブシディオンの背へ上がった。
一度目より手順は分かったが、簡単には乗れなかった。腰を落ち着けてから、支度ができたと伝える。
〈揺れないように飛ぶ。痛めば、すぐに言え〉
〈分かった〉
翼が開いた。
風が庭の草を伏せる。
浮き上がる瞬間、ポルフィラの体が強張った。
右手だけで角を握り、目を閉じかける。
〈一緒にいる〉
オブシディオンの声がした。
ポルフィラは目を開いた。
地上で、マティアスがこちらを見上げている。
少し離れた空では、ヴェスペラに乗るレオノーラが待っていた。
〈うん。分かってる〉
オブシディオンは大きく傾くことをせず、ゆるく向きを変えた。
西南の空へ進み始める。
ポルフィラは角に右手を添えたまま、彼の首へ体を預けた。
戦えと言われても、今は以前と同じようには動けない。




