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オブシディオン  作者: 空飛ぶワイン
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208/282

第208話 もう一度、その背へ

レオノーラがアズレインへ来たのは、ポルフィラが一人で部屋の端まで歩けるようになった翌日だった。

寝台へ戻る途中で彼女を迎え、ポルフィラは足を止めた。

「リュシエンヌ様の所へ、王子殿下が逃げ込んだのですか?」


レオノーラはうなずいた。

持ってきた手紙には、王が処刑を命じた三人を、レオンハルトが助けたことが書かれていた。追手から逃れる途中、護衛も傷を負ったという。

「王子と三人を返せと言われても、引き渡さないそうよ。ただ、王がノクスを連れて来たら、自分の兵だけでは守れないと」


「それで、助けを求めて……」


「ええ。まず私が向かうわ」


寝台の横にいたリゼリアも立った。

「私も、シルヴァと行きます」


ロデリクは二人を見た。

「ここからも兵を出す。だが、天馬のようには着けん。先に館の様子を確かめてほしい」


ポルフィラは窓の外を見た。

オブシディオンの黒い首が、窓辺に伏せられている。


三人が何をしたのか、手紙で読んだだけだった。王子が逃げてくるほどのことが、王都で起きている。

リュシエンヌは、自分が危険になると分かっていて、彼らを受け入れたのだ。

「私も行きます」


部屋が静かになった。


「まだ、歩くだけで痛むのだろう」

ロデリクの問いに、ポルフィラはうなずいた。


隠しても仕方がなかった。寝台を離れるたび、誰かが近くで見守っていた。

「でも、ノクスが来たら、リゼリアたちも戦うことになります」


「だからといって、今のあなたを連れていくことはできないわ」

リゼリアは、添え木のある左腕を見た。


ポルフィラは右手で寝台の縁をつかんだ。

「私が行けば、必ず止められるとは思っていない。でも、オブシディオンがいたら、王もすぐには襲えないかもしれない」


レオノーラがそばへ来た。

「乗れるかどうか、医師に診てもらいましょう。それからよ」


*


診察のあと、医師はすぐには返事をしなかった。

脇腹を覆い直し、添え木の留め具を確かめる。

「傷口は塞がってきています。ですが、強く体をひねれば傷を痛めますし、腕の骨もまだついていません。戦場で前と同じ動きができるとは、考えないでください」


ポルフィラは唇を噛んだ。

分かっていますと答えたかった。だが、前と違う動き方など、まだ一度も試していない。

「少しだけ、乗ってみてもいいですか」


医師は、窓の外の竜を見た。

「まず地上で確かめましょう。痛みが強くなるなら、そこでやめてください」


庭へ出ると、オブシディオンが頭を下げた。

その鼻先へ近づいた途端、ポルフィラの足が止まった。


風を切っていた音が、耳の奥によみがえる。

左腕を貫いた衝撃。

息を吸おうとしても吸えず、角にしがみつくことしかできなかった。

黒い鱗が目の前にあるのに、手が伸びなかった。


〈痛むのか?〉


ポルフィラは、ゆっくり首を振った。

〈……あの時の事を思い出したの…〉


オブシディオンは動かなかった。

乗れとも、やめろとも言わずに、頭を低くしたまま待っている。


ポルフィラは右手を伸ばした。

鱗へ触れる。温かかった。

指の下で、静かな呼吸が続いている。


彼はあのときも、自分を落とさなかった。

意識をなくしてからも、ここへ運んでくれた。

〈少し、歩いてもらえる? 乗れたら…だけど〉


〈分かった〉


オブシディオンが首をさらに低くした。

ポルフィラは後ろへ湾曲する角の根元を右手でつかみ、鱗の凹凸に足をかけた。左腕は使えない。体を持ち上げようとすると、脇腹が引きつった。

息が止まる。

地上からリゼリアが支えようとしたが、ポルフィラは首を振った。

「待って。今、動くと痛い」

片足をかけたまま、痛みが引くのを待つ。

オブシディオンも動かなかった。

ようやく体をずらし、首の後ろへ腰を下ろした。

それだけで、額に汗が浮いた。

〈まだ、立たないで〉


〈ああ〉


右手で角を握り、ゆっくり息を整える。

いつも体を預けていた場所なのに、今日は左側が頼りなかった。

オブシディオンが、少しずつ首を上げた。

庭が下へ遠ざかる。

ポルフィラの指に力が入った。

一歩。

体が前後に揺れた。

〈……ゆっくり〉


次の一歩は、小さくなった。

ポルフィラは背を丸めすぎないようにして、揺れに合わせた。

庭を半周したところで、ポルフィラは止まってもらった。

怖さは消えていなかった。体も痛む。

それでも、角を握る手は、もう震えていなかった。


*


地上へ下りて診察を受ける間、マティアスが庭へ来た。

事情を聞いて、テオバルトへの急使を手配したところだという。


娘の汗に濡れた髪を見て、立ち止まった。

「痛みは、どうだ」


「さっきより強くはなっていない。でも、急に動くのは無理だと思う」


マティアスは、すぐには答えなかった。

医師の言葉を最後まで聞き、娘の脇腹に出血がないことを確かめる。

「一緒に行ける者を、誰か」


「私が付き添います」

レオノーラが答えた。

「ヴェスペラで近くを飛びます。途中で休み、無理があれば引き返す。そのつもりで」


マティアスは彼女へ頭を下げた。

ポルフィラの右手に触れ、何か言いかける。

結局、出てきたのは短い言葉だった。

「着いたら、知らせてくれ」


「うん」


*


リゼリアは、先にシルヴァで発った。

ポルフィラたちも向かっているとリュシエンヌへ伝え、現地の様子を確かめるためだった。


ポルフィラは、もう一度オブシディオンの背へ上がった。

一度目より手順は分かったが、簡単には乗れなかった。腰を落ち着けてから、支度ができたと伝える。


〈揺れないように飛ぶ。痛めば、すぐに言え〉


〈分かった〉


翼が開いた。

風が庭の草を伏せる。

浮き上がる瞬間、ポルフィラの体が強張った。

右手だけで角を握り、目を閉じかける。


〈一緒にいる〉

オブシディオンの声がした。


ポルフィラは目を開いた。


地上で、マティアスがこちらを見上げている。

少し離れた空では、ヴェスペラに乗るレオノーラが待っていた。


〈うん。分かってる〉


オブシディオンは大きく傾くことをせず、ゆるく向きを変えた。

西南の空へ進み始める。


ポルフィラは角に右手を添えたまま、彼の首へ体を預けた。

戦えと言われても、今は以前と同じようには動けない。

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