第206話 王の命令
「殿下の護衛が、王兵に剣を向けたと?」
フェリクスは、王の前に出された報告を見た。
処刑を取り仕切っていた役人が答える。
「まだ抜いてはおりません。ですが柄に手をかけ、殿下をお止めしようとした兵を威圧いたしました」
王は、役人に下がるよう命じた。
扉が閉まっても、しばらく何も言わなかった。
フェリクスは、その沈黙を待った。
王都へ集まったアウレリスの領民が帰り始めてから、王に呼ばれるたび、何を申し開けばよいか考えていた。
今日は違う。失態を犯したのは、自分ではない。
「殿下は、領主たちとの交渉から戻られて、何かお変わりになったのでしょうか?」
王の目が動いた。
フェリクスは、言葉を選びながら続けた。
「兄たちは、竜の民を自由にしろと求めております。殿下がその考えをお受け入れになったのなら……」
「通じていると言いたいのか?」
「そこまでは。ただ、民の前で陛下の命令を取り消されたとなれば、反逆者たちは喜びましょう」
王は椅子から立った。
「近衛隊長を呼べ」
扉の脇にいた家臣が、急いで出ていく。
フェリクスは頭を下げたまま、王の次の言葉を待った。
「レオンハルトから兵の指揮権を取り上げる。城の部屋へ連れ戻し、見張りをつけろ。あの三人は牢へ戻せ。処刑は明朝に行う」
「殿下がお拒みになった場合は?」
「武器を取り上げ、拘束してでも連れてこい」
フェリクスは、胸の奥で膨らむ喜びを押し殺した。
兄が頼る領主たちと、王家の後継者。その二つを疑いで結びつけたのは、自分だった。
*
城の南側にある王太子の警護詰所では、商人の妻が夫の手首に布を巻いていた。
鍛冶職人の兄弟は、壁際の長椅子に座っている。弟の方は渡された水を飲もうとして、歯を器に当てた。
レオンハルトは、その音に顔を上げた。
縄を解かれてからも、震えが止まらないのだ。
「手当てをする者は、まだか」
戸口にいる自分の護衛へ尋ねたとき、外で馬の足音が重なった。
護衛隊長が窓へ寄る。
「城の近衛です」
レオンハルトも外を見た。
詰所の前で馬を下りた近衛隊長は、普段、父の身辺を守っている男だった。連れてきた兵が戸口と通りに分かれる。
手当てを頼んだ者の姿はなかった。
レオンハルトは、詰所の外へ出た。
近衛隊長が、王の書状を差し出す。
「殿下の指揮権を停止し、城へお戻りいただくよう命じられました。お預かりの三人は、我々が牢へ移します」
「父上は、三人をどうするつもりだ?」
「明朝、刑を執行いたします」
レオンハルトは書状を持ったまま、戸口を振り返った。
商人の妻と目が合う。
女は夫の手首を包んでいた布を握り、黙ってこちらを見ていた。
自分が城へ戻れば、今度こそ三人は死ぬ。
そのことを父は承知で、命じている。
「刑をやめるまで、引き渡さない」
「殿下にも、拘束を命じられております。どうか、そのようなことをさせないでください」
近衛隊長は声を低くした。
「今なら、ご自身でお戻りになれます」
レオンハルトの護衛隊長が、一歩前へ出た。
「殿下。中へ」
近衛の兵が、その腕をつかもうとした。
王太子の護衛隊長は腕を振り払い、戸口に立った。
「三人を連れていく気なら、通せない」
「おまえたちも命令違反になるぞ!」
近衛隊長の叱責に、詰所を守る若い護衛が身をすくめた。
レオンハルトは、その顔を見た。広場で商人の縄を切った兵だった。
「私に従えば、罰を受けるかもしれない。ここを離れたい者は、離れてくれ」
若い護衛は唇を噛んだ。
剣を握ることもできず、腰の辺りで手を開いている。
「殿下は、どうなさるのですか?」
「三人を連れて、ここを出る」
レオンハルトは詰所の中へ戻った。
自分は王命に逆らって逃げるのだと、そこで初めて自覚した。
*
王太子の護衛隊長が、裏庭へ通じる扉を開けた。
城の使いが来る馬と、護衛の馬が繫いである。
「南門へ向かいましょう。閉じられたら、王都から出られなくなります」
商人の妻が夫を支え、庭へ出てきた。
鍛冶職人の兄は、動けない弟の前に屈んでいる。
「立て。今、行かないと」
弟の足が床を擦った。
レオンハルトは引き返し、二人の横へ膝をついた。
「馬まで、肩を貸す」
弟は差し出された腕を見た。
兄が先にその腕を取り、弟の体を支え直した。
表の扉を叩く音がした。
「殿下! お開けください!」
三人で庭へ出ると、若い護衛が馬の手綱を持って待っていた。
レオンハルトが顔を見る前に、彼は言った。
「私も、お供します」
その背後で、詰所の中から木の裂ける音が響いた。
表の扉が破られたのだ。
「早く!」
護衛隊長が商人を鞍へ押し上げる。妻は、その後ろへ乗った。
鍛冶職人の兄を別の護衛の後ろに乗せ、レオンハルトは自分の馬へ弟を先に上げた。自らも乗り、前に座る体を腕で支える。
庭へ近衛の兵が飛び込んできた。
護衛隊長は馬に飛び乗り、庭の門を指した。
「殿下、先へ!」
レオンハルトが馬腹を蹴った。
庭の門を抜ける。背後で、鋼の打ち合う音がした。
振り向くと、近衛兵の剣を受けた若い護衛がよろめいていた。左腕から血が落ちる。
近衛兵が再び踏み込む。その肩へ護衛隊長が馬を寄せ、押し退けた。
「乗れ!」
若い護衛が、鞍へしがみついた。
隊長に助けられて体を引き上げる間にも、通りから別の近衛兵が駆けてくる。
レオンハルトは手綱を引きかけた。
だが、前に座る鍛冶職人が、ひどくかすれた声を上げた。
「…戻らないで…下さい…」
自分だけが助かるために逃げているのではない。
引き返せば、この男も捕まる。
レオンハルトは馬を走らせた。
蹄が石畳を叩く。通りにいた人々が、悲鳴を上げて道を空けた。
*
南門の兵は、近づく一団を見て槍を構えた。
先頭の男が王子だと気づくと、穂先が下がる。
「門を通すよう、誰が許可を――」
「私だ。道を開けろ!」
門を守る兵の隊長が、レオンハルトへ駆け寄った。
城からの命令は、まだ届いていない。それでも、王子の後ろにいる血まみれの護衛を見れば、何かが起きたと分かったはずだった。
背後から、怒鳴り声が追ってきた。
「その者たちを止めろ! 陛下の命令だ!」
近衛の兵が、通りを駆けてくる。
門の隊長がそちらを見た。レオンハルトは、手綱を握る指に力を込めた。
「ここで私を捕らえるのか?」
返事はなかった。
隊長の横で、若い門兵が槍を持ち上げかけた。
「下げろ」
隊長の声だった。
門の片側へ退き、王子の馬へ道を空ける。
レオンハルトは、隊長の顔を見た。
何か言おうとしたが、男は首を振った。
「お急ぎください」
馬を進めると、商人夫婦と護衛たちが続いた。
最後に護衛隊長が門を抜ける。傷を負った若い護衛も、馬上にいた。
王都の外へ出ても、レオンハルトは速度を緩めなかった。
前に座る鍛冶職人が、鞍へしがみついている。土の道が跳ねるたび、その肩が震えた。
街道の分かれ道で、護衛隊長が横へ並んだ。
「どちらへ向かいますか?」
北も、東も、王と戦った領主たちの土地へ通じている。
父は、そこへ逃げれば反逆の証しだと言うだろう。
だが王領に留まれば、隠れる場所も長くはもたない。
レオンハルトは、西南へ延びる道を見た。
つい先日、自分を迎えた館がある。
王の兵に傷つけられた領民を守り、逃げてきた家族は返さないと言った女がいた。
「…ヴィオレスタへ」
声に出してからも、迎えてもらえる確信はなかった。
王太子を匿えば、リュシエンヌまで父の敵とされるかもしれない。
それでも、今は三人を連れていける場所を求めるしかなかった。




