第202話 帰れないと思う者
王兵の敗北が伝わってから、王都の宿は静かになった。
兵に加わろうと集まった男たちも、今では戦の話を避けている。通りで見かけた負傷兵の姿が頭から離れず、食事を残す者もいた。
アウレリス領から来た、天馬の民の染物職人も、その宿にいた。
まだ入隊はしていない。竜に焼かれた兵の話を聞いてから、軍へ名を届けるのが怖くなっていた。
家へ帰りたい…
だが、故郷を治めるアドリアンは王と戦っている。
王軍に加わるために家を出た自分を、許すだろうか?
妻から届いた文には、一人で店を続けるのは難しいとあった。
職人は何度も返事を書こうとして、そのたびに紙をしまった。
その夕方、フェリクスが宿を訪ねてきた。
アドリアンの弟で、王が領主と認めている男だった。兄に代わって領地を治める日が来るまで、王都で自分を支えてほしいと、同郷の者たちに呼びかけていた。
職人は、フェリクスが話し終えるのを待って立ち上がった。
「私は家へ帰ろうと思っています。妻だけでは、店を続けられません」
フェリクスの笑みが消えた。
「王のために戦うつもりではなかったのか?」
「はい。ですが、まだ兵にはなっていません。妻を一人にしたままでは……」
「兄は、おまえが王軍に加わろうとしていたと知っているか?」
職人は首を振った。
フェリクスは、周りの男たちにも聞こえる声で続けた。
「戻れば調べられるかもしれない。王に味方したと分かって、捕らえられたらどうする?」
「帰った者が、捕らえられているのですか?」
「そこまでは聞いていない。だが、私なら無事に帰れるとは約束できない」
食事場の奥で、誰かが溜息をついた。
職人は、手に持っていた妻の文を握り締めた。
「ここにいれば、私が守る。妻も呼び寄せるといい」
フェリクスはそう言ったが、職人にはうなずけなかった。
妻まで王都へ来れば、店を閉めなければならない。宿代を払い続けたあと、二人に何が残るのか。
「……もう少し考えます」
それだけ答えて座った。
妻へ、また待ってくれと書くのか。畳んだ文を開くこともできなかった。
宿を出ると、フェリクスは同行した家臣に命じた。
「ここにいる者たちが帰郷を考えていないか、確かめておけ」
「帰りたいと申す者には、どういたしますか?」
「私が領地へ戻るまで、待つよう伝えろ」
家臣は、宿の扉を見た。
「ですが、まだ兵になっていない者を引き止めるのは……」
「皆が兄の下へ帰れば、私は何人の領民に支持されていると王に言えばいい」
家臣の返事を待たず、フェリクスは馬車へ向かった。
王は自分を領主と認めている。それなのに領内の城も倉も、兄が握っていた。
領民まで兄を頼って帰っていくことには、耐えられなかった。
*
職人は、すぐに帰ることはできなかった。
代わりに妻へ文を書き、帰れば捕らえられる恐れがあるとフェリクスから言われたことを伝えた。
役所で、本当にそうなのか確かめてほしい。
家へ帰りたい。
最後にそう書いて、故郷へ戻る商人に託した。
数日後、妻は夫の文を持って、アウレリスの町の役所を訪れた。
しかし役人にも、王軍へ加わろうとした者を帰してよいか判断できなかった。問い合わせは城へ送られ、町の役人を取りまとめる家臣が、アドリアンへ報告した。
「夫は、まだ兵にはなっていないそうです。妻は、帰っても捕らえられないと分かれば、すぐに呼び戻したいと申しています」
アドリアンは、報告に添えられた職人の文を読んだ。
妻にだけ宛てたものだ。飾った言葉はなく、店と暮らしを案じる言葉が続いていた。
「この男には、帰ってよいと伝えてくれ。王都へ行ったというだけで捕らえるつもりはない」
「町の役人にも、そのように伝えてよろしいでしょうか?」
「ああ。領境を守る兵にも知らせろ。帰ってきた者を、王に味方したという理由だけで捕らえるなと」
家臣は返答を書き留めたが、すぐには下がらなかった。
「王都へ去った元家臣たちも、同じ扱いになさいますか?」
アドリアンは、職人の文を机へ置いた。
かつて父に従い、竜の民への暴力を見逃していた者たちの顔が浮かぶ。帰ってきたら、なぜ父を止めなかったのかと問い詰めたくなるだろう。
自分も止められなかった。そのことを、棚に上げてでも…
「人を傷つけたり、物を奪ったりした疑いがあれば調べる。帰ってきたからといって、罪を見逃すわけではない」
家臣はうなずいた。
アドリアンは、職人の文をその手に返した。
「だが、この男にそんな訴えはないのだろう?」
「はい」
「それなら、家へ帰れるようにしてほしい。妻には、私の印を押した返答を渡してくれ。夫に送れるように」
弟の言葉を信じている者は、ほかにもいるはずだった。
何も知らせなければ、帰りたい者まで王都に留まり、やがて再び武器を持たされるかもしれない。
「職人一人への返事で終わらせるな。ほかの町にも、同じ方針を知らせてくれ」
*
さらに数日後、王都の宿に妻からの返事が届いた。
職人は寝台に腰を下ろし、封を開けた。
中には、役所から渡された書面も入っていた。
王都へ行ったことだけを理由に捕らえはしない。領境の兵にも、そのように命じてある。
アドリアンの印を確かめてから、職人は妻の文を読んだ。
店は、まだ続けています。
戻ってきて、一緒に働いてほしいです。
職人は、文を膝へ伏せた。
染めた布を二人で広げていた店先を思い出した。家を出る朝、妻は戸口まで見送ってくれた。長くはかからないと、自分から言ったのだ。
「家からか?」
同じ宿に泊まる、アウレリス出身の男が声をかけた。
職人は顔を上げ、役所の書面を差し出した。
「妻が確かめてくれた。王都へ来たというだけでは、捕らえないそうだ」
「フェリクス様は、危ないと言っていただろう」
「だから、妻に役所で聞いてもらったんだ。領境の兵にも、命令が出ていると書いてある」
男は書面を読み、職人へ返した。
「……本当に帰るのか?」
「ああ。妻を待たせている」
職人は、寝台の下から荷袋を引き出した。
王都へ持ってきた着替えを詰める。入隊する日に着ようと思っていた上着も、そのまま袋へ押し込んだ。
竜の民が自由になることに、賛成できたわけではない。
同じ町で暮らすことになったら、どう接すればよいのかも分からなかった。
それでも、帰れる家がある。
戦に加わらず、妻と仕事を続ける道まで失ったわけではなかった。
「一緒に帰るか?」
職人が尋ねると、男はしばらく黙っていた。
やがて、もう一度書面を見せてくれと言った。




