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オブシディオン  作者: 空飛ぶワイン
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第201話 領境の槍

ヴィオレスタ領の検問所へ、竜の民の親子が駆け込んできた。

母親は子供を抱えている。後ろを走る父親の肩には、小さな麦の袋があった。

「中へ入れてください!」


母親の声に、検問を守る隊長が詰所から出た。

天馬の民の男だった。

母親はその姿を見て足を止めたが、来た道で馬の蹄が鳴ると、子供を抱く腕へ力を込めた。


追ってきたのは、王領の役人と王兵だった。

「その者たちを渡せ。王領の村から逃げた家族だ」


王領の役人が馬を下り、麦袋を抱えた父親へ手を伸ばした。

検問所の隊長が、その間へ入る。

「ここはヴィオレスタ領だ。御領主へ報告するまで、この家族は詰所で待たせる」


「王領の民を、勝手に受け入れるな」

役人は懐から書面を出し、隊長へ押しつけた。

逃げた竜の民を引き渡すよう求める文だった。


隊長が文へ目を落とした隙に、役人は父親の麦袋を引いた。

父親が倒れ、袋の口から麦がこぼれる。


「返してください!」

父親は膝をつき、袋を引き寄せた。

その手へ役人の靴が近づく。


隊長は書面を腰の帯へ挟み、役人の前へ槍を横たえた。

「そこまでだ。家族から離れろ」


役人が睨みつける。

隊長は槍を下げずに、父親へ尋ねた。

「なぜ、村を出た?」


父親は、こぼれた麦を拾おうとしていた。

「納める量を、また増やすと……。もう、家に出せる物がないんです」

指で集めた麦が、土と一緒に掌へ乗った。

父親はそれを袋へ入れた。


「それは不足分に充てる物だ。持って逃げてよいはずがない」

役人の言葉に、母親が声を上げた。

「それを取られたら、子供に何を食べさせるんですか!」


王兵が、母親の腕をつかもうとした。


隊長は槍を持ち替え、王兵の前へ立つ。

「この家族には手を出すな」


「王命に逆らう気か?」

王兵の手が剣へ掛かった。


母親が子供を抱え直し、詰所の壁へ背をつける。


「剣を抜くな」

隊長が言い終える前に、王兵の刃が鞘を離れた。


隊長は槍の柄で受けた。

木を削る音が鳴る。王兵は剣を引き、もう一度振った。

後ろへ退いた隊長の左腕を、刃先が切り裂いた。

袖が濡れた。

握っていた槍が滑りかけ、隊長は右手で支え直す。

「王兵を、家族へ近づけるな!」


命じると、ヴィオレスタの領兵が詰所の前へ並んだ。

槍の穂先が、王兵へ向く。

王兵は剣を握ったまま動けなくなった。

役人も、横に落ちた麦袋から手を引く。


隊長は血の流れる腕を胸へ寄せた。

「この先へ来れば、私たちも止める。文は御領主へ届けるから、今は戻れ」


役人は、隊長の腕と槍の列を見た。

王兵の肩をつかみ、後ろへ引く。

「リュシエンヌ様が王の命令に背いたと、報告する」


隊長は答えなかった。

王兵が剣を収め、二人が馬へ戻るまで、槍を構えていた。


蹄の音が遠ざかる。

隊長が振り返ると、父親はまだ道に膝をつき、麦を拾っていた。

母親もそばへ屈み、片手で子供を抱えながら粒を集めている。


「もう、よい。中へ入れ」

隊長は家族へ声を掛けた。


だが、母親はすぐには立たなかった。

「この麦も、持っていていいんですか?」


隊長は母親の顔を見た。

子供の頬には、乾いた涙の跡があった。

「ああ。取り上げはしない」


その答えを聞いて、母親は初めて息を吐いた。

それでも、袋を受け取ると、腕から離さなかった。


*


翌日、隊長はリュシエンヌの館で報告に立った。

左腕には手当ての布が巻かれている。


リュシエンヌは、机へ置かれた書面を読んだ。

隊長が腰から取り出すときに触れた血が、端へ滲んでいた。

「王兵が、あなたを斬ったのね?」


「はい。私が家族を渡さなかったためです」

隊長は背筋を伸ばした。

「御領主のお返事を待たず、部下にも槍を向けさせました」


リュシエンヌは、彼の巻いた布へ目をやった。

家族を守る命令は出していた。

だが、王兵に剣を抜かれても止めろと、口にしたことはなかった。

自分が曖昧にした事を、この男が引き受けたのだ。

「家族は?」


「検問所で休ませています。父親が、何か働かせてほしいと。それが無理なら、子供だけでも置いてほしいと言っています」


リュシエンヌの指が、書面の上で止まった。

「子供を置いて、親はどこへ行くつもりなの?」


「分かりません。ただ、三人とも置いてもらえるとは、信じられないようでした」

隊長が顔を伏せた。


リュシエンヌは書面を机へ戻す。

「三人とも泊めてあげて。働くことは、休んでから相談するわ」


「引き渡しの要求には、どう返事を?」


「断ります。家族を守ったのは、私の命令によるものだと伝えて」


隊長が顔を上げた。

リュシエンヌは、その目を見てうなずいた。


彼が下がったあと、そばにいた家臣が口を開いた。

「王は、四家に加わったと受け取るかもしれません」


リュシエンヌは返答用の紙を前へ寄せた。

「私は、四家にも王にも兵を出していない」


「ですが、王兵へ槍を向けています」


「家族を守るために、私の兵が斬られたのよ」

声が強くなり、家臣が黙った。

リュシエンヌも一度筆を置く。

王へ逆らえば、自領の者たちも危険に晒す。

竜も天馬もいない。

王の黒い天馬が来たら、この館でさえ守りきれない。

それでも、あの家族を返せば、何が起きるかは想像できた。

「引き渡さないと、私の名で書きます」

筆を取り直した。

家臣はそれ以上止めず、封の支度を始めた。


*


数日後、王都の納付倉では、荷を運んできた御者が役人に呼び止められていた。

御者は、王領の村々から麦を預かってきた天馬の民の男だった。


「袋が足りない。増やすよう命じたはずだ」

納付倉の役人が、帳面を御者へ突き出した。


御者は荷台を示す。

「預かった物は、全部ここです。村の者たちは、これ以上出せないと」


「不足分を、あとで運ばせろ」


「畑の者まで軍の荷運びに連れていかれているんです。今、これだけ集めるのも……」


「王都には、食べさせねばならん者がいる」


倉を視察していたレオンハルトは、その言葉で足を止めた。

御者は口を閉じたが、馬の手綱を放さない。

荷を下ろす許可が出るまで、帰れないのだ。


レオンハルトは役人へ近づいた。

「届いた分を受け取れ」


「ですが、殿下。帳面の量には届いておりません」


「その男が、足りない分を隠しているのか?」


「……それは、確かめておりません」

役人が視線を下げる。


レオンハルトは御者へ尋ねた。

「村には、食べる分が残っているか?」


御者はすぐには答えなかった。

王子の顔を見てから、荷台へ目を戻す。

「家で食べる袋まで、出した所があります。子供のいる家では、次に来るまでに何を用意すればよいのか、聞かれました」


レオンハルトは、袋の口を縛った紐を見た。

帰還兵に食べさせる物がいる。

そのために集めれば、村の子供が食べられなくなる。

役人が、帳面を閉じかけた。

レオンハルトは呼び止める。

「残りを後で出せという命令は、保留にする。まず、どの村でどれだけ足りないか、食べる分が残っているかを調べてくれ。私から父上へ報告する」


役人が頭を下げ、荷下ろしの者を呼んだ。

御者はようやく手綱を緩めた。

「王の取り立ても、減るんでしょうか…?」


問われて、レオンハルトは答えに詰まった。

父の命令は、まだ変わっていない。

「……減らせるよう、話す」


御者は深く頭を下げた。

顔を上げたときにも、不安は消えていなかった。


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