第198話 母の手
「……母さん」
戸口に立ったミレアが、荷物を落とした。
足元で包みがほどけても拾わず、寝台へ来る。伸ばされた両手が、ポルフィラの肩の上で止まった。
左腕には添え木がある。
脇腹は、重ねた布で膨らんでいる。
「どこなら、触っても……?」
母の顔を見た途端、涙が溢れた。
ポルフィラは右手を伸ばし、その服をつかんだ。
「ここ。こっちに来て」
ミレアが屈む。
頬へ、母の頬が触れた。道の埃と、着慣れた服の匂いがした。
「母さん……」
それ以上、何も出てこなかった。
抱きつこうとした体が痛みに引きつり、口から短い悲鳴が漏れる。
「起きなくていいの。私が寄るから」
ミレアは慌てて身を低くし、娘の頭を両手で包んだ。
ポルフィラは、その手へ顔を押しつけた。
「…会いたかった…!」
「ええ。私もよ……」
耳元へ落ちた声が、途中で潰れた。
母が泣いている。
自分が泣くたびに慰めてくれた人が、今は声を堪えることもできずにいた。
父の手が、寝具の上へ置かれた。
ポルフィラは母の服から指を離し、その太い指をつかむ。
「……父さん」
ドランは答えようとして、一度口を閉じた。
もう一度、息を吸う。
「…おまえの声を、聞けてよかった」
握り返す手が震えていた。
ポルフィラは、その手を両手で抱えようとして、左腕が動かないことを思い出した。
右手だけで、強く握る。
「腕が、動かなくなったの。つかまれなくて……」
話し始めると、角の上で指が滑った感触まで戻ってきた。
脇腹へ突き立った矢。呼吸のたびに動く矢柄。
もう痛くなりたくなくて、あのときは息をするのも怖かった。
「………死ぬかと、思った…」
ミレアの手が、髪の中で止まる。
ドランは娘の指を包み直した。強く握りすぎないように、何度も力を緩めては戻している。
「……帰ってきてくれたな」
その声に、ポルフィラはうなずいた。
泣くと傷が痛んだ。堪えようとしても、母の手が頬へ触れるたびに、また涙が出た。
*
落ち着いた頃、ミレアが包みから服を取り出した。
片方の袖が大きく開いている。
「腕を通さなくても、着られるようにしてきたの。先生に聞いて、使えそうなら……」
ポルフィラは、ほどかれた縫い目を見た。
母がいつも繕っていた自分の服。
その袖が、添え木のついた腕へ掛けられるように開かれている。
「途中の宿でね、少しずつ…」
ミレアは袖を広げたまま、笑おうとした。
「針を持っていた方が、待っていられたから…」
ポルフィラは布へ右手を置いた。
母が道中、これを縫っていた。
眠れない夜にも、自分の腕がどれほど痛むのか、考えていたのだ。
「………ありがとう」
母は何度もうなずき、服をそっと畳んだ。
その下には、リナたちが託した包みもあった。
窓の外で、土を擦る音がする。
黒い首の鱗が、光を受けて動いた。
ドランがそちらを見た。
「戻っているんだな?」
「狩りから、帰ってきたの」
ポルフィラは窓へ顔を向ける。
〈父さんと母さんが、来てくれた〉
〈見えている〉
声を聞くと、右手から少し力が抜けた。
父と母がいる。そのすぐ外には、彼もいる。
ドランが椅子を立った。
「……少し、外へ出てくる…」
*
オブシディオンは、建物の横へ体を寄せていた。
翼の鉤爪が土へ沈み、長い首は窓へ向けられている。
ドランが近づくと、紫の目がこちらを捉えた。
足が止まった。
娘を乗せて飛ぶ竜を、初めて見るわけではない。
だが、その顎についた煤から、どうしても目が離れなかった。
兵を焼き殺したという話は、道中で聞いていた。
今、自分の前にいるのは、その竜だった。
窓の向こうで、ミレアが娘の頬を拭っている。
ポルフィラが何か言い、母の手をつかんだ。
ドランはそちらを見たまま、息を吐いた。
「……あの子を、運んでくれたんだな」
返事はなかった。
それでも、言わずにはいられなかった。
「ありがとう……」
頭を下げる。
顔を上げると、竜はもう窓へ目を戻していた。
娘を失うかもしれないと、道中、何度も思った。
そのたびに、知らせの文にあった傷の場所を思い出した。腕と脇腹。竜の背にいた娘へ、そこまで矢を届かせた兵がいた。
ドランの指が握り込まれる。
誰が、あの子を射たのか……
今はもう尋ねても答えが戻らないことを知りながら、顔を知りたいと思った。
窓の向こうから、娘に呼ばれた。
「父さん」
手を開き、服の脇で一度拭った。
「今、戻る」
*
午後、ロデリクが来た。
戸口で娘を見たドランが立ち上がると、領主は声を落とした。
「長くは話さない。だが、先に伝えておきたいことがある」
寝台へ椅子が寄せられる。
ミレアがポルフィラの枕を確かめ、右手を寝具の上へ戻してやった。
「王の使者が、領境へ来た」
ポルフィラの指が、その手の下で動いた。
「王都から……?」
「ああ。おまえが生きているか、竜がどうしているかを確かめたいそうだ」
「娘に会わせるんですか!?」
ドランの声に、ロデリクは首を振った。
「まず私が会う。この建物へ来る許可は出していない」
窓の外で、砂利が擦れた。
紫の目が、寝台へ向く。
〈王の兵か〉
ポルフィラは、そちらへ答えた。
〈使いの人だって。戦いに来たわけじゃない〉
〈……弓は持っているか?〉
喉が詰まった。
ロデリクを見る。まだ、使者がどんな支度で来たのかは聞いていない。
〈…分からない〉
オブシディオンの首の奥で、低い音が鳴った。
窓際にいたリゼリアが、椅子から腰を浮かせる。
〈次に、王軍の弓兵を見たら皆殺しにする〉
ポルフィラは、言葉がでなかった。
窓の下には、いつもと同じ黒い鱗がある。
触れたときの温かさも、まだ指に残っている。
〈……撃とうとしていなくても?〉
〈撃つまで待たぬ〉
右の脇腹が痛み、息が浅くなる。
〈私、ここにいるよ。もう、目を覚ました〉
〈知っている〉
〈だから……〉
〈おまえが反対しても、これは変えぬ〉
静かな声だった。
窓から覗く目は、ポルフィラを見つめたまま動かない。
〈二度と、おまえへ矢を届かせない〉
ポルフィラは目を閉じた。
血に濡れた角を、右手だけでつかんでいた。
どこへ伏せても矢が来た。腕が痛いと伝えても、そのあと、もう一本が刺さった。
もし、あれが彼の体だったら…?
自分にも、相手が武器を上げるまで待てるか分からない…
それでも、射るつもりのない兵まで殺されると思うと、返事ができなかった。
〈まだ、何もしていない人もいる〉
〈弓を上げるのは、一瞬だ。待っている間に、おまえが傷つく〉
ポルフィラは唇を噛んだ。
彼は自分を助けたかった。
ただ、それだけではない。今も、また失うことを恐れている。
〈……おまえは、傷が痛むか〉
急に、声が近く感じられた。
喉が震える。
〈………うん〉
〈動かずにいろ〉
同じ声だった。
皆殺しにすると言ったのも、自分の痛みを案じるのも…
ポルフィラは右手を少し持ち上げた。
そちらへ伸ばしたかった。
けれど母の手へ指が触れ、その場へ戻した。
「ポルフィラ」
ロデリクに呼ばれ、目を開ける。
皆が、返事を待っていた。
「何と言っている…?」
窓の方へ向きかけた顔を戻す。
隠してはいけない。
王の弓兵が近づけば何が起きるか、ここにいる人たちにも伝えなければならない。
「次に王軍の弓兵を見たら……皆殺しにするって……」
リゼリアの指が、椅子の縁をつかんだ。
ミレアの手も動かなくなる。
ロデリクは窓へ一度目を向け、すぐにポルフィラへ戻した。
「使者の護衛も、弓を持っていればか…?」
ポルフィラは、窓の外へ同じ問いを届けた。
〈王の兵が弓を持って来れば、同じだ。私の前へ来させるな〉
息を吐いた。
「近づけるなって。私が反対しても、変えないって……」
部屋の外を、誰かが歩いていく。
その足音が止まるまで、誰も口を開かなかった。
*
ロデリクが戸口へ立ち、待たせていた家臣を呼んだ。
声を低くしても、ポルフィラには聞こえた。
「領境へ使いを出せ。王の使者と護衛が弓を持っているなら、預けさせろ。弓を持ったまま通してはならん」
「使者自身も、確かめるのですね?」
「ああ。王軍の弓兵を見たら殺すと、竜が告げている。理由も隠さずに伝えろ」
家臣が去る。
ロデリクは寝台の横へ戻ったが、もう座らなかった。
「君が目を覚ませば、あの竜を止められる。そう思っている者は多い…」
ポルフィラの指が、寝具へ食い込んだ。
ロデリクはその手を見て、言葉を継いだ。
「王にも、そう約束はできんな」
小さくうなずく。
彼が人を殺したことよりも、彼を失う想像の方が恐ろしかった。
その自分に、絶対に彼を止めるなどと言えるはずがなかった。
「オブシディオンも、また私が傷つくのが怖いんです」
かすれた声になった。
リゼリアは何も言わず、窓の外を見た。
ポルフィラも、同じ方へ顔を向ける。
「私も、彼が傷つけられたら……」
母の指が、手の甲へ添えられた。
その温かさで、自分の手が冷たくなっていたことに気づく。
「……止まれると、約束できません」
ドランが、ゆっくりと椅子へ腰を下ろした。
何かを言いかけたが、やめた。
娘の右手へ目を落とし、自分の膝の上で指をほどいている。
ロデリクはしばらく黙っていた。
やがて、戸口へ顔を向ける。
「使者には、私から伝える。おまえを連れ出しはしない」
ポルフィラはうなずいた。
「また兵を送るつもりなのか、聞いてください」
「……ああ」
出ていく足音を、寝台の上から聞いていた。
母の手へ指を絡めても、窓の外へ向けた顔は戻せなかった。
*
領境では、王の使者が出発を待っていた。
案内に立つアズレインの兵が、護衛の馬の横へ寄る。
「その弓は、ここへ預けていただく」
護衛の手が、鞍へくくりつけた弓へ伸びた。
「王の使者を守る者だぞ」
「承知している。だが、弓を持ったまま竜へ近づくことは認められない」
使者が二人の間を見た。
「領主からの命令か?」
「はい。竜は王軍の弓兵を見たら殺すと告げています。使者の護衛であっても、見逃すとは約束できません」
護衛の男は、鞍の革紐をつかんだまま黙った。
空を見上げる。
いま、黒い影はない。
それでも、紐を解く指は震えていた。




