第197そばにいる
「…ポルフィラ」
リゼリアの声に、瞼を開けた。
濡れた布が頬へ触れている。口元を拭われ、ようやく乾いた唇が離れた。
「……来る」
「え?」
外で馬が嘶いた。
御者の声が裏返り、車輪が石を擦る。医師が戸口へ向かうより早く、床へ大きな影が差した。
オブシディオンだった。
紫の目が、寝台へ向く。
その顔を見た途端、ポルフィラは体を起こしかけた。
脇腹に痛みが突き刺さる。
息が止まり、医師の腕へ崩れた。
「動くな。寝たままでいい」
肩を支えられても、竜から目を離せなかった。
いる。
あの角も、黒い鱗も、ちゃんとある。
〈……オブシディオン…!〉
〈ポルフィラ……〉
名を呼ばれただけで、涙が溢れた。
返事をしようとしたのに、喉が詰まる。
〈おまえの声か……?〉
何度も話してきた相手に、確かめられた。
ポルフィラは何度もうなずこうとして、医師に肩を押さえられる。
〈………私だよ〉
大きな顔が近づいた。
手伝いの男が壁へ下がり、持っていた盆が音を立てる。それでも竜は顔を戻さず、目だけで彼女を追っていた。
〈私、ここにいるよ…〉
戸口へ伸びた鼻先が、止まった。
〈……見えている〉
ポルフィラは右手を伸ばした。
触れたい。
声だけでは足りなかった。あの鱗の硬さを、指で確かめたかった。
届かないまま、腕が寝具へ落ちる。
脇腹が引きつり、呻きが漏れた。
〈動くな…!〉
川の上と同じ声だった。
あのときは痛くて、怖くて、それでも角を離せなかった。
〈私、落ちなかった?〉
〈落としてはいない〉
〈……よかった〉
涙で、紫の目が滲んだ。
自分が助かったことより先に、彼がそこにいることへ安堵していた。
*
医師が傷を確かめる間、ポルフィラは右手でリゼリアにしがみついていた。
体を少し傾けられるだけで、右の脇腹に痛みが走る。
堪えようとしても声が出た。そのたびに、窓の外で低い唸りがした。
「大丈夫。先生が手当てしてくれてるだけ…」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
リゼリアが手を握り返す。
医師に戸口を空けるよう頼まれ、竜は建物の横へ回っていた。
寝台のそばの窓から、首の鱗が見えている。
「腕の骨も折れている。今は、一人で起きようとしないことだ」
医師は添え木を確かめ、布を戻した。
ポルフィラは荒くなった息を整えながら尋ねた。
「私、どのくらい……?」
「戦いから四日目だ」
四日。
窓の外へ、顔を向けた。
自分には、矢を受けてからほんの少ししか経っていない気がする。
彼は、その間ずっと……
〈呼んでいたの?〉
〈………呼んだ〉
〈ずっと……?〉
少し間を置いて、返事が来た。
〈……おまえが、答えなかった〉
ポルフィラは、握っていたリゼリアの手を見た。
目が合うと、彼女は笑おうとした。けれど唇が震え、うまく笑顔にならなかった。
「ご家族へも、知らせを出してあるわ。今度は、目が覚めたと伝えられる」
「父さんたち……」
リゼリアがうなずく。
その目にも涙が浮かんでいるのを見て、ポルフィラは何も言えなくなった。
*
医師がほかの負傷者のもとへ行くと、リゼリアは椅子を窓から少し離した。
大きな顔が近づけば、まだ肩が強張る。
ポルフィラは、その動きに気づいた。
「…何か、あったの?」
リゼリアの目が、彼女へ戻る。
「川で……オブシディオンが…」
話し始めた声がかすれた。
ポルフィラは黙って待った。
自分をここへ届けたあと、オブシディオンは弓兵隊へ戻った。
黒い炎が射手の列を吞み、周りの王兵まで巻き込んだこと。
さらに川上で、退却しようとしていた部隊も襲われたこと。
「私は、あなたは生きていると叫んだの」
リゼリアの指が、膝の上で握られた。
「こちらを見たのよ。それなのに、また兵の方へ……」
窓の外で、砂利が擦れた。
リゼリアの声が途切れる。
ポルフィラはそちらへ問いかけた。
〈リゼリアの言葉、分からなかった?〉
〈分からなかった〉
目を閉じた。
自分が意識を失っている間は、彼に人の言葉が届かない。
「私を通して、言葉を理解しているの。私が意識を失っていたから、意味が分からなかったんだと思う…」
リゼリアは窓を見た。
「……そうだったの……」
膝の上の指は、ほどけなかった。
「…怖かったでしょう?」
ポルフィラが尋ねると、彼女は俯いた。
やがて、小さくうなずく。
「あなたのいない背中を見て、近づけなくなったの。シルヴァまで巻き込まれたらと思うと……」
リゼリアはそこで言葉を切った。
ポルフィラは右手を伸ばし、彼女の手の甲に触れた。
握り返された指が、冷たかった。
*
〈弓を捨てた人も、殺したの?〉
〈殺した〉
返事は短かった。
ポルフィラは窓の向こうを見た。
オブシディオンの顎には、泥と煤がこびりついている。
自分の眠っていた四日間が、その黒い汚れに残っているようだった。
〈ここへ運んでも、おまえは目を開けなかった〉
オブシディオンの声が続く。
〈あれほど血が出ていた。人間は何か言っていたが、私には分からなかった〉
〈……うん〉
〈おまえの手が、離れた〉
ポルフィラの右手が、寝具をつかんだ。
〈呼べば、おまえは答えていた。それが、なくなった…〉
そのとき初めて、彼の見ていたものを思った。
血で滑る、小さな体。
何度呼んでも動かない口。
誰かが手当てしていても、助かるのかどうか分からないまま、ただ胸が動くのを見ていたのだ。
…もし、それが彼だったら…?
翼を傷つけられ、地へ落ちたオブシディオン。
黒い鱗の間から血が流れ、呼んでも紫の瞳が開かない。
その向こうに、武器を持った人間がいる。
誰がやったの!?
どこにいるの!?
答えを聞いたら、自分はその人間を捜す。
逃げていても、見つけようとする。
寝具を握る手に、爪が食い込んだ。
そこまで考えて、もうやめようという言葉が浮かばなかった。
ユリウスを焼くよう命じた、自分の声を覚えている。
今、何のためらいもなく同じことを考えた自分に、息が詰まった。
「ポルフィラ?」
リゼリアに呼ばれ、ようやく指を緩める。
「傷が痛む?」
「……少し」
嘘ではなかった。
けれど、右手が震えるのは傷のせいだけではない。
窓の向こうには、大きな顔があった。
幾人も焼き殺した竜。
その目を見ても、遠ざけたいとは思えなかった。
自分を殺しかけた者たちへ、彼が何をしたのか。
聞いてしまったあとでさえ、ここにいてほしかった。
〈私も、同じことをすると思う…〉
紫の目が、彼女へ向いた。
〈あなたが傷つけられて、呼んでも返事をしてくれなかったら……私も、その人を捜すと思う〉
言葉にすると、喉の奥が震えた。
人を殺すのは怖い。
なのに、彼を失うところを思い浮かべた途端、その怖さは消えて無くなる…
〈私も、あなたがいなくなるのは嫌だ!!〉
涙が止まらなくなった。
脇腹が痛む。息を詰めると、もっと痛い。
リゼリアが頬へ布を当て、何も聞かずにそばにいてくれた。
〈ありがとう。私を、落とさないでくれて〉
竜の首が、窓へ寄った。
ポルフィラは右腕を伸ばそうとした。
リゼリアが手首の下へ手を入れる。体を起こさないよう支えられながら、窓枠のそばまで指を運んだ。
黒い鱗に、指先が触れた。
硬い。
温かい。
何度もこの上へ頬を寄せ、風を受け、一緒に空を飛んだ。
目を閉じても、その背にいるときの揺れが分かる。
指を曲げ、鱗の縁へ触れた。
オブシディオンは動かなかった。
〈……ここにいて〉
〈いる〉
触れた指先から、手を離せなかった。
*
リゼリアが腕を寝具へ戻してくれると、窓の下へ竜の顎が伏せられた。
ポルフィラは、右手に残る感触を確かめるように指を曲げた。
外で、担架を運ぶ声がした。
川から戻った捜索隊だと、戸口の者が言う。
リゼリアはそちらを見た。
「まだ、捜しに行けない所があるの。川向こうにも……竜が旋回している間は、誰も渡れなかったから」
ポルフィラは窓へ向き直った。
〈もう、川へは行かない?〉
〈おまえのそばにいる〉
その返事に、肩から力が抜けた。
「ここにいるって。川へは戻らない」
リゼリアは椅子から立ち、ロデリクの家臣を呼んだ。
戸口で短く話す声がする。
やがて、外へ走り出す足音がした。
ポルフィラは目を閉じた。
大勢が死んだ。
その家族は、オブシディオンを憎むのだろう。自分のことも。
あの竜は悪くないと、言って済むはずがなかった。
それでも、彼へ向ける非難の言葉は持てなかった。
………自分も、同じ所へ行けてしまう。
瞼を開く。
窓の外の黒い姿を確かめ、そちらへ顔を向けたまま、息を吐いた。
*
リゼリアが戻ったとき、ポルフィラの視線はまだ窓へ向いていた。
「……狩りにも、行っていないと思うの」
その言葉に、初めて顔を戻す。
「食べて……、ないの?」
「あなたを見に戻っては、また川へ向かっていたわ」
ポルフィラは、低く伏せられた頭を見た。
〈最後に食べたのは?〉
〈戦いの前だ〉
四日間。
食べに行く間も惜しんで、ここへ戻っていた。
〈狩りに行ってきて…!〉
〈まだ、離れたくない〉
ポルフィラの右手も、窓の方へ動きかけた。
自分だって、行かないでと言いたい。
目を閉じるのも怖かった。次に開いたとき、また何日も過ぎていたらどうしよう。
〈ポルフィラ〉
呼ばれて、息を吸う。
〈うん〉
〈聞こえているな…?〉
〈…聞こえてる〉
ポルフィラは、指先を寝具へ押しつけた。
〈離れても、聞こえる〉
自分にも言い聞かせるように、伝える。
〈リゼリアも、先生もいる。私はここで、待ってるから〉
紫の目がリゼリアへ向いた。
彼女は何を話しているのか分からないまま、竜を見返した。
〈帰ってきたら、呼んで〉
〈戻ったら、呼ぶ〉
大きな頭が、窓から離れた。
「狩りに、行くって」
かすれた声で告げると、リゼリアが戸口へ知らせた。
外の車が止まり、人々が道を空けていく。
翼を広げる音に、ポルフィラの右手が震えた。
今なら、まだ呼び止められる……
唇を噛み、空が明るくなるのを見ていた。
〈……オブシディオン〉
〈いる〉
すぐに返った声に、堪えていた息が漏れた。
涙で窓が見えなくなっても、今度はその声を聞いていられた。




