第196話 王都の声
「その弓の隊です。息子も、そこへ選ばれたんです」
女の手が荷車の縁をつかんでいた。
御者が手綱を引いても離れず、荷台へ身を乗り出す。寝かされていた兵が、焼けた腕を庇って奥へずれた。
「一緒に帰ってきたんでしょう?どこにいるんですか…?」
男の目が、女の顔から逃げた。
門兵が割って入ろうとしたとき、レオンハルトはその肩を押さえた。
城門には、戻った兵を捜す家族が集まっている。荷車が一台止まれば、その後ろも動かなくなった。
「車を脇へ寄せろ。怪我人を先に入れる」
供の兵が御者へ合図する。
女はようやく荷台から離れ、レオンハルトを見た。王子だと気づくと、慌てて膝を折ろうとする。
「そのままでいい。息子の名前を、こちらの者へ」
女は名を告げた。
年齢も、住んでいた通りも、聞かれる前に続ける。
「弓が得意で。選ばれたときは、喜んでいたんです。王のお役に立てると……」
家臣の筆が紙を擦る。
レオンハルトは、荷台へ目を戻した。
布を胸まで引き上げていた兵が、こちらを見ていた。何も言わず、ほんの少し首を振る。
「殿下」
女の声に、目を戻す。
「会わせていただけますか?」
門の向こうで車輪が軋んだ。
レオンハルトは返事を探し、見つけられないまま、供の家臣を呼んだ。
「帰還した者の記録を。ここで待つ家族にも、調べたことを伝えられるようにしてくれ」
女の手が、胸元へ下りた。
礼を言われても、レオンハルトはうなずけなかった。
荷車がまた動き出す。
負傷兵を乗せた車の後ろに、底板の見える車が続いた。麦も、矢の束も積まれていない。荷台の隅に、破れた盾が一枚転がっていた。
「荷は、後から来るのか?」
供の家臣が御者へ尋ねた。
御者は首を振る。
「舟も車も燃えました。馬を逃がせた分だけで、人を乗せて戻ったんです」
家臣は何か書きかけ、筆を止めた。
レオンハルトは、城へ続く通りを見た。出発の朝には、あそこを荷車の列が埋めていた。
*
帰還兵を収容した建物では、廊下にも担架が並んでいた。
レオンハルトは壁際へ身を寄せ、布を抱えて走ってくる女を通した。
「押さえてくれ! そこを離すな!」
戸口の向こうで、男が叫んでいる。
布を抱えていた女が引き返し、医師へ首を振った。
「これで終わりです。倉にも、もう……」
「なら、洗った布から持ってきてくれ!」
レオンハルトは供の家臣を振り返った。
「軍の倉へ。残っている布を出させろ」
「ここへ運んだのが、その分です」
女の抱えた布は、腕の中へ収まるほどしかなかった。
レオンハルトが返事をする前に、担架から伸びた手が、服をつかんだ。
供の兵が動きかけたが、制した。
横たわる兵の唇が震えている。
「……また、行くんですか……?」
レオンハルトは屈んだ。
男は答えを待たず、首を振った。
「もう、嫌だ。剣も捨てたのに……」
視線が、レオンハルトを通り越して戸口へ向く。
誰かが外から入ってきただけで、男の肩が跳ねた。
「今は休め。ここで手当てを受けるんだ」
服をつかむ指は、なかなか緩まなかった。
引き離さずに待っていると、外で声が上がった。
「王は、どうやって守ってくれるんだ!」
窓の下に、人が集まっていた。
「竜を怒らせて、ここへ来たらどうする!」
別の声が怒鳴り返す。
「領主たちが連れてきた竜だろう! 王を責めてどうなる!」
人垣が押し合い、手当ての品を運ぶ車が止まる。
門兵の一人が剣の柄へ手を掛けた。
「抜くな」
レオンハルトは窓を開けた。
「怪我人を運んでいる。道を空けてくれ」
「食べ物も、軍へ持っていかれたままだ!」
車の脇で、粉袋を抱えた男が叫んだ。
「次の麦が入るまで、待てと言われたんだぞ。あれまで燃えたなら、店をどうしろって言うんだ!」
人々が顔を上げた。
その隙に、門兵が車の前へ入る。車輪が少しずつ動き始めた。
「殿下なら、知っているんでしょう!」
人垣から、男が一歩出た。
「竜が来ても、大丈夫なんですか!」
レオンハルトの背後で、負傷兵がまた呻いた。
「……川の様子を、確かめさせる」
男は口を開きかけた。
だが、レオンハルトの顔を見て、何も言わなかった。
*
王の部屋に広げられていたのは、アウレリス領の地図だった。
「兄の兵が薄い所は、領内の者に確かめさせます。竜がアズレインにいる間に………」
フェリクスの声が途切れた。
戸口のレオンハルトへ目を向け、椅子から腰を上げる。
「殿下。帰還兵の受け入れは、いかがでしたか?」
「まだ続いている」
レオンハルトは地図の向こうにいる父を見た。
「兵を動かすお話ですか?」
「話を聞いているだけだ。座れ」
空いた椅子を示されても、足が進まなかった。
袖には、先ほど兵につかまれた皺が残っている。
フェリクスが地図へ手を添えた。
「王都に来た我が領の者も、帰郷を望んでいます。陛下にお認めいただいた私が戻れば、城を開く家臣もいるはずです」
「王軍を借りるのか?」
「お力をお貸しいただければ……」
「今、戻った兵を出すことはできない」
レオンハルトが答えると、フェリクスの視線が父へ移った。
王は何も言わない。
「王都の守備兵なら、損害は受けていません」
「兵だけで、城を攻めるのか?」
レオンハルトの声に、フェリクスの指が止まった。
「食糧は?運ぶ車と馬は、どこから出す?」
「それは、軍の倉から……」
壁際で控えていた家臣が、王へ一礼した。
王家の物資を管理する男だった。
「陛下。戻った御者たちにも確かめました。川下に集めていた兵糧と矢は焼け、川上へ回していた荷も戻りません。舟と荷車、曳いていた馬も、多くを失っております」
王が手を伸ばした。
差し出された帳面を開くと、挟まれていた荷の記録が机へ滑った。
「追加で送るはずの分は?」
「残っています。ですが、王都の守備兵と、集まった兵を食べさせる分もそこに含まれます。今、新しい遠征へ回せば、次の補給まで持ちません」
フェリクスの手が、地図から離れた。
「徴集を増やせ」
王は帳面へ目を落としたまま言った。
「竜の民の村々へ命じろ。武器も作らせる」
「すでに、納めさせる量は増やしております。今の分も、すべて届くには日がかかります」
家臣の声が小さくなった。
王は頁をめくった。もう一枚、荷の記録が落ちる。
「商人から買い入れろ」
「前の買い上げ分にも、支払いを待たせています。すぐに荷を出せる者は、代金を先にと」
紙をめくる音が止まった。
レオンハルトは、机へ落ちた記録を見た。
麦、干し肉、矢、盾。何台もの車へ積んで送り出した物が並んでいる。
戻った車には、怪我人しかいなかった。
「…手当ての布も足りません。守備兵の食糧を出せば王都が困る。倉に残せば、戻った者を養えない」
父の手元から、顔へ目を上げた。
「今は、フェリクスへ兵を貸せる時ではありません」
「……王都を飢えさせるつもりはない」
王が帳面を閉じた。
強い音に、フェリクスの肩が動く。
「王家の倉は開く。だが、一度に出すな。残りを確かめ、配る量を決めてからだ」
家臣が頭を下げた。
レオンハルトは椅子の背へ手を置いた。
「守備兵を出して、竜がここへ来たら?」
フェリクスが手を引いた。
王の目が、息子へ向く。
「民の前でも、そのようなことを言ってきたのか?」
「民から、聞かれたのです。竜が来ても大丈夫なのかと」
椅子の背を握る手を緩め、レオンハルトは続けた。
「帰還兵は、家族に話しています。娘を射たあと、竜が一頭で戻ってきた。弓を捨てても殺されたと」
「だから、何だ?」
「父上が竜を怒らせたと、王家を責める声が出ています」
王の顎がわずかに動いた。
「兵を焼いたのは竜だ」
「ええ」
「それを使っている四家に、責任を問うべきであろう?」
「ならば、四家へ使いを出してください」
フェリクスが顔を上げた。
レオンハルトは父から目を離さなかった。
「竜がどこにいるのか。娘は生きているのか。彼らに止められるのか。それだけでも、確かめなければなりません」
「返事を、信じるというのか?」
「確かめもせず、また兵と物資を失うわけにはいきません」
部屋が静まった。
王が椅子へ背を預けた。
レオンハルトは、言い過ぎたかと息を詰めた。それでも、引き下がる言葉を口にしたくなかった。
フェリクスが、その沈黙へ声を差し入れた。
「交渉に応じれば、兄は自分の支配を認められたと思うでしょう」
王へ向け、深く頭を下げる。
「私の父は、竜に焼き殺されました。陛下の弟君も、竜の民に殺されたのです。恐れたから退いたと知られれば、これから誰が王命に従うでしょうか?」
王の指が、椅子の肘掛けをつかんだ。
レオンハルトの胸にも、叔父の顔が浮かんだ。
「……忘れたわけではない」
声が低くなった。
フェリクスが顔を上げる。
「だが、次に兵を出せと言うなら、竜をどうするのか聞かせてくれ」
フェリクスの唇が開いた。
言葉が出る前に、レオンハルトは地図を指した。
「兄上には天馬もいる。その城を、誰に攻めさせる?」
王子へ向いていた目が、地図へ落ちた。
フェリクスは、もう城を指ささなかった。
「……十分な兵を、お貸しいただければ」
「何人なら、足りるんだ?」
「もうよい」
王の声に、二人とも口を閉じた。
肘掛けから離れた手が、机の上へ置かれる。
「ロデリクへ使いを出せ。まず、竜の動きと娘の生死を聞く」
「父上…!」
「戦場を通らせるな。領境から通行を求め、返事を持ち帰らせろ」
レオンハルトは頭を下げた。
王はフェリクスへ顔を向ける。
「返答が来るまで、兵は動かさぬ。まず王都の守りを立て直す」
フェリクスの首が、ゆっくりと下がった。
レオンハルトはようやく、椅子の背から手を離した。
*
「殿下」
廊下へ出るなり、フェリクスに呼び止められた。
家臣たちが離れるのを待ち、彼は声を落とした。
「我が領から来た者にも、お会いください。兄に従いたくないから、ここまで来たのです」
「話は聞く」
「その者たちを、見捨てるおつもりではありませんね?」
レオンハルトは彼へ向き直った。
「兵を貸す約束はしていない」
「このままでは、私は……」
途切れた言葉を、フェリクスは続けなかった。
城も領地も、今は兄の手にある。王に領主と認められていても、彼が広げられるのは地図だけだった。
向こうから、家臣が書類を抱えて来た。
帰還した兵の記録だという。
レオンハルトは受け取り、束の端をめくった。
門で女が告げた名前を捜す。
一枚目には、なかった。
「殿下…」
顔を上げると、フェリクスがまだ立っていた。
「会う日を、家臣へ伝えてくれ」
それだけ答え、レオンハルトは歩き出した。
次の紙をめくっても、捜している名は見つからなかった。
階下で、荷を運ぶ家臣たちが行き交っている。
兵を集めていた場所へ、今度は怪我人の寝具を運ぶ。
その脇では、倉を開く命令を持った使いが駆け出していた。
次の戦いへ送るはずの物を、帰還兵の手当てへ回さなければならない。
倉へ向かう使いの足音を、レオンハルトは階段の上から聞いていた。
*
ポルフィラが倒れてから、何度も朝が来た。
アズレインの川には、今日も黒い竜がいた。
見張りの兵は岩陰へ伏せ、頭上を過ぎる翼の音を数える。
遠ざかったと思って顔を上げると、もう一度、影が川を横切った。
焼けた岸には、舟も荷車も残っている。
誰も取りに行かなかった。
オブシディオンは、崩れた土手を見下ろした。
弓を構える人間はいない。
木立にも、川岸にも…
町へ戻れば、あの小さな胸が動いている…
呼んでも、目を開けない…
翼を傾け、もう一度回る。
黒い影が、川面で歪んだ。
*
息を吸った途端、脇腹が痛んだ。
ポルフィラは体を逃がそうとした。
左腕の奥へも痛みが走り、喉から声が漏れる。
「……っ」
近くで、椅子が鳴った。
肩へ手が触れ、びくりと身を縮める。右の脇腹が引きつれて、息が止まった。
「動かないで。ポルフィラ、私よ」
声を知っている。
けれど、顔が見えない…
瞼を持ち上げると、眩しさに涙が滲んだ。
滲んだ向こうに人影がある。
リゼリア。
名前を呼ぼうとして、唇だけが動いた。
「先生を。早く!」
足音が遠ざかる。
肩に触れた手は、そのままだった。
………どこにいるのだろう?
角につかまっていた。血で指が滑って、離れて……。
右手が寝台の布を掻いた。
硬い鱗は、どこにもなかった。
〈オブシディオン……〉
*
黒い翼が、大きく傾いた。
オブシディオンは首を上げた。
川の流れる音がする。岸には誰も立っていない。
〈ポルフィラ……!〉
返事を待った。
翼を打つことも忘れ、風に巨体が押される。
〈痛い……〉
かすかな声が届いた。
竜は町へ向き直った。
翼を一気に打ち下ろし、川面へ風を叩きつける。
岩陰の兵が身を縮め、砂利が音を立てて転がった。
黒い影が、丘を越えていく。
見張りは伏せたまま、戻ってくる音を待った。
今度は、聞こえなかった。




