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オブシディオン  作者: 空飛ぶワイン
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196/231

第196話 王都の声

「その弓の隊です。息子も、そこへ選ばれたんです」

女の手が荷車の縁をつかんでいた。

御者が手綱を引いても離れず、荷台へ身を乗り出す。寝かされていた兵が、焼けた腕を庇って奥へずれた。

「一緒に帰ってきたんでしょう?どこにいるんですか…?」


男の目が、女の顔から逃げた。


門兵が割って入ろうとしたとき、レオンハルトはその肩を押さえた。

城門には、戻った兵を捜す家族が集まっている。荷車が一台止まれば、その後ろも動かなくなった。


「車を脇へ寄せろ。怪我人を先に入れる」


供の兵が御者へ合図する。

女はようやく荷台から離れ、レオンハルトを見た。王子だと気づくと、慌てて膝を折ろうとする。


「そのままでいい。息子の名前を、こちらの者へ」


女は名を告げた。

年齢も、住んでいた通りも、聞かれる前に続ける。

「弓が得意で。選ばれたときは、喜んでいたんです。王のお役に立てると……」


家臣の筆が紙を擦る。

レオンハルトは、荷台へ目を戻した。

布を胸まで引き上げていた兵が、こちらを見ていた。何も言わず、ほんの少し首を振る。


「殿下」


女の声に、目を戻す。


「会わせていただけますか?」


門の向こうで車輪が軋んだ。

レオンハルトは返事を探し、見つけられないまま、供の家臣を呼んだ。

「帰還した者の記録を。ここで待つ家族にも、調べたことを伝えられるようにしてくれ」


女の手が、胸元へ下りた。

礼を言われても、レオンハルトはうなずけなかった。


荷車がまた動き出す。

負傷兵を乗せた車の後ろに、底板の見える車が続いた。麦も、矢の束も積まれていない。荷台の隅に、破れた盾が一枚転がっていた。


「荷は、後から来るのか?」

供の家臣が御者へ尋ねた。


御者は首を振る。

「舟も車も燃えました。馬を逃がせた分だけで、人を乗せて戻ったんです」


家臣は何か書きかけ、筆を止めた。

レオンハルトは、城へ続く通りを見た。出発の朝には、あそこを荷車の列が埋めていた。


*


帰還兵を収容した建物では、廊下にも担架が並んでいた。

レオンハルトは壁際へ身を寄せ、布を抱えて走ってくる女を通した。


「押さえてくれ! そこを離すな!」

戸口の向こうで、男が叫んでいる。


布を抱えていた女が引き返し、医師へ首を振った。

「これで終わりです。倉にも、もう……」


「なら、洗った布から持ってきてくれ!」


レオンハルトは供の家臣を振り返った。

「軍の倉へ。残っている布を出させろ」


「ここへ運んだのが、その分です」


女の抱えた布は、腕の中へ収まるほどしかなかった。

レオンハルトが返事をする前に、担架から伸びた手が、服をつかんだ。

供の兵が動きかけたが、制した。

横たわる兵の唇が震えている。

「……また、行くんですか……?」


レオンハルトは屈んだ。

男は答えを待たず、首を振った。

「もう、嫌だ。剣も捨てたのに……」

視線が、レオンハルトを通り越して戸口へ向く。

誰かが外から入ってきただけで、男の肩が跳ねた。


「今は休め。ここで手当てを受けるんだ」


服をつかむ指は、なかなか緩まなかった。

引き離さずに待っていると、外で声が上がった。


「王は、どうやって守ってくれるんだ!」

窓の下に、人が集まっていた。

「竜を怒らせて、ここへ来たらどうする!」


別の声が怒鳴り返す。

「領主たちが連れてきた竜だろう! 王を責めてどうなる!」


人垣が押し合い、手当ての品を運ぶ車が止まる。

門兵の一人が剣の柄へ手を掛けた。


「抜くな」

レオンハルトは窓を開けた。

「怪我人を運んでいる。道を空けてくれ」


「食べ物も、軍へ持っていかれたままだ!」

車の脇で、粉袋を抱えた男が叫んだ。

「次の麦が入るまで、待てと言われたんだぞ。あれまで燃えたなら、店をどうしろって言うんだ!」


人々が顔を上げた。

その隙に、門兵が車の前へ入る。車輪が少しずつ動き始めた。


「殿下なら、知っているんでしょう!」

人垣から、男が一歩出た。

「竜が来ても、大丈夫なんですか!」


レオンハルトの背後で、負傷兵がまた呻いた。

「……川の様子を、確かめさせる」


男は口を開きかけた。

だが、レオンハルトの顔を見て、何も言わなかった。


*


王の部屋に広げられていたのは、アウレリス領の地図だった。


「兄の兵が薄い所は、領内の者に確かめさせます。竜がアズレインにいる間に………」

フェリクスの声が途切れた。

戸口のレオンハルトへ目を向け、椅子から腰を上げる。

「殿下。帰還兵の受け入れは、いかがでしたか?」


「まだ続いている」

レオンハルトは地図の向こうにいる父を見た。

「兵を動かすお話ですか?」


「話を聞いているだけだ。座れ」


空いた椅子を示されても、足が進まなかった。

袖には、先ほど兵につかまれた皺が残っている。


フェリクスが地図へ手を添えた。

「王都に来た我が領の者も、帰郷を望んでいます。陛下にお認めいただいた私が戻れば、城を開く家臣もいるはずです」


「王軍を借りるのか?」


「お力をお貸しいただければ……」


「今、戻った兵を出すことはできない」

レオンハルトが答えると、フェリクスの視線が父へ移った。

王は何も言わない。


「王都の守備兵なら、損害は受けていません」


「兵だけで、城を攻めるのか?」

レオンハルトの声に、フェリクスの指が止まった。


「食糧は?運ぶ車と馬は、どこから出す?」


「それは、軍の倉から……」


壁際で控えていた家臣が、王へ一礼した。

王家の物資を管理する男だった。

「陛下。戻った御者たちにも確かめました。川下に集めていた兵糧と矢は焼け、川上へ回していた荷も戻りません。舟と荷車、曳いていた馬も、多くを失っております」


王が手を伸ばした。

差し出された帳面を開くと、挟まれていた荷の記録が机へ滑った。

「追加で送るはずの分は?」


「残っています。ですが、王都の守備兵と、集まった兵を食べさせる分もそこに含まれます。今、新しい遠征へ回せば、次の補給まで持ちません」


フェリクスの手が、地図から離れた。


「徴集を増やせ」

王は帳面へ目を落としたまま言った。

「竜の民の村々へ命じろ。武器も作らせる」


「すでに、納めさせる量は増やしております。今の分も、すべて届くには日がかかります」

家臣の声が小さくなった。


王は頁をめくった。もう一枚、荷の記録が落ちる。

「商人から買い入れろ」


「前の買い上げ分にも、支払いを待たせています。すぐに荷を出せる者は、代金を先にと」


紙をめくる音が止まった。


レオンハルトは、机へ落ちた記録を見た。

麦、干し肉、矢、盾。何台もの車へ積んで送り出した物が並んでいる。

戻った車には、怪我人しかいなかった。

「…手当ての布も足りません。守備兵の食糧を出せば王都が困る。倉に残せば、戻った者を養えない」


父の手元から、顔へ目を上げた。


「今は、フェリクスへ兵を貸せる時ではありません」


「……王都を飢えさせるつもりはない」

王が帳面を閉じた。

強い音に、フェリクスの肩が動く。

「王家の倉は開く。だが、一度に出すな。残りを確かめ、配る量を決めてからだ」


家臣が頭を下げた。

レオンハルトは椅子の背へ手を置いた。

「守備兵を出して、竜がここへ来たら?」


フェリクスが手を引いた。

王の目が、息子へ向く。

「民の前でも、そのようなことを言ってきたのか?」


「民から、聞かれたのです。竜が来ても大丈夫なのかと」

椅子の背を握る手を緩め、レオンハルトは続けた。

「帰還兵は、家族に話しています。娘を射たあと、竜が一頭で戻ってきた。弓を捨てても殺されたと」


「だから、何だ?」


「父上が竜を怒らせたと、王家を責める声が出ています」


王の顎がわずかに動いた。

「兵を焼いたのは竜だ」


「ええ」


「それを使っている四家に、責任を問うべきであろう?」


「ならば、四家へ使いを出してください」


フェリクスが顔を上げた。


レオンハルトは父から目を離さなかった。

「竜がどこにいるのか。娘は生きているのか。彼らに止められるのか。それだけでも、確かめなければなりません」


「返事を、信じるというのか?」


「確かめもせず、また兵と物資を失うわけにはいきません」


部屋が静まった。


王が椅子へ背を預けた。

レオンハルトは、言い過ぎたかと息を詰めた。それでも、引き下がる言葉を口にしたくなかった。


フェリクスが、その沈黙へ声を差し入れた。

「交渉に応じれば、兄は自分の支配を認められたと思うでしょう」

王へ向け、深く頭を下げる。

「私の父は、竜に焼き殺されました。陛下の弟君も、竜の民に殺されたのです。恐れたから退いたと知られれば、これから誰が王命に従うでしょうか?」


王の指が、椅子の肘掛けをつかんだ。


レオンハルトの胸にも、叔父の顔が浮かんだ。

「……忘れたわけではない」

声が低くなった。


フェリクスが顔を上げる。


「だが、次に兵を出せと言うなら、竜をどうするのか聞かせてくれ」


フェリクスの唇が開いた。


言葉が出る前に、レオンハルトは地図を指した。

「兄上には天馬もいる。その城を、誰に攻めさせる?」


王子へ向いていた目が、地図へ落ちた。

フェリクスは、もう城を指ささなかった。

「……十分な兵を、お貸しいただければ」


「何人なら、足りるんだ?」


「もうよい」

王の声に、二人とも口を閉じた。

肘掛けから離れた手が、机の上へ置かれる。

「ロデリクへ使いを出せ。まず、竜の動きと娘の生死を聞く」


「父上…!」


「戦場を通らせるな。領境から通行を求め、返事を持ち帰らせろ」


レオンハルトは頭を下げた。


王はフェリクスへ顔を向ける。

「返答が来るまで、兵は動かさぬ。まず王都の守りを立て直す」


フェリクスの首が、ゆっくりと下がった。

レオンハルトはようやく、椅子の背から手を離した。


*


「殿下」


廊下へ出るなり、フェリクスに呼び止められた。

家臣たちが離れるのを待ち、彼は声を落とした。

「我が領から来た者にも、お会いください。兄に従いたくないから、ここまで来たのです」


「話は聞く」


「その者たちを、見捨てるおつもりではありませんね?」


レオンハルトは彼へ向き直った。

「兵を貸す約束はしていない」


「このままでは、私は……」

途切れた言葉を、フェリクスは続けなかった。

城も領地も、今は兄の手にある。王に領主と認められていても、彼が広げられるのは地図だけだった。


向こうから、家臣が書類を抱えて来た。

帰還した兵の記録だという。

レオンハルトは受け取り、束の端をめくった。

門で女が告げた名前を捜す。

一枚目には、なかった。


「殿下…」


顔を上げると、フェリクスがまだ立っていた。


「会う日を、家臣へ伝えてくれ」

それだけ答え、レオンハルトは歩き出した。

次の紙をめくっても、捜している名は見つからなかった。

階下で、荷を運ぶ家臣たちが行き交っている。

兵を集めていた場所へ、今度は怪我人の寝具を運ぶ。

その脇では、倉を開く命令を持った使いが駆け出していた。

次の戦いへ送るはずの物を、帰還兵の手当てへ回さなければならない。

倉へ向かう使いの足音を、レオンハルトは階段の上から聞いていた。


*


ポルフィラが倒れてから、何度も朝が来た。


アズレインの川には、今日も黒い竜がいた。

見張りの兵は岩陰へ伏せ、頭上を過ぎる翼の音を数える。

遠ざかったと思って顔を上げると、もう一度、影が川を横切った。

焼けた岸には、舟も荷車も残っている。

誰も取りに行かなかった。


オブシディオンは、崩れた土手を見下ろした。

弓を構える人間はいない。

木立にも、川岸にも…


町へ戻れば、あの小さな胸が動いている…

呼んでも、目を開けない…


翼を傾け、もう一度回る。

黒い影が、川面で歪んだ。


*


息を吸った途端、脇腹が痛んだ。

ポルフィラは体を逃がそうとした。

左腕の奥へも痛みが走り、喉から声が漏れる。

「……っ」


近くで、椅子が鳴った。

肩へ手が触れ、びくりと身を縮める。右の脇腹が引きつれて、息が止まった。


「動かないで。ポルフィラ、私よ」


声を知っている。

けれど、顔が見えない…

瞼を持ち上げると、眩しさに涙が滲んだ。

滲んだ向こうに人影がある。

リゼリア。

名前を呼ぼうとして、唇だけが動いた。


「先生を。早く!」


足音が遠ざかる。

肩に触れた手は、そのままだった。


………どこにいるのだろう?

角につかまっていた。血で指が滑って、離れて……。

右手が寝台の布を掻いた。

硬い鱗は、どこにもなかった。


〈オブシディオン……〉


*


黒い翼が、大きく傾いた。


オブシディオンは首を上げた。

川の流れる音がする。岸には誰も立っていない。


〈ポルフィラ……!〉


返事を待った。

翼を打つことも忘れ、風に巨体が押される。


〈痛い……〉


かすかな声が届いた。


竜は町へ向き直った。

翼を一気に打ち下ろし、川面へ風を叩きつける。

岩陰の兵が身を縮め、砂利が音を立てて転がった。


黒い影が、丘を越えていく。

見張りは伏せたまま、戻ってくる音を待った。


今度は、聞こえなかった。

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