第195話 届いた知らせ
「ドラン。少し、お話を…」
仕事場へ入ってきたエミールは、炉の前まで来なかった。
供の家臣も戸口に残っている。
ドランは火箸で挟んだ鉄を台へ移し、クラウスの息子へ向き直った。
「ポルフィラが、王兵の矢を受けました」
炉の音だけが続いた。
「命は取り留めています。アズレインの町で、医師が診ています」
「……話は、できるんですか?」
エミールの返事が遅れた。
その間に、ドランの口の中が乾いた。
「知らせが出たときには、まだ意識が戻っていませんでした。左腕と右の脇腹に傷を負い、血を多く失ったと…」
ドランは、台の鉄へ目を落とした。
さっきまで、これを打ち終えてから家へ戻るつもりだった。
「向こうへ行く道は、通れますか…?」
「戦場を避ける道を手配します。泊まる場所も」
「妻も、一緒に……」
エミールはうなずいた。
ドランが炉へ向き直ると、背後から呼び止める声がした。
「もう一つ、お伝えしなければなりません」
王兵を襲った竜が、今も川を飛んでいる。
リゼリアの声でも止まらず、町と戦場を行き来しているという…
ドランは振り返った。
「ポルフィラのところには、戻っているんですね?」
「…はい」
「そうですか……」
火箸を掛け、炉を離れる支度をした。
娘があの大きな顔へ何かを話し、笑っていた姿が浮かんだ。
今、竜が呼んでも、あの子は答えられない。
*
「…腕と、脇腹…?」
ミレアが聞き返した。
ドランはうなずき、知っていることをもう一度話した。自分も、聞けば何かが変わるような気がしていた。
「俺たちも行く。明日の朝には、車を出してもらえる…」
ミレアは膝の上の縫い物を脇へ置いた。
棚から着替えを取り出し、そのうち一枚を広げる。
ポルフィラの服だった。
持っていってやろうと畳みかけ、袖の途中で手が止まった。
「腕が折れているなら、これ……着せるとき、痛むわね」
ドランは何も言えなかった。
ミレアは服を見つめ、やがて胸へ引き寄せた。
「あの子、痛かったでしょうね……」
小さな声だった。
ドランはその隣へ座った。
泣き出したミレアの肩に、手を置く。
支えているつもりだった。だが、妻が自分の腕へすがったとき、ドランも顔を伏せた。
戸口で足音が止まった。
布を届けに来たリナだった。
「……おばさん?」
ミレアが顔を拭うまで、リナはそこを動かなかった。
話を聞くと、抱えていた布をそっと下ろした。
「私、この間、文を書いたの。みんな元気だからって…」
「ええ。持っていってくれたわね」
「返事なんか、いつでもいいって……」
リナは唇を押さえた。
ミレアが手を伸ばし、その腕に触れる。
しばらくして、リナは落ちていた服を拾った。
畳む前に袖を確かめ、ミレアへ向き直る。
「これも持って行って下さい。着られるようになったら、きっと要るから…」
ミレアは、もう一度服へ手を添えた。
夕方には、セラとシオンも来た。
ガルは訓練から戻った服のまま、壁際に立っている。
「竜に乗っていたのに……」
それだけ言って黙った。
トーマが来たのは、外が暗くなってからだった。
家の前でガルから話を聞くと、荷車の予定を確かめに戻っていった。
翌朝、ドランとミレアが乗る車の荷台には、二人の荷物と友達から託された包みが載った。
トーマは仕事を調整し、最初の宿まで同じ便を手伝うという。
「着いたら、知らせてくれますか…?」
リナの声に、ミレアがうなずいた。
ガルは車の後ろへ手を掛け、道へ出るまで押した。
車輪が回り始めても、しばらく手を離さなかった。
*
「マティアス……」
テオバルトに呼ばれ、マティアスは顔を上げた。
手元の文には、ポルフィラの傷のことが書かれている。
読み終えたはずなのに、最後の行から目が離れなかった。
意識は戻っていない……
「娘のところへ行け。仕事は引き継がせる」
マティアスは口を開いた。
返答を待っている軍の書類が、机の端に積まれている。街道の守りも、まだ決まっていない所があった。
「コンラートを呼ぶ。おまえは、引き継ぐ順を決めてくれ」
テオバルトの声に、マティアスはうなずいた。
礼を言おうとすると、息がうまく続かなかった。
部屋の外に、エステリアがいた。
彼女にも、すでに知らせは届いていた。
「行くのでしょう?」
「はい。今、引き継ぎを」
エステリアは、持っていた文を見下ろした。
ポルフィラから届いた返事だった。
「私、これを読んで、安心していたのよ」
ユリウスを焼くよう命じたことも、アドリアンと向き合ったことも、あの子は自分の言葉で書いてきた。
苦しんでいる。それでも、人と話せている。
返事を書けば、また読んでもらえると思っていた。
エステリアの親指が、紙の縁を撫でた。
「会いたいって、書いてあるの……」
マティアスは、その文を受け取った。
見覚えのある文字が並んでいた。
川へ出る前に、娘が筆を持っていた。自分たちを思いながら、ここを埋めていた。
「……私も、行きます」
エステリアの声にうなずき、文を返そうとした。
だが、指が紙を離さなかった。
彼女は急かさず、待っていた。
*
オランデルのレオノーラは、ロデリクからの文を娘へ渡した。
イレーヌは読み進めるうちに、椅子の背から体を起こした。
「リゼリアでも、止められなかったのですか?」
レオノーラはうなずいた。
同じ文には、自領から送った兵の被害も記されている。
「竜が、こちらへ来たら……」
イレーヌの視線が窓へ向いた。
レオノーラも、つられて外を見た。いつもと変わらない庭の向こうを、人が荷を担いで歩いている。
「来ないとは、言えないわ…」
それだけは、はっきり答えた。
イレーヌの顔が強張る。
「ロデリクに確かめましょう。今どこを飛んでいるのか、どの道なら通れるのか。ポルフィラの手当てに足りない物があれば、それも…」
娘が文へ目を戻した。
レオノーラは机の上を空け、兵の報告を手元へ寄せた。
*
ヴィオレスタ領の検問では、王領から逃げてきた天馬の民の商人が領兵に食い下がっていた。
「王兵でも止められなかったんだぞ。検問で足止めをくっている間に来たら、どうする?」
荷車の後ろで、子供が泣き始めた。
歩いてきた竜の民の母親が、抱き上げようとして膝をつく。
商人の連れが振り返った。
「あいつらまで、この町に入れるのか?」
領兵が一歩、その間へ入った。
「順番に確かめる。道を空けてくれ」
報告を受けたリュシエンヌは、家臣へ尋ねた。
「戦場を見てきた者はいるの?」
「まだおりません。王都へ竜が向かったという話もありますが…」
「では、確かめずに広めないで。ロデリクへ使いを出してちょうだい」
竜が来れば、この城では防げない。
地図へ置いた指を引き、領境の報告へ目を戻す。
「武器は預かる。泊まる場所を決めて、町へ通して」
「竜の民の家族も、ですか?」
「ええ」
家臣は返事をためらった。
「王領から、返せと言ってきたら……」
「私へ知らせて」
家臣が出ていくと、リュシエンヌは窓へ歩いた。
遠くの空に黒い影が現れないか確かめた。
*
アズレインの町では、馬の餌を積んだ車が、建物の前を通っていた。
リゼリアは窓からそれを見送り、空き地へ目を移した。
オブシディオンは、また川へ行っている…
戦いの準備が続いていた頃、ポルフィラから狩りへ出たと聞いたことがあった。
遠い土地の、野生の天馬。
その名を聞いて、思わずシルヴァを見たことも覚えている。
オブシディオンは今、町と川を往復するだけだった。
「何かお入り用ですか?」
ロデリクの家臣が、戸口から声を掛けた。
リゼリアは空き地を見たまま答えた。
「竜が、食べに行っていないの」
「肉を用意させましょうか?」
リゼリアは振り返った。
そうしてもらえばいいのだろうか?
この町の食糧にも限りがある。何頭分を運べばよいかも分からない。
「……待って。私には、分からない」
家臣は黙って待った。
ポルフィラなら、尋ねられる。
何を食べるのか。今、食べたいのか。狩りへ行かなくて大丈夫なのか。
リゼリアは寝台へ戻った。
額に貼りついた髪を払っても、ポルフィラは目を開けなかった。
「あなたがいないと、聞くこともできないのね……」
右手の指先へ触れた。
軽く握り返してくれるのを、また待ってしまう。
外で声が上がった。
車輪が軋み、誰かが馬を引いて建物の陰へ急いだ。
黒い翼が下りてくる。
家臣が戸口へ立ちかけ、足を止めた。
リゼリアも腰を浮かせたが、ポルフィラの手を離せなかった。
大きな顔が、戸口へ近づいた。
泥と煤のついた顎。その上で、紫の目が寝台を捜す。
「ここにいるわ…」
リゼリアが脇へ寄ると、竜の目が止まった。
しばらく、静寂が続いた。
背後で家臣が息を吐いた。
その音に、自分も息を止めていたと気づく。
「お父さんたちに、知らせたわ…」
リゼリアは寝台へ話しかけた。
「マティアスにも、エステリアにも。きっと、会いに来てくれる」
窓の外で、鉤爪が土を押した。
リゼリアは顔を上げた。
竜はポルフィラを見つめている。
この顔が近づくたびに、体が強張る。
それなのに、追い払いたくはなかった。
「まだなの。……もう少し、一緒に待っていて…」
言葉の届かない大きな顔へ、そう頼んだ。




