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オブシディオン  作者: 空飛ぶワイン
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第194話 誰も入れない戦場

弓兵隊が焼かれた日の夕刻、オブシディオンは町へ戻った。

空き地にいた男たちが担架を止める。寝かされていた負傷兵まで顔を背け、黒い翼が下りてくるのを待った。


竜は建物の前へ首を伏せた。

開いた戸口の向こうに、ポルフィラがいる。

〈ポルフィラ……?〉


胸が動いた。

けれど、顔は横を向いたままだった。


〈戻ったぞ…〉


返事はなかった。


左腕は布と木で支えられ、右の脇腹にも厚く布が当てられている。鱗を濡らしていた血の匂いが、ここにも残っていた。

医師が寝台のそばへ寄った。

ポルフィラの手を取り、顔を覗き込む。

その口が動いた。人間の声が、幾つも重なった。


意味は分からなかった。

オブシディオンは、もう一度呼んだ。

小さな指は動かなかった。


*


川上の王軍には、退却の命令が回っていた。

王領側の岸で、兵が舟から荷を引き上げている。川下から上がる煙を見て、指揮官が物資を捨てるよう怒鳴った。

「食糧だけ持て! 怪我人を先に車へ乗せろ!」


一人の槍兵が、泥へ食い込んだ車輪を押した。

荷車が動かない。

荷台で負傷兵が呻き、押していた仲間が歯を食いしばった。

「もう一度だ。せえの――」


川面に影が走った。


誰かが空を見た。

荷車の後ろで、槍が一本倒れた。


黒い竜が、川下から来る。

翼を打つたびに、巨体が近づいた。


逃げるには街道まで土手を上がらなければならない。

その道には、荷を積んだ車が詰まっていた。


「荷車を捨てろ!」

指揮官の声が裏返った。

槍兵は荷台へ手を掛けた。負傷した仲間を引きずり下ろそうとして、その腕にしがみつかれる。


「置いていくな!」


「分かってる、手を離せ!」


頭上で翼が大きく開いた。

風に旗が千切れそうにはためき、川岸の砂が顔へ叩きつけられる。


竜の胸が膨らんだ。

低い音が、空から落ちてきた。

槍兵の腹の底まで震える。

唸りは途切れずに太くなり、喉を反らした竜の顎が開いた。


「伏せろ!」


黒い炎が、岸へ突き刺さった。

轟音とともに舟が火に包まれた。

並べてあった盾が倒れ、その陰に屈んだ兵ごと炎に覆われる。

熱風に押され、槍兵は荷車の横へ転がった。


顔を上げると、川際にいた仲間が走っていた。

服へ火が移っている。

水へ飛び込む寸前、もう一度炎が岸を薙いだ。

槍兵は這って荷台の下へ潜った。

頭上で馬が絶叫した。

車が大きく揺れ、すぐ横へ燃えた覆いが垂れてくる。

熱い。

息を吸えない。

外へ転がり出たところへ、後ろから兵がぶつかった。

二人で泥へ倒れる。押しのけて立とうとした足元が、突然揺れた。


竜が降りた。


後脚が河原をえぐり、泥と石が跳ねた。

岸へ引き上げていた舟が翼に押され、横倒しになる。

その下から伸びた手が、土を掻いた。


「武器を捨てろ! 捨てるんだ!」

指揮官が剣を投げた。

槍兵も手を開いた。

持っていたはずの槍は、もうどこにもなかった。


竜の顔が下がる。

紫の目が、こちらを向いた。


槍兵は両手を上げた。

指揮官も同じように手を上げ、何か叫んでいた。


胸の奥で、再び低い音が鳴った。


槍兵は立ち上がった。

街道へ走る兵の背を追う。

だが、前の男が立ち止まり、引き返してきた。


太い尾が、土手への道を塞いでいた。


横へ逃げた列へ、尾が叩き込まれる。

人が宙へ投げ出され、積み荷を捨てた荷車へ落ちた。

折れた車軸が跳ね、道が潰れる。

槍兵は川へ向き直った。

そこにも火があった。

背後で顎が開く音がした。

振り返るより先に、黒い炎に包まれた。


*


アズレイン側の高台で、見張りの兵が旗を握り締めていた。

川向こうの岸が燃えている。

人の走る姿は、もう見えなかった。


竜は炎のそばを歩いた。

首を伸ばし、岸の窪みを覗く。

倒れた荷車の向こうへ回ったあと、短く火を吐いた。


見張りは、旗を下ろせなかった。

腕が震え、布ばかりが風にはためく。


黒い翼が広がった。


男は岩陰へ身を投げた。

背中を丸め、両腕で頭を覆う。

翼を打つ音が、川を越えて近づいた。


頭上を影が通った。


いつまで待っても、火は来なかった。

男は少しずつ顔を上げた。


竜は川に沿って飛んでいた。

一度大きく回り、さっき焼いた岸の上へ戻っていく。


見張りは立ち上がれなかった。

自分を見つけなかったのか。

見つけて、通り過ぎたのか。

どちらなのか、分からなかった。


*


「川上も、焼かれました」


報告を聞いたロデリクは、砦の詰所から外へ出た。

遠くに黒い翼が見えた。

もう戦いの音はしない。

それなのに、竜は川から離れなかった。


「王兵は逃げたのではなかったのか」


「逃げる支度をしていたようです。ですが、あの場所から出られた者は……見えませんでした」

伝令はそれきり黙った。


そばにいたアドリアンが、ソレインの手綱を握り直した。

「私が上から確かめる」


「竜へ近づくつもりか」

ロデリクの問いに、アドリアンの足が止まった。


「近づかなければ、負傷者がいるかも分からない」


「リゼリアも止められなかった。おまえなら襲われないと言えるか」


答えはなかった。

ソレインが鼻を鳴らし、川の方へ耳を向けた。


詰所の前で、兵の声が上がった。

「まだ戻らない者がいます!」


アズレインの兵だった。

手には、担架に使うつもりの布を持っている。

「下の河原に、うちの隊が二人残っています。自分が場所を知っています」


「こちら岸か」


「はい。負傷者を捜して、岩場まで下りたはずです」


ロデリクは川を見た。

竜が低く下り、翼の端が川面をかすめた。

そこに誰かがいるのか、ここからは分からなかった。

「今は行かせられん」


「王兵ではありません。こちらの兵です!」

男の声が大きくなった。

すぐに唇を噛んだが、布は離さなかった。


ロデリクは男へ向き直った。

「私にも、味方を竜が見分けるか分からない」

言って、喉が詰まった。

ポルフィラがいれば……

そう考えずにはいられなかった。

「竜が町へ戻ったら、こちら岸の捜索を出す。だが今は待て。おまえまで失いたくない」


男は俯いた。

担架の布が、握った手の中で潰れた。


*


日が傾いても、川上の王軍から帰還する兵はいなかった。

対岸の見張りが見ていた退却部隊は、岸から街道へ上がる前に全滅していた。


その岸を、オブシディオンは何度も回った。

時折、川下へ戻る。

そのたびに、岸に残ったアズレイン兵が木陰や岩の後ろへ伏せた。


王軍の別の見張り所でも、同じ黒い翼が目撃された。

合図を送るはずの火は焚かれなかった。

人のいる場所を知らせるようで、誰も火打ち石を出せなかった。

夜を待って持ち場を離れた王兵が、その光景を王領の奥へ伝えた。

竜は、まだ川にいる。

乗り手もなく、何を捜しているのか分からないまま…


*


町では、リゼリアが寝台のそばに座っていた。

ポルフィラの右手に触れる。

昼間より温かい。それだけのことを、何度も確かめた。

「ポルフィラ。私よ」


瞼は開かなかった。


医師が布を替えると、脇腹の傷が見えた。

リゼリアは息を詰め、すぐに顔を戻した。目を逸らしたことを気づかれたくなかった。

「まだ、目を覚まさないんですか?」


「血を多く失っています。手当ては続けます。今は、そばで様子を見ていてください」

医師はポルフィラの手首へ指を添えた。

リゼリアも黙って、その顔を見た。

戸口へ、ロデリクの使いが来た。

川上で起きたことを聞き、リゼリアは右手を握り締めた。

「また、襲ったの……」


男はうなずいた。

「御当主から、クラウス様、レオノーラ様、テオバルト様へ知らせを出します。ポルフィラ様の容体も、医師に確かめるよう命じられました」


リゼリアは使いの顔を見上げた。

「クラウス様には、ドランとミレアへも知らせていただいて。テオバルト様からは、マティアスとエステリアへ」

名を告げるたびに、胸が苦しくなった。

こんな知らせを、受け取らせることになる。


「まだ、意識は戻っていないと伝えるのですね」


「……ええ」

助かると聞いた。

けれど、今すぐ目を開けるとは、誰にも言ってもらえなかった。

使いが医師のもとへ向かったあと、リゼリアは寝台の横へ戻った。

包帯の隙間から出たポルフィラの指は、力なく曲がっていた。


*


外の馬が騒いだ。

御者の怒鳴る声がして、戸口が暗くなった。


オブシディオンが戻ってきた。


リゼリアは立ち上がった。

大きな顔が建物へ近づくと、布を運んでいた手伝いの男が壁際へ下がった。

竜の顎には、昼間にはなかった泥と煤がついていた。


「……ここにいるわ」

リゼリアは寝台を示した。


オブシディオンの目が、その先へ向く。


「まだ、目を覚まさないの。でも、先生が診てくれている。だから……ここで待っていて」


紫の目は、ポルフィラから動かなかった。

返事を取り次ぐ声もない。


リゼリアは戸口を空け、寝台のそばへ戻った。

自分の脚が震えていることに、座ってから気づいた。


*


〈ポルフィラ……?〉

オブシディオンは呼んだ。


人間がそばを動いている。布を運び、彼女へ触れ、また離れていく。

顔を寄せている女を見た。

町へ運んだときにも、ここにいた。

今も、ポルフィラの小さな手に触れている。


喉の奥まで上がりかけた唸りを、止めた。

〈ポルフィラ。ここにいるぞ……〉


胸が、ゆっくり上下した。

生きている。

それでも声は返ってこなかった。


角につかまっていた指が、外れたときのことを覚えている。

痛いと届いた声も…

最後に、怖いと言った…

オブシディオンは首を伏せた。

人間たちが動くたびに、紫の目だけが追った。

外では、川へ向かう担架が用意されていた。

竜が戻った隙に仲間を捜しに行く兵たちが、声を抑えて走り出す。


竜は動かなかった。

〈ポルフィラ……?〉


寝台の上から、返事はなかった。

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