第193話 乗り手のいない竜
対岸の土手で、王兵が押し返してきた。
竜が去ったあと、アズレインの兵は少しずつ後退していた。王軍の指揮官は剣を振り、盾の列を前へ進めさせる。
川向こうの選抜弓兵隊は、矢を補充していた。
射手たちの肩から、張り詰めていた力が抜け始めている。娘は倒れた。竜も逃げた。誰かがそう言い、何人もがその言葉を繰り返した。
「列を崩すな。次は天馬達だ」
隊長は部下を叱った。
上流では、まだ二頭の天馬が戦っている。こちらへ来れば、同じように乗り手を射る。
そう考え、次の矢を指に挟んだときだった。
王領側の河原で、兵が空を指した。
ひとつの指が上がり、次々に顔が同じ方向へ向く。
隊長は、町へ続く丘を見た。
黒い翼が、丘の上へ現れた。
「竜だ!」
声が上がっても、隊長はすぐには命じられなかった。
角の後ろに娘の姿がない。
首を高く上げた竜が、川を越えて真っすぐ来る。
「……乗っていない」
そばの兵が呟いた。
誰も、娘の生死を確かめてはいなかった。
だが、今はその姿が見えない。鱗を狙うな、乗り手を射ろと、何度も教えられた。その相手がいなかった。
「構えろ!」
隊長は怒鳴った。
弓を上げる者と、逃げようとする者がぶつかる。
竜は、上空で回らなかった。
翼を畳み、こちらへ急降下してきた。
*
オブシディオンには、弓が見えていた。
河原へ出た列。
木の下で待つ列。
その奥にも、同じ弓を持った人間達が大勢いた。
ポルフィラへ矢を放った場所から動いていない…
人間たちの口が動く。
その声は、言葉にならない。
角をつかんでいた小さな手と、血に濡れた姿だけが、目に浮かんだ。
オブシディオンの胸が大きく膨らんだ。
喉の奥よりも、さらに深い所で音が生まれた。
低く、重い唸りが胸骨を震わせ、開きかけた顎の間から漏れる。
息を吸い切っても、その音は止まらなかった。
牙が剥き出しになり、首の鱗が押し広げられていく。
あの手から、力が抜けた…
呼んでも、返事がなかった…
唸りが一段と太くなった。
逃げる人間へ顎を向け、翼を一気に開く。
次の瞬間、黒い炎を吐き下ろした。
*
腹へ響く轟音が、隊長の号令を潰した。
黒い奔流が河原へ叩きつけられ、射手の列を丸ごと吞み込む。
人の背より高く炎が跳ね、矢を満載した荷車まで押し包んだ。
隊長は顔を覆い、横へ転がった。
閉じた瞼の裏まで熱い。
息を吸おうとして、喉が引きつった。
すぐ隣で弓を取り落とした兵が、自分の服を叩いている。
だが、袖を叩いた手にまで火が移った。
男は膝から崩れ、声を裏返らせて転げ回った。
荷車の板が次々に爆ぜた。
火を噴く車輪が外れ、逃げる兵の足へぶつかった。
倒れた男へ手を伸ばした仲間が、熱に顔を背ける。
その二人にも黒い炎が覆いかぶさった。
「下がれ! 林へ入れ!」
後ろの列が振り返った。
逃げる射手が、まだ弓を構えている仲間へぶつかる。
矢の束が足元へ散り、踏み折られた。
竜の首が横へ振られた。
吐き続ける黒い炎が、逃げる列を追って林へ突き入る。
木陰へ駆け込んだ兵たちの頭上で枝が裂け、燃えた葉が降り注いだ。
幹の向こうへ隠れた男の両脇から、火が回り込んだ。
背へ炎を浴びて飛び出したところへ折れた枝が落ち、押しつぶされる。
その体を避けようとした者まで、根につまずいて倒れた。
木立は、盾にならない。
隊長は土へ顔を押しつけた。
頭上を通る炎の轟きに、仲間の悲鳴が途切れ途切れに混じった。
隊長が立ち上がりかけると、上から地面を叩くような轟音が来た。
竜が降りた。
後脚が河原をえぐり、砂利と人が跳ねた。
逃げ道にいた兵が、転がってきた仲間の体を受け、後ろへ倒れる。
翼の鉤爪が、その二人に突き刺ささった。
間近で、紫の目が開いていた。
隊長は弓を引いた。
腕が震え、矢が落ちた。
拾おうとした手が、隣の兵の靴に踏まれる。
悲鳴を上げながら、男は止まらずに走っていった。
竜の首が、その列を追った。
低い唸りが、また胸の奥で鳴り始める。
「伏せろ!」
隊長は叫びながら、両手で頭を抱えた。
次の瞬間、耳を打つ轟音とともに黒い炎が噴き出した。
炎は逃げる兵を追い越し、林の奥まで一直線に突き抜ける。
木々の隙間が黒く埋まった。
炎に吞まれる寸前、人影がいくつも両腕を上げた。
*
リゼリアが川へ戻ったとき、対岸の林は燃えていた。
黒い炎が途絶えることなく、木々を貫いていた。
燃える枝の間で、人影が倒れる。
炎が途切れたあとも、折れた幹が地面へ激突する音が続いた。
シルヴァが急に高度を上げた。
下から吹き上がる熱気に翼をあおられ、リゼリアは鞍へ身を伏せる。
頬が焼けるように痛んだ。
これほど離れているのに……
焦げた臭いを吸い込み、咳き込んだ。
オブシディオンは、火の前に立っていた。
背には誰もいない。
人が逃げれば顔を向け、まだ弓を持つ者へ首を伸ばす。
「オブシディオン!」
リゼリアは叫んだ。
竜の目が、ほんの一瞬こちらへ向いた。
「ポルフィラは生きているわ! 戻って!」
返事はなかった。
その目が地面へ戻る。
鉤爪を支えに体の向きを変えると、尾が河原を払った。
王兵の列へ、太い尾が叩き込まれた。
盾が割れ、人が横へ吹き飛ぶ。
木の幹へぶつかった体が、根元へ崩れた。
弓を捨てて走っていた者も、前を行く仲間に巻き込まれた。
リゼリアは手綱を握り締めた。
シルヴァを近づければ、自分たちまで巻き込まれる。
それでも、声だけは届かせたかった。
「もう、やめて!」
竜が顎を開いた。
太い首が反り、剥き出しの牙の奥から咆哮が噴き上がった。
リゼリアの胸まで震えた。
叫んでいる自分の声が聞こえない。
シルヴァが大きく体を傾け、彼女は鞍へしがみついた。
下では王兵たちが耳を塞いでうずくまっている。
その間を、オブシディオンは踏み進んだ。
弓を捨てた手がいくつ上がっても、足を止めなかった。
*
隊長は、膝を引きずって木の根元へ下がった。
立とうとすると、片脚が折れるように曲がった。
痛みで息が止まり、両手を地面へつく。
目の前に、見覚えのある矢が落ちていた。
王が職人を集め、何度も作り直させた矢だった。
これを使えば、娘も天馬の騎手も殺せる。
そう教え、部下を並べたのは自分だった。
弓は、もう役に立たなかった。
残った射手が何人か、竜へ矢を放った。
鱗に弾かれ、足元へ落ちる。
一人が次の矢を取ろうとしたとき、竜の後脚が前へ出た。
盾を持ち上げる間もなく、踏み潰される。
地面が揺れ、隣の兵は顔を背けた。
その肩へ黒い顎が向く。
男は弓を投げ、川へ走った。
川岸には、すでに人が殺到していた。
浅瀬は上流なのに、そこまで走る余裕がない。
鎧のまま水へ入る者、舟を引き寄せようと仲間を押す者。
足の立たない所へ落ちた兵が、何度も水面へ腕を伸ばした。
隊長は木へ背を押しつけた。
近づく地響きに、目を上げる。
黒い竜がいた。
鼻先が下がり、大きな口の奥が見えた。
「待て……」
声は震えていた。
娘を射たこと以外、竜が戻ってきた理由を考えられなかった。
助かりたい……助けてくれ……!
口が動いても、声が出なかった。
隊長は片手を上げた。
竜の胸の奥で、あの音が鳴った。
逃げなければ……
地面を蹴ろうとした脚に、激痛が走った。
背中には木の幹がある。
目の前で大きく開く顎を、どうしても見てしまう。
熱が、先に指へ届いた。
黒い炎が噴きつけられた。
木の幹へ激突する轟音に、隊長の最後の叫びが消えた。
*
弓兵を守るため、王領側の河原には盾兵と槍兵も控えていた。
その一人が、林から逃げ出してきた射手へ手を伸ばした。
「こっちだ!」
射手は口を開いた。
声が出るより先に、背後から黒い炎が迫った。
盾兵は土手の下へ飛び込んだ。
頭上で、空気が唸った。
顔を押しつけた土が熱くなる。
背中へ燃えた枝が落ち、男は悲鳴を呑んで肩を振った。
さっきまで立っていた場所に、もう射手の姿はなかった。
竜が進んできた。
翼の鉤爪が岸の土を崩し、尾が、後ろへ下がろうとする盾兵の列を横から打ち払った。
盾ごと飛ばされた仲間が、舟を押さえていた兵へ激突する。岸から離れかけた舟が傾き、人が水へ落ちた。
「槍を並べろ! 下がるな!」
指揮官の声に、盾兵は顔を上げた。
河原の上に王軍の旗があった。
その下で、まだ兵が集まろうとしている。
竜の首が動いた。
胸の奥から、低い音が響き出す。
盾兵は指揮官へ叫ぼうとした。
喉が引きつって、息しか出なかった。
黒い炎が、旗の下へ叩き込まれた。
掲げていた槍も、盾も、人の姿も、轟音の向こうへ消えた。旗竿が傾き、火をまとった布が地面へ落ちる。
男は四つん這いで土手を上がった。
走れと頭の中で叫んでも、脚がうまく動かない。
背後でまた地面が震え、ようやく立ち上がった。
街道へ走る仲間の背を、必死に追った。
川下の王軍は総崩れだった。
アズレイン側へ渡っていた王兵まで、対岸の炎を見て持ち場を離れた。戻りの舟へ飛び乗る者と、川へ押し戻される者がぶつかり、岸の浅い場所にも人が倒れていく。
味方を呼ぶ声より、舟を出せと怒鳴る声が大きくなった。
その混乱を、アドリアンは上空から見た。
上流の渡河が鈍ったのを確かめ、ソレインで下流へ回ってきたところだった。
王領側の林が燃えている。
炎のそばに立つ黒い竜の背には、誰もいなかった。
下から、ロデリクの怒鳴る声がした。
「川へ出るな! 追うな、岸を守れ!」
アズレインの兵も、足を止めていた。
竜の民の舟乗りが、矢を持ったまま対岸を見つめている。
そばの天馬の民の兵が弓を下げさせようと腕へ触れたが、舟乗りは動かなかった。
どちらも竜から目を離せずにいた。
リゼリアが、ロデリクの旗のそばへ降りた。
鞍を下りようとして、膝が支えきれずによろめく。
「ポルフィラは町にいます。矢を二本、受けました。でも、医師は命に別条はないと……」
ロデリクの顔が強張った。
町へ伝令を送るよう命じ、それから対岸へ目を戻す。
「竜は、彼女を置いて戻ってきたのか」
「はい。止めようとしました。でも……」
言葉が続かなかった。
声を掛けたとき、紫の目はこちらを見た。
それでも、言葉が届かなかった。
アドリアンもソレインを降ろした。
「上流の王兵も舟を戻し始めた。だが、向こう岸にはまだ部隊がいる」
「こちらは岸を守る。今、追わせるわけにはいかん」
ロデリクは隊長たちを呼び寄せた。
退く王兵を川まで追わず、こちら岸で武器を捨てた者は捕らえる。味方の負傷者を先に運べと、指示を飛ばす。
対岸で、また何かが崩れ落ちた。
王軍の街道へ逃げる人影が見えた。
倒れた仲間を担ぐ者もいた。足を引きずる兵が呼びかけても、振り返れずに走り去る者もいた。
川下へ投入された王兵は、半数近くが死傷し、残った隊も指揮を失っていた。
選抜弓兵隊から逃げ延びた者は、一人もいなかった。
林に伏せた射手も、川へ入った射手も、戻らなかった。
*
オブシディオンは、焼けた河原を見下ろした。
立って弓を構える人間は、もういない。
足元には折れた弓が幾つもあった。木の陰にも、川岸にも、倒れた人間が動かずにいる。
風が吹き、煙が首を撫でた。
鱗の焦げた臭いではなかった。
人間の血と、焼けた布と木の臭いだった。
ポルフィラの体を支えた角に、もう重みはなかった。
血の跡だけが残っていた。
小さな指が外れたことを、覚えている。
怖いと届いた声も…
ポルフィラと呼びかけるが、返事は届かない…
オブシディオンは顔を上げた。
川のこちら岸に、人間たちが並んでいた。灰色の天馬も、こちらを見ている。
誰も、近づいてこなかった。
翼を広げると、土手にいた兵まで身を屈めた。
竜は、町へ向かった。
その下では、王兵もアズレインの兵も、黒い影が通り過ぎるまで動かなかった。
*
数日後、王都の門へ敗残兵がたどり着いた。
揃った隊列はなかった。布で腕を吊った兵、片方の靴を失った兵。荷車の上には、揺れるたびに呻く負傷者が横たわっている。
門のそばにいた女が、一人の兵へ駆け寄った。
夫の名を告げ、同じ隊ではなかったかと尋ねる。
兵は女の顔を見たまま、答えられなかった。
河原の土手へ飛び込んで助かった盾兵は、その日のうちに城へ呼ばれた。
王の前で膝をついても、体の震えが止まらない。
両手を膝へ押しつけていると、王が尋ねた。
「弓兵隊はどうした」
「全滅です。戻った者は、おりません」
そばに控えた家臣の筆が止まった。
「娘を射たのだな?」
「竜が運び去るのを見ました。戻ってきたときには……乗っていませんでした」
「では、誰が竜に命じた?」
兵は首を振った。
黒い顎が開いた光景が蘇り、息が詰まる。
「誰も、いませんでした。胸の奥で音がして、それから、火が……」
膝の上の指が、布を強く握った。
「木の陰に入っても駄目でした。弓兵の後ろにいた我々まで、焼かれました。弓を捨てた者も……」
言葉が途切れた。
王はしばらく黙っていた。
娘を殺せたかは分からない。
だが、娘のいない竜は、自分の意思で戻ってきた。
王が育てた弓兵隊を焼き尽くし、川下の軍まで崩して去った。
「この報告を、みだりに外へ漏らすな」
兵は深く頭を下げた。
返事をしようとして、喉が鳴っただけだった。
城の外では、すでに負傷兵の家族が話を聞いていた。
竜の背には誰もいなかった。
それでも竜は来た。
その夜も、王都のあちこちで同じ話が囁かれた。




