第192話 返らない声
土手の下で、負傷者を支える兵が足を滑らせた。
三人の体が傾く。
ポルフィラは息を呑み、角へ回した腕に力を込めた。
戻った兵が一人、男の背を押した。
ようやく土手を上り切る。
味方の盾が三人の前へ入り、追ってきた王兵の槍を受け止めた。
助けられた…
ポルフィラは顔を上げた。
そのとき、川向こうの木立から、兵が出てきた。
一人ではない。
何人もが間隔を空けて膝をつき、その後ろで別の列が弓を持ち上げる。
〈オブシディオン、川向こう!〉
首が動いた。
その向こうで、一斉に弦が引かれた。
*
「射て!」
選抜弓兵の隊長が、手を振り下ろした。
強化された矢は、威力を損なうことなく川を越えた。
狙うのは竜の頭ではない。その後ろに見える娘だった。
最初の矢が、角へ当たって折れた。
鱗の上を、次の矢が滑る。
娘が伏せる。
射手の何人かが、恐怖で弓を下ろしかけた。
竜の顔がこちらへ向いていた。
「続けろ! 頭を上げるな!」
二列目が前へ出た。
下流の木立へ回した射手たちも、弓を構えていた。
*
ポルフィラは首へ伏せた。
角のすぐ上で矢が砕け、破片が頬へ食い込む。顔を上げる余裕もなかった。
〈飛ぶぞ!〉
オブシディオンが身を起こした。
その瞬間、左腕へ強烈な衝撃が食い込んだ。
「――っ、あああ!」
角を抱えていた腕が、後ろへ弾かれる。
右手だけで体を支え、ポルフィラは脚を締めた。左腕を戻そうとした途端、肩から肘まで、骨をねじられるような痛みが走った。
腕が、言うことを聞かない…
左の上腕に、矢が深く刺さっていた。
袖が裂け、血が肘へ流れている。ぶら下がった腕が揺れるたびに、矢柄まで動いた。
「や、動か……っ」
口から出たのは、途切れた悲鳴だった。
動かないでと言いたかった。
けれど、オブシディオンが動かなければ、次の矢が来る。
〈ポルフィラ!〉
〈腕が……腕、痛い……!〉
オブシディオンが首を反らした。
滑りかけた肩が、角の内側へ受け止められる。その拍子に左腕が鱗へ擦れ、ポルフィラは喉を引きつらせた。
〈頭を下げろ!〉
右腕だけで体を引き寄せる。
首へ頬を押しつけても、左腕の震えが止まらなかった。痛みを堪えようと噛んだ唇から、血の味がした。
頭上で、矢が鱗を叩いた。
オブシディオンが身を低くして背をかばう。その顎の横を、何本もの矢が通り抜けた。
対岸で、また声が上がった。
下流にも、弓がある…!
ポルフィラが気づいたのと、後脚が地面を蹴ったのは同時だった。
右の脇腹へ、背中寄りから二本目の矢が突き立った。
腰の奥まで、熱いものがねじ込まれる。
反射的に身をよじり、叫んだ。傷の中で矢が動き脇腹をえぐる。
「いや、ああっ……!」
息を吸おうとした腹が、痛みに引きつった。
脚で踏ん張っても、上体を起こしていられない。体が横へ崩れた。
〈動くな!〉
首の角度が変わり、背中が角の内側へ支えられる。
その間も、左腕の重みは傷を引っ張り続けていた。右の脇腹は、少し姿勢が変わるだけで、焼きゴテで体内を抉られるような激痛がはしる。
逃げ場がなかった。
どこへ体を預けても、傷ついた腕が揺れるか、脇腹が引きつれてしまう。
ポルフィラは右手で服をつかんだ。
指の下がぬるい。
血が染みた布が、脇腹へ貼りついていた。
〈ポルフィラ。私につかまれ〉
角へ手を伸ばす。
握れない。血で指が滑る。
爪を立てるように引っ掛け、ようやく体を支えた。
川が遠ざかる。
左腕が揺れた。
声を上げたくても、息を吸う途中で喉が震え、短い呻きしか出なかった。
涙で、鱗が滲んだ。
〈痛い……オブシディオン、痛い……〉
右の脇腹から突き出した矢が見えた。
これがあるから痛いのだと思った。
指を伸ばし、触れかける。
ほんの少し揺れただけで、脇腹の奥で激痛が弾けた。
体が突っ張った。
左腕まで引かれ、視界が白く潰れる。
〈触るな! そのままでいろ!〉
もう触りたくなかった。
動きたくなかった。
けれど、どうすれば痛くなくなるのか、分からなかった。
歯が小刻みにぶつかる。
右手まで、力が抜け始めていた。
〈怖い……〉
声を届けたあと、息がうまく入らなくなった。
目の前の角が二重に揺れ、体が痙攣し始める。
ポルフィラは、つかまっているはずの指を確かめようとした。
その指も、もう見えなかった。
*
呼びかけへの返事が途絶えた。
オブシディオンは首を反らし、角の内側で肩を支えた。
角の隙間へ、彼女の体を横たえる。
血の匂いがする。
左腕にも、右の脇腹にも、細い棒が刺さっていた。
もう一度、名を呼ぶ。
小さな手は、動かなかった。
眼下の人間が叫んでいる。
こちらを指さす者も、弓を上げ直す者もいた。
声は聞こえる。けれど、意味が分からない。
ポルフィラの意識とともに、人間の言葉も途切れていた。
オブシディオンは、矢が来た木立へ顔を向けた。
何列も並んだ射手が見える。
そこへ下りれば、踏み潰せる。首を伸ばせば、火が届く。
角の内側で、ポルフィラが小さく息を吐いた。
竜は首を戻した。
まだ、生きている。
体が滑らない角度を保ち、大きく翼を打った。
今は、彼女を運ぶ。
負傷した人間を載せた車が向かう、砦の後ろの町へ。
*
下流から飛び立ったオブシディオンを、リゼリアが見つけた。
川へ向かっていない。
頭を低く保ち、町へ続く丘へ進んでいる。
「アドリアン!」
ソレインが近づく。
リゼリアは町の方を指した。
「様子がおかしい。ポルフィラが起きていない!」
アドリアンが顔を向けた。
彼にも、竜の角の内側へ倒れた体が見えた。
「行ってくれ! 上は私が見る!」
シルヴァが進路を変えた。
リゼリアは身を伏せ、黒い翼を追った。
近づくにつれ、服を濡らした血が見えた。
左腕と、右の脇腹。
二本の矢が、揺れている。
リゼリアは手綱を握り締めた。
呼びたかった。
けれど、ここから声を掛けても振り返ってはくれない。
町の建物が、丘の向こうに現れた。
*
「竜だ! 荷車を脇へ寄せろ!」
町外れの兵が叫んだ。
手綱を引かれた馬が暴れ、御者が必死に押さえる。
人々が戸口へ逃げ込む前に、黒い巨体が、建物の前の空き地へ降りた。
後脚が土へ沈む。
鉤爪をつき翼を畳んでも、竜は背を伸ばさず、何かを落とさないように首を低く保ったままだった。
荷車から怪我人を受け取っていた医師が、竜の角の間に突っ伏している娘を見つけ、担架を置かせた。
「あの娘を下ろすぞ。手を貸してくれ!」
駆け寄った男たちへ、オブシディオンが歯を剥いた。
人間たちの足が止まる。
医師は両手を見せ、ゆっくり近づいた。
後ろの者へ合図し、空の担架を運ばせる。
竜の目が、それを追った。
開いた戸口の向こうでは、ほかの怪我人が台へ寝かされている。
オブシディオンは、ゆっくりと首を伏せた。
医師が鱗へ足を掛けた。
娘の服に伸びた手が、一度止まる。
矢は二本。左の上腕と、背中寄りの右脇腹だった。
「矢へ触るな。腕を支えろ。脇腹を下にするな」
男たちが反対側へ回った。
肩と腰を支え、角から離す。
力の抜けた頭を医師が受け止め、地面へ伸びた腕へ体を渡した。
担架が上がる。
その横へ、リゼリアが駆け寄った。
「ポルフィラ!」
白い唇は、動かない…
リゼリアは担架について建物へ入った。
*
医師が服を切り開くと、血を吸った布が傷へ貼りついていた。
左腕へ触れられ、意識のないポルフィラの眉が寄る。唇から、押し殺したような声が漏れた。
リゼリアは、その手を握りかけて止まった。
動かせば、また痛むかもしれない。
渡された布を受け取り、医師に言われた場所へ手を添えた。
傷ついた腕は、医師が支えを外すだけで不自然に傾いた。
右の脇腹にも、矢が深く刺さっている。
布を替えても、すぐに赤い染みが広がった。
手当てが続く間、リゼリアは何度も息を止めた。
呼びかけたいのに、声を掛けて目を覚まさせたら、また苦しませる気がした。
やがて医師が顔を上げた。
「出血は抑えられました。命に関わる所も外れています」
リゼリアは、ようやく言葉を返した。
「……助かるんですね」
「はい。左腕は骨が折れています。脇腹の矢は腹の中までは達していませんが、筋肉を深く傷つけています。どちらも、軽い傷ではありません」
医師は、ポルフィラの腕を固定するための添え木を受け取った。
「目を覚ましても、一人で起き上がらせないでください。脚に傷はありませんが、体を起こせば脇腹へ力がかかります。折れた腕を使ってもいけません。しばらくは安静にして、傷を治す必要があります」
リゼリアはうなずいた。
助かる。その言葉だけは、胸に残った。
けれど、ほっとして目を離せるような姿ではなかった。
寝台の上で、ポルフィラの顔は白く強張っていた。
呼吸に合わせて胸が動く。
リゼリアは、傷のない右手の指先へ、そっと触れた。
戸口に、影が差した。
オブシディオンが、建物の中を見ていた。
リゼリアは立ち上がった。
「命は大丈夫だって。ポルフィラは、助かるわ」
竜の目が、彼女へ向いた。
けれど、いつものようにポルフィラが言葉を取り次ぐことはなかった。
リゼリアは戸口へ近づいた。
「ここで待っていて。今、手当てをしているから」
オブシディオンの顔が、川の方へ向いた。
*
人間が何を言っているのか、分からなかった。
ポルフィラの胸は動いている。
人間たちは、その腕と脇腹へ布を当てている。
あの小さな体に刺さっていた二本の矢を、オブシディオンは覚えていた。
角をつかんでいた手が、外れた。
怖いと、声が届いた。
そのあとは、何度呼んでも返事がない。
喉の奥で、唸りが膨らんだ。
戸口にいたリゼリアが外へ出る。空いた手を上げ、何かを叫んでいる。
その後ろでは、ポルフィラが動かずに寝かされていた。
オブシディオンは、翼を広げた。
人々が身を伏せる。
巻き上がった土が壁を叩き、荷車の覆いが激しくはためいた。
黒い巨体が町を離れた。
その背には、誰もいなかった。




