第190話 川沿いに広がる軍
王軍の天幕は、川岸から離れた林の奥に張られていた。
空から見ても、木々に遮られて全部は見えない。だが、街道を進んでくる荷車と、そこから荷を下ろす兵は見えた。
ひと月前に来た二十人ほどの部隊とは違う。
川へ下りる道にも、天幕の間にも、槍を持った兵が歩いていた。
ポルフィラは、膝で地図を押さえた。
風に持っていかれないよう端を握り、川の曲がる場所と、眼下の道を見比べる。
〈下流へ行きたい。あの列を見て〉
王の旗が、木立から出てきた。
その後ろに兵が続く。砦の対岸では止まらず、川下へ向かっていた。
オブシディオンが進路を変えた。
川岸の王兵が空を指し、列が林へ寄る。草地へ並んでいた馬が暴れ、手綱を持つ男を引きずりかけた。
ポルフィラは岸から離れた。
近づかなくても、兵の向かう先は分かった。
砦の下流には、川幅の広がった浅瀬がある。その先に、村へ入る道が続いていた。
〈砦へ戻ろう〉
オブシディオンは川を越えた。
向こう岸から、退却を告げる音は聞こえなかった。
*
砦の守備隊長は、ポルフィラが指した場所を地図に書き込んだ。
「こちらの浅瀬にも回ったのですね?」
「はい。旗の後ろに、兵がずっと続いていました。上流にも別の列がいます」
隊長の手が止まった。
裏道だけを守っていればよい状況ではなくなっていた。
「城へ知らせます。下流の見張りにも、先に人をやらなければ」
「私たちが下流を見ていれば、上流が空いてしまいますね」
口にして、ポルフィラは地図を見つめた。
川を越えてくる場所が一つなら、オブシディオンと止められるだろう。
二つなら。さらに、その先にも兵がいたら。
隊長は伝令を呼んだ。
下流へ通じる道へ見張りを増やし、村の者へ、逃げるなら砦側の町へ向かうよう知らせる。
命令を伝え終えてから、彼女へ向き直った。
「見つけてくださったので、知らせる時間はあります。敵が渡り始めてからでは、村へ人を出すことも難しかった」
ポルフィラはうなずいた。
オブシディオンを、二つの浅瀬へ同時に下ろすことはできない。
今できることを伝え、兵が動くのを待つしかなかった。
*
アズレインの城では、ロデリクが届いた報告を読み終えたところだった。
その日のうちに城へ戻ったポルフィラは、広間へ呼ばれた。
机には、すでに文が何通も並んでいる。
「アドリアンが、先にこちらへ来る。地上の部隊も、領境の近くに置いていた者から出すそうだ」
「ソレインも来るんですね」
「ああ。王軍が上流と下流へ分かれているなら、天馬にも動いてもらいたい」
ロデリクは、別の文を開いた。
「インディルからの援軍も、こちらへ進んでいる。クラウスとレオノーラの部隊は、まだ日数がかかる。王領を通れないから、味方の領地を回って来る」
全員が着くまで、王軍が待ってくれるわけではない。
ロデリクは砦を指し、その南にある町へ駒を置いた。
「まず、ここを守る。砦へ入り切らない者と、川下の村から逃げてくる者を受け入れる」
控えていたアズレイン家の家臣が、町へ送る品を確かめた。
医師を集め、怪我人を寝かせる建物も空けるという。
ポルフィラは、その町へ続く道を指でたどった。
「戦っている兵が下がる道も、ここですか?」
「ああ。荷車を川岸へ寄せすぎるなと、隊長にも伝える。退くときに、道を塞がせたくない」
ロデリクは顔を上げた。
「君たちにも、戻って知らせる場所を決めておく。私とアドリアンは、砦より後ろにある部隊の集結場所へ入る。王軍を見たら、そこへ来てくれ」
彼は、地図の街道沿いに印をつけた。
砦へ走る伝令も、そこで待つ。
ポルフィラはその場所を確かめ、うなずいた。
*
翌日、ソレインがアズレインの城外へ降りた。
ポルフィラは草地へ出て、アドリアンが地面へ下りるのを待った。
ソレインは、伏せたオブシディオンへ顔を向けた。耳を動かし、少し離れたところで止まる。
「来てくれて、ありがとうございます」
アドリアンは彼女の前へ歩いてきた。
「こちらで防げなければ、次は私の領地かもしれない。人を出せるようにしておいてよかった」
その顔には疲れが見えた。
城を任せられる家臣を選び、残す兵を決めてから来たという。
「ほかの部隊も、向かっていますか?」
「先に領境へ動かしていた隊がある。私だけ飛んできたから、追いつくには数日かかる」
ポルフィラは川の方を見た。
「王軍は、オブシディオンを見ても引きませんでした」
「見つかったら戻る偵察とは違う。戦うために来たんだろう」
アドリアンは、彼女が握っていた地図へ目を落とした。
「空から見る場所を分担しよう。君たちが下流へ行く間、私は上流を確かめる。地上の部隊へ知らせる場所は、ロデリク殿から聞いている」
ポルフィラは地図を開いた。
川の曲がる場所を、一緒に確かめる。
一人で見なければならない範囲が、少し狭くなった。
*
出発の支度を終えた夜、ポルフィラは机の前へ座った。
マティアスとエステリアへの返事を、まだ送り出せずにいた。
何度か書いて、手を止めた紙がある。
今度は、その続きへ筆を置いた。
ユリウスを焼くよう頼んだのは、私です。
あの人は、捕らえた人たちを殺せと命じ続けていました。私は止めたかった。でも、憎いとも思っていました。
書き終えると、胸が苦しくなった。
父と叔母に、どう思われるだろう。
それでも、自分から話しておきたかった。
アドリアンさんとも話しました。お父さんを亡くした悲しみを、私に伝えてくれました。これからも一緒にやっていこうと話しました。
明日、川の近くへ向かいます。
戻ったら、二人に会いたいです。
筆を置いた。
約束は、書けなかった。
封をした手紙を、インディルへ向かう使者に託すよう頼んだ。
*
王領側の陣営では、弓兵の隊長が部下を並ばせていた。
布を外した荷台から、弓と矢の束が下ろされる。
隊長は配られた弓を兵に確かめさせ、矢を雨へ当てないよう命じた。
「竜が来ても、勝手に射るな。上を飛んでいる間は身を隠せ」
兵たちが隊長を見た。
「合図を待て。狙うのは竜ではなく、背にいる娘だ。天馬が先に来たら、その乗り手を狙え」
一人の兵が、弓を握り直した。
訓練場で人形を射たときとは違い、相手は炎を吐く。
それでも、前の戦いでは近くに来るまで炎を吐かなかったと、上官から聞かされていた。
隊長は兵の顔を見渡した。
「合図までは、絶対に位置を知られるな」
弓兵たちは布を掛け直した。
その前を、盾と槍を持った王兵の列が通り過ぎていった。
*
翌朝、アズレインの砦の後方へ、ロデリクの部隊が入った。
天馬の民の兵の列に、訓練を受けた竜の民も並んでいる。盾を担ぐ者、弓を持つ者、槍と剣を持つ者、荷車を引く者が街道を進んだ。
ポルフィラはオブシディオンの背から、その列を見下ろした。
先頭の兵が手を上げる。
地上で報告を受け取る場所には、ロデリクの旗が立っていた。
上流の空へ、ソレインが飛んでいく。
ポルフィラは下流へ目を向けた。
〈私たちは、あちらへ〉
オブシディオンの翼が傾いた。
川へ近づくにつれ、対岸の音が聞こえ始める。
角笛。馬の声。何人もの男が、同じ方向へ声を張っていた。
木立から、王兵が出てきた。
先頭が浅瀬へ入る。
その後ろの兵も、岸で止まらなかった。水を踏み、盾を胸の前へ上げて進んでくる。
ポルフィラは角を握った。
岸に立つ旗が、川の中へ動いていく。
〈戻ろう。ロデリクさんたちへ知らせる〉
オブシディオンが向きを変えた。
背後で、もう一度角笛が鳴った。




