第189話 砦の裏手
川向こうに見えた王兵は、浅瀬の手前で止まっていた。
旗を持つ騎兵の周りに、歩兵が集まっている。木々の間に隠れていた者も数えると、二十人ほどだった。
ポルフィラは、オブシディオンの背で岸の奥を見た。
後ろへ続く大きな部隊はない。兵糧を積んだ荷車も、渡るための舟も見当たらなかった。
〈もう少し上へ。川を見渡したい〉
翼が大きく動き、体が持ち上がる。
細くなった兵の姿が、川沿いに動き始めた。
先頭の男が立ち止まり、対岸を指す。
アズレイン側の丘に、砦の裏へ入る細道があった。そばの男が板へ何か書きつけている。
ポルフィラは角を握り直した。
道を、調べに来たのだろうか。
竜に気づいた一人が、腕を振った。
兵たちが木の下へ駆け込む。騎兵も岸から離れ、王領の方へ戻り始めた。
川の中へ踏み込んでいた数人も、急いで引き返す。
〈追うか?〉
〈ううん。砦へ戻って、見たことを伝えたい〉
竜は川を離れた。
ポルフィラは振り返り、木々に消える王の旗を見送った。
*
守備隊長は報告を聞くと、砦の裏へ回した兵をそのまま残した。
「渡る場所と、道を確かめに来たのでしょう。偵察に出る部隊の人数です」
「攻めてくる兵では、なかったんですね?」
「今日見えた者だけで、この砦を落とすのは難しい。ただ、確かめたものは、王軍へ持ち帰られます」
隊長が地図の浅瀬を指した。
「裏の道へ柵を置いたことも、竜がここにいたことも、知られたでしょう」
ポルフィラはうなずいた。
見つけた敵が去れば、それで安心できるわけではなかった。
昼に盾の持ち方を教えていた天馬の民の兵が、見張りから戻ってきた。
後ろには、若い竜の民の志願者がいる。
若者の手には予備の盾があった。敵が退いたと聞いて、ようやく地面へ下ろした。
「腕が動かなくなるぞ」
兵が言った。
若者は手を振り、赤くなった指を見た。
「持ってるだけでも、重いんだな」
「そのまま半日歩くこともある。明日は、荷を持って坂を上るぞ」
若者は砦の裏の丘を見た。
それから、盾を拾い上げた。
*
王都では、志願兵を並べた隊列が、また崩れていた。
前の男が止まったのに、後ろの者が歩き続け、槍の柄が隣の肩へぶつかる。
「止まれと言われたら、その場で止まれ!」
王軍の兵が怒鳴った。
初めて槍を持った男たちが、慌てて間隔を空ける。
隣の訓練場では、兵役を経験した者が盾を並べ、進んでは退く動きを繰り返していた。
軍務を預かる家臣は、その様子を王へ報告した。
「経験のある者は、先に部隊を組ませています。初めて武器を持つ者には、まだ訓練が必要です」
「兵は集まっているのだろう?」
「はい。ですが、食料と装備も揃えなければ、領外へ連れ出せません」
ヴァルテルの顔が険しくなった。
家臣は、各地の倉から集められる量を記した帳面を差し出した。
志願者の名を記した紙よりも、こちらを確かめる方が長くかかった。
弓の改良も、命じたとおりには進んでいなかった。
工房から届いた弓は、力を強くしすぎて、使える兵がほとんどいない。
別のものは、射るたびに矢の飛び方が大きく変わった。
「遠くへ届くだけでは使えません。狙った所へ届く弓を、同じように作れるようにしなければ」
弓兵の隊長が、軍務の家臣へ告げた。
ヴァルテルは帳面を閉じた。
「国境の部隊には、道と渡れる場所を調べさせろ。攻める兵を出すのは、こちらの準備が整ってからだ」
*
それから数週間、砦の裏手では、朝ごとに槍を打ち合わせる音が響いた。
ポルフィラは、一か所にとどまってはいなかった。
ロデリクの求めで川沿いの道や別の見張り場を確かめ、砦へ戻りを繰り返していた。
そのたびに、土の上に置かれた盾の数が増えていた。
若い竜の民の志願者は、もう盾を膝へぶつけなかった。
天馬の民の兵と並んで坂を上り、合図を聞いて止まる。息が上がると叱られ、休めと言われれば、その場へ座り込んだ。
部隊から離れる者もいた。
眠れなくなったと申し出て、家へ帰った竜の民がいた。
王軍へ行くと言って姿を消した天馬の民もいた。
残った者で組を作り直し、隊長は見張りの順番を何度も書き換えていた。
ある日、砦へ戻ったポルフィラは、川下で舟を扱っていた竜の民の男に呼び止められた。
「川岸の見張りへ出ることになった。あの兵と一緒だ」
指した先に、入隊した日に男を案内した天馬の民の兵がいた。
男は借りた弓を背に掛けている。
「川を渡る相手を見つけたら、戦うんですか?」
ポルフィラが尋ねると、男は首を振った。
「先に知らせる。二人で止めようとするなって、何度も言われた」
天馬の民の兵が近づいた。
「見えた人数と、どちらへ動いたか。それを持ち帰ってもらう」
竜の民の男がうなずいた。
*
四家の間でも、部隊で助け合う支度が進んでいた。
兵を減らしたまま、以前と同じ人数を援軍へ出すことはできない。
砦と町を守る兵を残し、そのほかをどこへ送るか、使者が何度も文を運んだ。
アズレインの城へ戻ったポルフィラの前で、ロデリクがオランデルから届いた文を開いた。
「レオノーラが、天馬で向かえる場所と、地上の兵を送れる道を知らせてきた。インディルとヴェルディアからも、部隊の用意ができた所から連絡が来ている」
「みんな、同じ場所へ集まるんですか?」
「王軍がどちらへ出るかを確かめてから決める。集めたあとで別の領地を襲われれば、戻る間に被害が出る」
ロデリクは、地図に置いた駒を離した。
「伝令が走る道を守る。近い部隊から助けに入る。その間に、ほかの部隊を動かす。君たちにも、王軍の位置を確かめてもらいたい」
ポルフィラは地図を見た。
オブシディオンだけが飛び回っても、地上の部隊へ知らせる手段がなければ、一緒には動けない。
「空から見たことを、どこへ伝えればいいかも相談したいです」
「ああ。隊長たちを交えて決めよう」
ロデリクは家臣を呼び、机へ地図を広げる場所を空けさせた。
*
王都の弓兵は、人形を載せた車が動き出すのを待っていた。
引く者が綱を引き、鎧を着せた人形が訓練場を横切る。
隊長の合図で、矢が飛んだ。
外れた一本が土へ刺さった。
もう一本は人形の肩をかすめ、その後ろへ抜けた。
胴へ入った矢もあった。車が揺れ、引いていた男たちが足を止めた。
「止めるな。次は、もう少し速く引け」
隊長は命じ、射手へ向き直った。
「早く放つことを考えるな。前の者が狙いを遮っている。列をずらせ」
選ばれた弓兵は、志願して初めて弓を持った者ではなかった。
各部隊で弓を使ってきた兵たちが、新しく揃えられた弓に慣れるため、日ごとに矢を放っていた。
軍の工房では、竜の民の鍛冶屋が、次の矢尻を仕上げていた。
最初に作ったものが戻され、形を変えるよう命じられた日もあった。
今は、その見本を横に置き、同じものを作り続けている。
炉のそばには、運び出すのを待つ箱が並んでいた。
*
最初の偵察隊を見てから、ひと月あまりが過ぎたころだった。
王領との国境へ、兵糧を積んだ荷車が集まり始めた。
以前から駐屯していた王兵のそばへ、王都から来た部隊が入る。四家の領地を離れた兵達も、その列にいた。
訓練を終えて連れてこられた志願者たちは、見慣れない川の方へ目を向けた。
アズレインの見張りが、その様子を城へ伝えた。
「前に来た偵察とは違います。荷車が何台も入り、川から離れた場所に天幕を張っています。翌朝になっても、戻りませんでした」
ロデリクは報告を聞き終えると、地図の前へ立った。
ポルフィラも、川沿いに置かれた駒を見た。
以前は、王兵が道を調べに来て、戻って行った。
しかし今はその場に留まり、テントを張り、炊き出しをする場所を作り、兵の数が日増しに増えている。
「三家とアドリアンへ知らせよ。国境へ、王軍の部隊が集まり始めた」
ロデリクの声に、伝令が部屋を出ていった。
ポルフィラは地図から顔を上げた。
「私たちは、明朝見に行きます」
見張りが指した場所は、ひと月前に川向こうの兵を見つけた、その先だった。




