第185話 王の名で
川岸で荷を下ろしていた男たちが、空を見上げた。
黒い竜が、川に沿って飛んでくる。男の一人が荷物を置き、船の陰へ駆け込んだ。
ポルフィラはオブシディオンの角を握っていた。
岸にいる人々が見えてくると、竜は川から離れた。城外の草地へ回り、翼を広げて速度を落とす。
後脚が地面を踏んだ。
ポルフィラは体の揺れが収まるのを待ち、首の鱗へ足を置いた。角をつかみながら下りると、張り詰めていた脚から力が抜けた。
〈疲れたか〉
〈少し。でも、大丈夫〉
城の門から、ロデリクとアズレイン家の家臣が出てきた。
家臣は竜のそばを通るとき、足を止めかけた。オブシディオンが頭を草地へ下ろしたのを見て、ようやく歩き出す。
「戻ったか。アドリアンはどうしている」
ロデリクが尋ねた。
「城に残っています。ほかにも捕まっている人がいないか、調べるそうです」
「そうか。二人で話す時間は取れたか」
ポルフィラはうなずいた。
「お父さんのことを話しました。これからも一緒にやっていこうと、言ってくれました」
口にすると、握り返された手の感触を思い出した。
ロデリクの表情が少し和らぐ。
「こちらでも、今後のことを相談したい。中へ入ろう」
ポルフィラはオブシディオンを振り返った。
竜は伏せたまま、彼女が門をくぐるのを見ていた。
*
部屋に入ると、ロデリクは机の報告書を開いた。
アウレリスへ派遣した、アズレイン部隊の隊長から届いたものだった。
「今は、私の兵がアドリアンを助けて城や町を守っている。だが、いつまでも全員を残してはおけない。こちらの港や町を守る兵も必要だ」
ポルフィラは椅子へ座った。
人々を助け出し、フェリクスも城を出た。ひとまず終わったつもりでいたが、王がアドリアンを認めたわけではなかった。
「王の兵が、また来るかもしれないんですね」
「ああ。フェリクスが王へ助けを求めるだろう。その前に、アドリアン自身が領地を守れるようにしたい」
ロデリクは、もう一通の報告書を手元へ引き寄せた。
「アドリアンは、アウレリス家の兵に城や町を守らせるつもりだ。ただし、誰を任務に戻すかは調べてから決めると言っている」
「倉にいた兵も、ですか?」
思わず声が硬くなった。
閉じ込められた人へ向けられていた剣が、目に浮かぶ。
「住民を殺した兵や、逃げた者の家族を捕まえた兵を、そのまま見回りに出すことはしない。何をしたか調べ、罪を問う必要がある」
ポルフィラは少し息を吐いた。
ロデリクは報告書を置き、続けた。
「一方で、ユリウスの命令に従わず、兵を辞めた者もいるそうだ。そうした者にも戻ってもらえないか、アドリアンが確かめている」
「アウレリスの兵だからといって、皆が同じことをしたわけではないんですね」
「ああ。私の隊長にも調査を手伝わせる。守りを任せられるようになってから、こちらの兵を少しずつ戻す」
ポルフィラは膝の上で手を重ねた。
アドリアンはこれから、父に仕えていた人々と話し、自分を支える兵を集めなくてはならない。
城に残ると言った意味が、ようやく分かってきた。
「ほかの領地の守りも、見直したい」
ロデリクは、クラウスたち三家へ送る文を見せた。
「今までは、それぞれが自分の領地を守ってきた。これからは、王軍が動いたらすぐに知らせ合い、近くの領地から援軍を送れるようにする」
「オブシディオンがいない場所も、守れるようにですか」
「そうだ。竜が来るまで待っていたら、間に合わない場所がある」
ポルフィラの指が止まった。
矢に倒れた人のそばへ、次の矢が飛んでくる。助けようとしても近づけなかった、あの光景が浮かんだ。
「襲われたと聞いたら、私は行きたいです」
「分かっている。だが、君たちが着く前に避難できる場所を作りたい。道を見張る兵を置き、近くの砦や町へ人を逃がす。そのための相談だ」
助けを求める人のところへ、いつも間に合うわけではない。
それを認めるのは苦しかった。けれど、誰かが襲われたと聞いてから飛び立つだけでは、同じことがまた起こる。
「私たちが飛んで確かめた方がいい場所は、ありますか」
「ある。君からも、空から見た様子を聞きたい。だが、その前に少し休んでくれ。今日は着いたばかりだ」
話を終えたロデリクが、封をした文を差し出した。
「インディルから預かっている。君の父上と、エステリア殿からだ」
ポルフィラは両手で受け取った。
二人にも、ユリウスのことが伝わっているはずだった。
*
部屋を出て、廊下の窓辺で封を開いた。
父は、娘がユリウスを焼くよう命じたと知っていた。何があったのか、ポルフィラからも聞きたいと書いてある。
父の前で、自分は話せるだろうか。
橋の上にいた男を憎み、焼いてと頼んだことを。
読み進めると、叔母の言葉があった。
会いに来るとき、何を話せばいいか分からなくても、そのまま来てね。
ポルフィラは、そこをもう一度読んだ。
うまく話せる自信はなかった。それでも、二人に会いたかった。
返事には、まずそう書こうと思った。
*
そのころ、王都へ着いたフェリクスは、王の前に膝をついていた。
王の隣には、王太子レオンハルトが立っている。
「兄はアズレインの兵を連れてきました。竜も城の外におり、私には退くほかありませんでした」
ヴァルテルは椅子の肘掛けへ手を置いた。
「それで、城を明け渡したのか」
「はい。兄に逆らえば、私も父のように焼かれるかと……」
フェリクスは顔を伏せた。
馬車の窓から見た、竜の目を思い出す。ここにはいないと分かっていても、背中に冷たい汗が滲んだ。
「どうか、父の後継ぎとしてお認めください。兄に領地を奪わせないでください」
王が答える前に、レオンハルトが口を開いた。
「おまえが関所で捕らえた御者は、解放したのか」
「……はい」
フェリクスが顔を上げた。
「城を出る条件でしたので、返しました」
「麦を町へ運んでいただけの者を、なぜ捕らえた」
「兄の命令で出された荷だったからです。通せば、兄が倉を奪ったことまで認めることになります」
レオンハルトの眉が寄った。
言い返そうとしたとき、王が手を上げた。
「その話はあとだ。アドリアンに領地を渡すつもりはない」
フェリクスが王を見つめた。
ヴァルテルは書記を呼んだ。
「アウレリス家の家督は、フェリクスに継がせる。アドリアンによる領地の支配は認めぬ。各地へ知らせよ」
「ありがとうございます」
フェリクスは深く頭を下げた。
レオンハルトは父へ向き直る。
「城を取り戻すために、兵を出されるのですか」
「今すぐには出さん。だが、こちらから品物を売り続けて、敵を助けることもせぬ」
王は書記へ命じた。
「アズレイン、ヴェルディア、オランデル、インディル。それにアドリアンが支配するアウレリスへ、王領から商品を運び出すことを禁ずる。すでに出発した荷も、関所で差し押さえよ」
書記の筆が動いた。
レオンハルトが一歩進む。
「武器や兵糧だけでなく、商人が売る品も、すべてですか」
「そうだ。足りぬ物をこちらから届けてやる必要はない」
「王領の商人も、向こうへ品を売りに行きます。売った代金で魚や麦を買って戻る者もいます。その荷まで止めれば、王領へ入る食料も減ります」
「買って戻ることは禁じておらぬ」
「売るための荷を取り上げられれば、買い付けの金もなくなります」
ヴァルテルの顔が険しくなった。
「では、ユリウスを殺した竜と手を組む者たちへ、今までどおり物を売れというのか」
「軍が使う物を止めることには反対しません。ですが、王領の商人まで荷を失う命令は、お考え直しください」
フェリクスは黙っていた。
自分を領主に認めた王へ、異を唱える気はなかった。
ヴァルテルが椅子から立った。
「足りなくなる分は、今も私に従う領主から買え。それでも足りなければ、ほかの国から運ばせよ。レオンハルト、その手配はおまえに任せる」
レオンハルトは父を見た。
買い付け先を変えれば済む話ではない。まず相手を探し、量と値を決め、荷を運ぶ船や車を用意しなければならない。
その間にも、関所では商人の荷が止められる。
王はもう、書記に命令の文を読み上げさせていた。
*
数日後、王領からアズレインへ向かう街道の関所で、一台の荷車が止められた。
荷台には鉄の鍋や釘、農具が積まれている。手綱を持つ男は、王領の町で店を営む天馬の民の商人だった。
「アズレインへ出す荷は通せない。荷台から下りろ」
王領の兵が告げた。
商人は通行を許された文を出した。
「昨日、役所で確かめてもらった荷だ」
「今朝、王の命令が届いた」
別の兵が車輪の前へ木を置く。
商人は振り返った。工房へ金を払い、買い揃えた品だった。アズレインの町で売り、その金で干物と塩を仕入れる予定だった。
「通れないなら、店へ戻る。道を空けてくれ」
兵は首を振った。
「荷を差し押さえる。ここで下ろすように命じられている」
商人は兵の顔を見た。
「売りに行くのはやめると言っているんだ。それでも取るのか」
「アズレインへ運び出した荷は、すべて調べる。返してよいかは、上の判断だ」
兵が馬の手綱へ手を伸ばした。
商人は咄嗟に引き戻したが、隣の兵が剣の柄を握るのを見て、動けなくなった。
「手を離せ」
指を開くと、馬が兵に引かれて道の脇へ寄せられた。
荷台を覆っていた布が外され、釘の箱が下ろされる。
商人は車から下りた。
止めに入れば、今度は自分が捕らえられる。
それでも、積み上げられていく箱から目を離せなかった。
「私は、王の兵と戦ったことなどない」
兵は答えなかった。
関所の役人が商人の名を尋ね、取り上げた品の数を書き留めていた。




