第184話 あなたと話したかった
翌日の午後、アドリアンが城の外へ出てきた。
ポルフィラは、草地に伏せたオブシディオンのそばにいた。足音に気づいて立ち上がると、彼は少し手前で止まった。
「話をしてもいいだろうか……?」
心臓がはねた……
城のことなら、彼が倉へ戻ってきたときにも話していた。けれど、二人きりになるのは避けていた。
彼が近づいてこなかったのか、自分が近づけなかったのか。どちらだったとも言い切れない。
「……はい。私も、話したかったです」
オブシディオンがゆっくりと首を動かした。
アドリアンを一度見てから、道の方へ顔を向ける。二人のそばに、大きな翼の影が落ちた。
「エナのことを聞いた」
アドリアンの声が低くなった。
ポルフィラはうなずいた。昨日、読み返せなくなった文は、畳んでしまってある。
「もう一度、会いたかったです……」
声が掠れた。
彼は慰めようとはせず、しばらく一緒に黙っていた。
やがて、アドリアンが息を吸った。
「父のことを、君と話さないままにはできないと思っていた」
ポルフィラの指が、服の脇を握りしめた。
あの橋で、彼が父親へ布を掛けていた姿が浮かぶ。
「君を恨んでいるわけではない」
彼女が顔を上げると、アドリアン静かな視線でポルフィラを見つめていた。
「それを、先に伝えておきたかった」
ほっとしていい言葉なのに、喉が詰まった。
ポルフィラは唇を開き、いったん閉じた。
彼が続きを話すのを待った。
「父が死んだと聞いたとき、すぐには何も考えられなかった。橋へ行って、顔を見ようとして……見られなかった」
アドリアンの目が伏せられた。
体を覆った布の重みが、まだ手のひらにあるようだった。端を押さえても、風が下から入り込んでくる。何度も掛け直す自分を、止められなかった。
「人を殺せと命じる父を、許せなかった。それでも、死んでしまえば悲しかった。自分でも、どうすればいいか分からなかったんだ……」
ポルフィラは動けなかった。
ユリウスへ向けた怒りと、目の前の人の悲しみが、自分の中でぶつかった。
あの男が止まらなかったことも、アドリアンが父を失ったことも、消えない。
「私、あのとき……すごく怒ってたんです…」
声を出すと、指にいっそう力が入った。
「自分が助かりたいときは、人を返すと言った。それなのに、また殺せって叫んだ……何を言っても、この人はやめないんだと思いました」
アドリアンは黙って聞いていた。
「助けたい人がいました。でも、それだけじゃないです。あの人が憎かった。もう、人を殺させたくなかった…」
あの橋で、自分の方へ差し出された両手を覚えている。
炎の中から聞こえた声も。
「…でも、結局は怒りに任せて、火を吐いてと言ったんです…」
言い終えると、息が震えた。
恐れられるかもしれない。今度こそ、嫌われるかもしれない。
それでも、助けるためだったとだけ言って、彼にうなずいてもらいたくはなかった。
「あなたのお父さんを殺しました。あなたが悲しむことも、あのときは考えられませんでした。本当にごめんなさい…」
涙がこぼれた。
アドリアンの口元がわずかに動いたが、すぐには言葉にならなかった。
ポルフィラは顔を下げずに待った。
「私も、あそこへ父を止めに行った」
彼は、腰の剣へ目を落とした。
「兵が中の人たちを殺そうとしていた。私は剣を抜いて、その兵と戦った。父自身がそこに立っていたら、父へ剣を向けたと思う」
風が草を伏せていった。
「君が止めなければ、助け出せなかった人が増えていた。あの場にいたから、それは分かる。君だけが何もかも悪かったとは、思っていない」
ポルフィラの目から涙がまたこぼれ落ちる。
彼は少し苦しそうに息を吐いた。
「父の死を悲しむことと、君を責めることは、同じではなかったんだ。ようやく、そう思えるようになった」
あふれ出る涙が頬を伝った。
ポルフィラは手の甲で拭ったが、次の言葉が出てこなかった。
「君に何を話せばいいか分からなくて、仕事の話ばかりしていた。私が何も言わないから、君はずっと、責められるのを待っていたんじゃないか?」
小さく、うなずいた。
城の用事を話している間も、いつか父のことを言われると思っていた。
それが怖くて、先に口を開くこともできなかった。
「すまなかった。もっと早く話せばよかった」
「私も、聞けばよかったです。でも、聞いたら、もう一緒にはいられなくなるかもしれないと思って……」
「これからも、君と力を合わせたい」
アドリアンの声が、はっきり届いた。
ポルフィラは涙を拭く手を止めた。
「父のしたことを知って、私は家を出た。ここへ戻ったのも、同じことを続けさせたくなかったからだ。それは変わらない」
彼が目を向けた先に、町へ続く道があった。
「私が父を亡くしたからといって、君がここで人を助けたことまで、間違いにしたくない」
ポルフィラは息を吸った。
泣いてばかりでは、伝えられない。
「私も、一緒にやっていきたいです。あなたと話せないままになるのは、嫌でした」
アドリアンの肩から、少し力が抜けた。
「これからは、黙って距離を置かないようにしよう」
「はい。私も、逃げずに話します」
彼が手を差し出した。
ポルフィラは自分の手を一度見てから、その手を握った。まだ冷えていた指を、しっかりと握り返される。
父を失った悲しみが、彼からなくなったわけではない。
ポルフィラも、炎の中の声を忘れることはないだろう。
それでも二人の間に流れた沈黙は、話す前と同じものではなかった。
手を離すと、アドリアンが懐から文を出した。
「ロデリク殿からだ。明日、今後のことを話したいそうだ。君にも来てほしいと」
ポルフィラは文を受け取った。
ここへ来る途中で見た道を思う。王の兵が引いた場所もあれば、まだ通れない場所もある。
エナが死んだ王都には、今も多くの竜の民がいる。
この城の門が開いただけでは、終わらない。
「あなたは?」
「私はここに残る。捕らえられたままの人が、ほかにいないか確かめたい。父の命令を取り消したと、まだ届いていない村もある」
彼は文を持つ彼女の手から、顔へ目を戻した。
「君たちがいなくなった途端、元に戻るようにはしたくない。残る家臣にも、私が話す」
「オブシディオンがいなくても、ですね」
「ああ。そのために、私がここにいる」
アドリアンが微笑んだ。
オブシディオンの鼻先が、草を擦った。
ポルフィラが振り向くと、大きな目がこちらを見ていた。
〈明日、ロデリクさんのところへ戻ろうと思う〉
〈ああ〉
短い返事に、ようやく長く息を吐けた。
もう一度アドリアンへ向き直る。
「向こうへ着いたら、こちらのことも伝えます。足りないものがあったら、知らせてください」
「頼む。君も、一人で抱え込まないでくれ」
ポルフィラはうなずいた。
アドリアンが城へ戻っていく。今度は、その背を見送っても、何かを言い残したままの苦しさはなかった。
*
翌朝、城から離れた草地に、ソレインを連れたアドリアンが来た。
オブシディオンが頭を下げると、ポルフィラは角の根元へ手を掛けた。足を置く場所を確かめ、首のくぼみへ体を収める。
下を見ると、彼が見上げていた。
「また来ます」
「ああ。待っている」
翼が広がり、草地を風が走った。
ポルフィラは身を低くする。後脚が地面を蹴った瞬間、腹の底が浮き、城壁が足元へ沈んでいった。
ソレインの隣で、アドリアンが手を上げている。
彼女も片手を上げ、すぐに角を握り直した。
城の向こうへ、町から煙が上っている。
火事の黒煙ではない。屋根に並ぶ煙突から、朝の煙が細く伸びていた。




