第182話 城を明け渡す条件
王の返書を読み終えたフェリクスは、紙を裏返した。
続きはなかった。
今すぐ兵を送ることはできない。城の守りを固めよ。
自分を領主と認める言葉も、援軍が来る日も記されていなかった。
「これだけか……?」
王都から戻った使者が頭を下げる。
フェリクスは文を机へ投げ、窓へ向かった。
城壁の上には兵がいる。門も閉じている。兄が連れているアズレイン兵だけなら、すぐには落とされないだろう。
だが、竜は壁の上から来る……
父の遺体が運び込まれたときのことが、頭から離れなかった。
覆いを取る前から、臭いがした。
最後まで父のそばにいた護衛は、一人もいなかったという。
「王は、父上に従えと命じていたのに」
声にしても、使者は答えなかった。
父は王のために兵と麦を出した。その父が殺され、王は助けを寄越さず自分で城を守れと言っている。
ノクスも来ない……
あの竜が城へ降りてきたら、自分を守るために立つ兵は何人残るだろう……?
フェリクスは机へ戻った。
兄からは、まだ御者を返せという文が来ている。
兵との交換を求める言葉を、指で押さえた。
「兄上は、こちらを城から出すと思うか?」
城の守りを預かる家臣が顔を上げた。
「退去の申し出でございますか?」
「城を渡す。その代わり、私と従う者は王都へ行く。道中、兄上の兵にも竜にも襲わせない」
口にすると、少し息が通った。
兄は、麦を運んだ男一人を返せと何度も書いてくる。その男を引き渡し、城も開けば、わざわざ自分を殺そうとするだろうか?
「御者は傷つけるな。荷車と馬も、そのまま返せるようにしておけ」
家臣が頭を下げる。
フェリクスは白紙を取り、筆を握った。
城に残る兵の顔が浮かんだが、書き出した文の最初に書いたのは、自分の安全だった。
*
王都へオランデルからの記録が届いたころ、エナ以外の働き手への取り調べも進んでいた。
寝室へ案内した使用人も、配達を割り振った女も、エナから相談されたことはないと話している。
屋敷での様子も、それぞれの証言は食い違っていなかった。
レオンハルトは、記録を父の前へ出した。
「関わったと分かる者は、今のところエナだけです。調べ終えた働き手は、戻していただきたい」
ヴァルテルは紙をめくった。
村を生き残った三人の手当ての記録で、指が止まる。
「レオノーラが送ってきたのか?」
「はい。女の話を確かめるため、こちらでも残る二人から聞いています」
王は読み進めた。
村で亡くなった夫と娘。家々の破壊。生き残った者に残る傷。
レオンハルトは父の手元を見ていた。
「村への処罰を、女が恨んだということだろう」
王の声に、胸が詰まった。
処罰という一言で、あの凄惨な記録を閉じてしまう……
レオンハルトは手を握り、開いた。
「何をした村への処罰だったのかも、確かめるべきです。叔父上を殺したからといって、この女の話したことまで、なかったことにはできません」
「弟を殺してよい理由にはならぬと言ったはずだ」
「女のしたことを消してほしいのではありません。村で何があったかも、記録に残してください」
ヴァルテルは紙を置いた。
しばらくして、控えていた家臣へ向き直る。
「女は死罪だ。処刑の支度を進めろ」
家臣が頭を下げる。
レオンハルトの指が、机の縁へ触れた。
王は続けた。
「ほかの者は、関わっていないと確かめたなら戻してよい。だが、屋敷へ入れる者は選び直せ」
レオンハルトは医師の記録を引き寄せた。
父はもう、それを見ていなかった。
王太子はその紙から手を離せなかった。
*
エナへ死罪が告げられたとき、彼女は役人を見たまま動かなかった。
分かっていた。
そう思ったのに、足先が冷たくなっていく。
「……ほかの人は?」
役人に聞き返す。
「一緒に働いていた人たちは、どうなるんですか?」
「関わりがないと分かった者は、戻される」
エナは息を吐いた。
役人は、告げることを終えて戸口へ向かった。
彼女はその背へ声をかけかけ、口を閉じた。
死ぬのは怖くないと思っていたわけではなかった。
あの男を殺せば、自分も生きてはいられない。それでも、殺したかった。
腕を抱く。
肩には、押さえつけられた痛みが残っている。頬の傷も、触れれば痛い。
まだ、自分は生きていた。
涙が落ちた。
夫と娘のそばへ行けると、誰かが教えてくれるわけでもない。
エナは壁へ背をつけたまま、閉じた戸を見ていた。
*
アウレリスの城から新しい使者が来たのは、兵の交換を求める返事を出してから数日後だった。
フェリクスに仕える家臣が二人、武器を預けて納付倉へ入った。
アドリアンは文を読み、最初の行へ目を戻した。
城を明け渡す。
御者と押収した荷車、馬、麦も返す。
代わりに、フェリクスと従う者が、私物を持って王都へ向かうことを認めること。兄とアズレインの兵は自分たちを追わず、竜にも襲わせないこと。
「王都へ行くのか?」
使者の一人がうなずいた。
「お身の安全を、文で保証していただきたいとのことです」
アドリアンは紙を置いた。
父の領地を守ると言って、人を捕らえ、町への荷を止めた弟だった。
今、差し出してきたのは、守ると言った領地の城と、領民だった。
向かいにいたアズレインの救出隊長が口を開く。
「城の備蓄も残す、という条件でよろしいですか?徴収した穀物や金を、私物として運び出されては困ります」
使者の目が揺れた。
「連れていく者の名と、持ち出す物を書き出していただきましょう。こちらで確かめます」
隊長の言葉に、アドリアンもうなずいた。
「御者は引き渡しの前に会わせてくれ。城と関所の兵にも、門を開ける命令をだすように」
それから、使者を見た。
「その条件が守られるなら、弟を追うつもりはない。ロデリク様にも伝え、兵を引き渡しの場へ出してもらう」
隊長が、返答を届ける使者の手配へ立つ。
アドリアンは、フェリクス宛ての紙を取り出した。
ポルフィラは、その隣で座っていた。
文には、自分と竜が襲わないという言葉も必要なのだという。
彼女は紙へ目を落とした。
「私は……フェリクスさんを焼こうと思って、ここにいるんじゃないです」
アドリアンは筆を止めた。
「分かっている。だが、弟は父上の最期を知っている」
ポルフィラは顔を上げられなかった。
あの橋で自分が命じたことは、見ていなかった人にまで届いている……
しばらくして、彼女は外へ出た。
オブシディオンに条件を伝え、返事をもらってから戻る。
「御者さんと、城にいる人たちへ手を出さずに明け渡すなら、追わない。オブシディオンも、そう言っています」
アドリアンはうなずき、その言葉を書き加えた。
*
使者が帰ったあと、フェリクスは自室へ戻った。
身の回りの物を入れる箱が、床へ出されている。
城の穀物と金は持ち出せない。従う者と私物も、出立の前に確かめるという。
これまで奪われるかもしれないと思っていたのは、領地と当主の座だった。
父が戻らなくなってからは、寝台へ入るたびに窓の外で鳴る風の音が竜の羽ばたきに聞こえた。
「返事を用意しろ」
戸口の家臣へ告げた。
「条件を受ける。引き渡す日の手順を決める」
家臣が退くと、フェリクスは窓へ近づいた。
空には何もいなかった。
それを確かめてから、ようやく窓を閉めた。




