第181話 白い天馬のいない国
「誰に命じられた?」
問いは、二度目だった。
エナは机の向こうの役人を見た。隣では記録を取る家臣が、筆を浮かせている。
「誰にも、命じられていません」
「屋敷へ行く仕事を得るために、誰かに頼んだか?」
「言われた仕事をしただけです」
役人が紙へ目を戻す。
配達の順番を決めた女と、寝室へ案内した使用人の名が記されていた。
エナはその紙を見つめた。
「その人たちは、知りません。私が何をしようとしていたか」
「では、おまえ一人で王弟殿下を殺したというのだな?」
エナの指が膝の上で曲がった。
「あの人を、殺そうと思いました」
筆が動き始める。
「理由は?」
夫と娘の名を言った。
役人が聞き返し、記録を取る家臣が書き直す。エナは村で何があったかを話した。
自分の家が壊されたこと。夫が娘を抱いていたこと。自分が二人のそばへ行こうとしたこと。
「もう一度、そこを」
聞き直されるたびに、同じ場所へ戻った。
声が出なくなると、役人は答えを待った。
エナは膝を握ったまま、二人の名をもう一度口にした。
*
フェリクスの援軍要請は、王弟の葬儀の支度が進む城へ届いた。
ヴァルテルは読み終えた文を、机へ置いた。
「ユリウスまで焼いたか」
その声に、軍務の家臣が頭を下げる。
フェリクスは、竜を連れた兄に父を殺され、領内の倉を奪われたと訴えていた。城を守る兵を送ってほしい。自分を父の後継者として認めてほしい。
「送れる兵は」
王が尋ねた。
家臣は一覧を開いたが、すぐには答えなかった。
「出兵から戻った隊を整え直しております。直ちに向かわせるなら、王都に残した守備から出すことになります」
「父上」
レオンハルトは、王が一覧を受け取る前に口を開いた。
「叔父上が亡くなられて、王家の天馬はノクスだけです。ここから兵まで減らせば、王都の守りが薄くなります」
王の顔が強張った。
「だから、父を殺された者を見捨てろと?」
「兵を出して、王都がどこまで守れるかを確かめてからにしてください。竜が来れば、出した兵を助けにノクスも向かわせるのですか?」
ヴァルテルは息子を睨んだ。
ノクスの背で竜を見たときの衝撃は、まだ体に残っている。
軍務の家臣が、伏せたままだった一覧を机へ広げた。
王はしばらくそれを見ていた。
「今すぐ兵を出すことはできぬ、と返せ。城の守りを固めるよう命じる」
家臣が文を受け取った。
レオンハルトが退出しかけると、王が呼び止める。
「女の取り調べは、どうなっている」
王太子は振り返った。
「一人で行ったと話しています。村で夫と娘を殺されたことも、記録させています」
「弟を殺した理由になど、ならん」
「はい。ですが、その訴えも確かめなければなりません」
王は返事をせず、葬儀の支度について家臣を呼んだ。
レオンハルトは戸口で一度足を止め、それから外へ出た。
*
王弟とアルディスの死は、諸侯へも知らされた。
オランデルでその通達を読んだレオノーラは、しばらく椅子から立たなかった。
刺した女の名もあった。
エナ。
夫と娘を失い、王都で仕事へついていた女だった。
何をしたのか、文字では読める。それでも、あの女が小刀を握る姿を、すぐには思い描けなかった。
外へ出ると、ヴェスペラが首を寄せてきた。
レオノーラは傷めた左肩をかばい、右手をその頬へ置いた。
白い天馬は、もういない……
自分を襲い、兵を巻き込んだ相手でもあった。それでも、繋がった人間が殺されれば、天馬も死ぬ。その事実が、手の下の温かさを急に恐ろしいものにした。
ヴェスペラが鼻先を動かす。
レオノーラは額を寄せ、しばらく離れなかった。
戻ると、オランデル家の家宰を呼んだ。
「エナたち三人の手当てに当たった医師の報告を出して。夫と娘のこと、村人に何があったか。確かめられた記録を、王都へ送るわ」
家宰が頭を下げる。
レオノーラは、通達へもう一度目を落とした。
あの女が話しても、復讐の言い訳として退けられるかもしれない。
自分の手元にある記録を王に確かめてもらいたかった。
*
アウレリスの納付倉へ、城からの返答が届いた。
文を持たせて戻したアウレリス兵が、使者として西門に立ったのだった。
アズレインの救出隊長は武器を持っていないことを確かめ、アドリアンのいる部屋へ通した。
「御者は、生きているのか?」
アドリアンが先に尋ねた。
「はい。関所の建物から出された姿を見ました。こちらへ伝えるよう、名を呼ばせられていました」
隊長が粉屋を呼びに行かせる。
アドリアンは封を開いた。
御者を返してほしければ、アズレインの兵を倉から退かせること。倉と穀物をフェリクスへ引き渡すこと。
兄だけでなく、竜も領内から去ること。
文を読み終えると、窓の外で車輪が鳴った。
倉から救い出した人々のうち、まだ動けない者がここに残っている。自分が領内から去れば、救った人たちをまた恐怖の中へ返すことになる。
「この条件には応じられない」
アドリアンは使者を見た。
「だが、御者を見捨てるつもりもない。兵との交換を求める返事を出す。少し待ってくれ」
使者は頭を下げた。
部屋を出たあと、隊長がアドリアンへ声を落とす。
「人質を増やさせないためにも、荷はまだ動かしません」
「ああ。南の道を調べる兵も、町へは入らせないでくれ」
机へ手をついたとき、ロデリクから来た別の使者が入った。
王家の通達の写しが届いたという。
ポルフィラは、アドリアンが読み上げるのをそばで聞いた。
セヴェランが死んだ。
アルディスも、共に死んだ。
「刺したのは、エナという女だとある」
ポルフィラの手が止まった。
机の端へ置こうとしていた空の紙が、指から落ちる。
アドリアンが言葉を切った。
「知っている人か…?」
「……はい」
紙を拾おうとしたが、屈めなかった。
エナは、王弟を殺してほしいと言った。
その言葉を聞いた自分は、できないと答えた。
「その人は、今、どうなっているんですか?」
「王都で捕らえられている。取り調べを受けているそうだ」
ポルフィラは通達へ手を伸ばした。
女は拘束されている。その行を見ても、どんな所で、誰に囲まれているのかは分からない。
復讐のために人を殺すことを、やめさせられなかった。
そう思いかけ、東門の石橋へ目が向く。
自分も、そこで人を殺したばかりだった……
*
外へ出ると、オブシディオンが顔を寄せた。
ポルフィラはエナのことと、白い天馬のことを伝えた。
〈アルディスも、死んだんだって〉
竜はしばらく彼女を見ていた。
彼女の手が首へ触れると、静かに頭を下げた。
王弟が死んだと聞いても、うれしくはなかった。
エナが何をされるかが怖い。けれど、あの男に家族を殺されたエナへ、自分なら何を言えたのかも分からない。
〈少し、そばにいて〉
オブシディオンは翼を畳み、彼女の前で伏せた。
ポルフィラはその脇へ座った。
倉の中から、アドリアンが使者を呼ぶ声が聞こえていた。




