第179話 戻らないもの
穀物の倉を開けると、戸口まで袋が積まれていた。
夫とともに捕らえられていた竜の民の女が、一つの袋へ走り寄る。
縫い目の糸を確かめ、抱え直した。
「うちのです。これ、種に残した分です」
捕えられたアウレリスの役人が口を開いた。
「それは、すでに納めた物で……」
女の腕へ力が入る。
その前へ、アドリアンが立った。
「手を出すな。どの村から集めたか、帳面を持ってこい」
役人は諦めたように、腰に下げた鍵束を渡した。
*
西門では、町から来た粉屋が足を止められていた。
町の役所からは何の知らせもない。納付倉で戦いがあったと聞き、仕入れを待ちきれずに来たのだという。
「麦を出してもらわないと、店を開けられない」
案内された先で、粉屋はアドリアンへ訴えた。
「兵が持っていった分を返してもらえませんか?村の者を戻して、流通を元通りにしていただけませんか?」
アドリアンは、南の建物へ目を向けた。
戸の外に座った人々が、傷を診てもらっている。荷運び役は肩へ布を巻かれ、その脇の担架を見つめていた。
担架の兵は、もう顔を覆われている。
「今、村へ戻れとは命じない。ここで何をされたか、まだ聞き終えてもいない」
「ですが、町も困っているんです」
粉屋の声は切実だった。
アドリアンは、倉から出された袋を見た。
あれを町へ渡せば、村に残す分が減るかもしれない。
誰に何を返すのか。父がどれほど領民から奪ったのか、自分は知りもしない。
「帳面を確かめる。食べる分と種まで取り上げていたなら、先に返さなければならない。町へ回せる分は、そのあとで知らせる」
粉屋は唇を結んだ。
すぐに麦が出るという答えではなかった。
男は倉の袋を見たあと、戸口で手当てを受ける人々へ目を移した。この状況にそぐわない質問を口にする事に、しばらく迷い、躊躇いながら尋ねた。
「……いつ、役所へ聞きに行けば……」
「今日中に、確かめられた分を伝える」
約束したあとで、アドリアンは家臣を呼んだ。
名簿と納付の帳面を、同じ机へ出させる。誰が捕らえられ、どの村から働き手が消えたのか。それも確かめなければ、何も手をつけられない。
*
ポルフィラは、兵が荷車へ人を乗せるのを手伝っていた。
アズレインへ避難したいという者と、もとの村へ戻りたいという者に、行き先を尋ねる。
夫が先に逃れた女は、その無事を荷運び役に確かめると、アズレインへ行きたいと答えた。
一方、さっき種を取り戻した女は、その袋を離さなかった。
「村へ戻るんですか?」
「畑があるから。……一人では、前と同じにはできないけど、私は故郷にいたいんです」
女が南の建物を見た。
そこから運び出された夫は、別の荷車に寝かされている。もう起きて畑へ出ることはない。
ポルフィラは袋を支えかけた手を止めた。
「これだけは、持って帰りたいんです」
女は言った。
ポルフィラはうなずき、荷車の足元へ場所を作った。
*
人の列が途切れてから、オブシディオンのそばへ戻った。
竜の目が、彼女の顔を追う。
ポルフィラはその体へ手を当てた。
〈これでもう人々が何もされないと思ったら、ほっとしたの……〉
橋の方から、担架を運ぶ兵が来る。
覆われた体のあとを、アドリアンが歩いていた。
〈人を殺して、ほっとするなんて………〉
涙が溢れた。
〈わたしが殺したのだ〉
ポルフィラは目を伏せた。
オブシディオンにそうさせたのは自分だ……
彼女は竜のそばに立ち、担架が通り過ぎるのを待った。
*
アウレリスで起きたことが王都へ届くまでの間も、王弟の屋敷への配達の手伝いは続いていた。
エナにはこれが三度目の配達で、寝室へ布を運んだ。案内する使用人の後ろから入り、戸口では見張りの兵に顔を確かめられた。
寝台の卓の脇へ敷布を置く。それだけの仕事だった。
その卓の上に、切り残した果物と小刀がある。
セヴェランは食事を終え、横にならされている。
使用人が使った布をまとめている間、エナの目が小刀に止まった。
「遅い。早くしろ」
使用人の男が使った布をまとめる女に命じた。
エナは小刀をつかみ、セヴェランへ近寄った。
セヴェランが、その手を見て目を見開き、傷めていない腕を振る。
刃はセヴェランの肩をかすめ、寝具へ突き立つ。
「何をする!」
使用人がエナの背中に手を伸ばした。
後ろへ引かれ、小刀が布に引っかかる。エナは体を戻そうともがいた。
セヴェランは寝台から離れようとするが、上体をひねった途端、傷めた胸に痛みが走った。息が詰まり、起こしかけた体が沈む。
*
屋敷の裏の飼育場で、アルディスが頭を跳ね上げた。
耳が伏せられる。
世話係が振り向くと、白い巨体が囲いへ体当たりした。
「下がれ!」
横木が折れた。
翼が開き、風にあおられた世話係が地面へ転がる。ほかの者たちは綱へ手を伸ばしかけ、その場から飛び退いた。
アルディスは屋敷へ向かい、柵を踏み崩した。
繋がった相手の危機に、白い天馬も平静を失っていた。
*
寝室の戸が開いた。
見張りの兵が踏み込む。
「殿下から離れろ!」
エナは自分を引っ張る使用人の手を切りつけた。
使用人は後退り卓にぶつかり、敷布の束が床へ落ちた。エナは足を取られ、倒れかけたその場所に、セヴェランの顔があった。
一瞬の迷いもなく、エナは小刀を力いっぱい突き立てた。
セヴェランがその腕を押し返そうとする。だが、傷めた腕は上がらず、もう一方の手も、刃を止めきれなかった。
刺されたセヴェランの口から息が漏れた。
寝具に血が広がる。
「私の夫と、娘を!」
エナは叫んだ。
セヴェランの手が、彼女の肩をつかんでいる。
「あなたが殺した!」
力任せに、もう一度刺す。
駆け込んだ兵にセヴェランから引き剝がされた。
エナは床へ倒れ、腕を背中へねじり上げられた。小刀が指から離れ、石の上を滑る。
それでも、寝台へ顔を向けた。
男は自分を見ていた。
何か尋ねようと口を動かしている。誰なのか、まだ分からない顔だった。
*
庭へ出たアルディスが、翼を振り上げた。
突風が屋敷の窓を叩き、鎧戸が壁へぶつかる。
寝室の使用人が悲鳴を上げた。廊下では別の護衛たちが、窓から離れろと叫んでいる。
医師が駆け込んできた。
血に濡れた寝具を見て、手当ての布を押し当てる。
「殿下、こちらをご覧ください!」
セヴェランは息を吸おうとした。
胸がわずかに動き、また止まる。
医師の手をつかもうとした指が、布を掻いた。
庭ではアルディスが首を反らした。
蹄が地面を抉り、開いた翼が壁を擦る。逃げ遅れた世話係が、庭木の陰へ這っていった。
白い天馬は何度も翼を動かしたが、うまく羽ばたくことができない。
寝室へ、さらに屋敷の者が集まる。
エナは兵に両脇を抱えられて運び出された。廊下へ出ても、医師がセヴェランを呼ぶ声は聞こえていた。
何度も、何度も。
*
知らせを聞いたレオンハルトが屋敷へ着いたとき、アルディスはまだ庭に立っていた。
白い体が大きく揺れている。
誰も近づけず、屋敷の護衛は人を庭から退かせるだけで精いっぱいだった。
王太子は寝室へ急いだ。
戸の内側で、医師が血のついた手を動かしている。
使用人は新しい布を差し出し続けていた。
「叔父上」
セヴェランの目が、声の方へ動いた。
唇が開く。
レオンハルトは近づこうとしたが、医師の腕が遮った。
「今は、お待ちください!」
廊下から、天馬の鳴く声が響いた。
窓が震える。
セヴェランの指が寝具を握り、ゆっくりほどけた。
庭で、アルディスの前脚から力が抜けた。
アルディスの巨体が膝をつき、横へ崩れる。最後に広がった翼が土を打ち、砂埃が舞った。
医師の呼びかけが、途切れた。
レオンハルトは寝台を見つめたまま、待った。
医師がもう一度確かめ、それから頭を下げる。
「……お救いできませんでした」
庭の騒ぎも、止まっていた。
叔父と、白い天馬。
さっきまで生きようともがいていた二つの命が、共に失われた。
*
エナの身柄は、屋敷の兵が押さえていた。
レオンハルトは寝室の外で、使用人から話を聞いた。
夫と娘を殺したと、王弟へ叫んだという。
使用人の手が、まだ震えている。
王太子はその言葉を聞き直しかけたが、廊下で王の到着を告げる声がした。
*
ヴァルテルは寝台の前で立ち止まった。
弟の顔へ手を伸ばす。
頬に触れた指が、そのまま動かなくなった。
「竜の民か」
家臣が答えると、王はゆっくり手を離した。
「屋敷へ出入りした者を押さえろ。洗濯場も調べる。関係者は誰一人逃がすな」
「父上。関わった者が他にもいるかは、一人ずつ確かめてください」
レオンハルトが言った。
王の目が息子へ向く。
「叔父を殺した者の味方をするのか?」
喉が詰まった。
王太子は、寝台の叔父を見た。自分の呼びかけへ動いた目が、今は開かない。
「女は捕らえられています。他の者まで、竜の民だからと罰してはなりません」
王は答えず、弟へ顔を戻した。
命令を書き留める家臣へ、レオンハルトは向き直った。
「誰を、何のために拘束したか、私にも報告を」
*
エナは、閉じ込められた部屋で壁へ背を預けていた。
男は死んだと、戸の外で聞いた。
手を広げる。
残った血は乾きかけ、指を曲げると皮膚が引っ張られた。
これで終わったと思おうとしても、何が終わったのか分からなかった。
娘が帰ってくる足音はしない。
夫が戸口から呼ぶ声もない。
顔を膝へ伏せると、ようやく涙が出た。
息を殺そうとしても、嗚咽がもれた。
*
アウレリスの城では、フェリクスが父の死を告げる文を読んでいた。
家臣は、兄が倉で拘束者を解放し、穀物を返し始めていると伝えた。
「城の分まで、勝手に使わせるな」
フェリクスは文を置いた。
「門を閉じろ。兄上についた兵は入れるな。倉から城へ来る荷も、こちらで確かめる」
父が戻らなければ、自分が城を守る。
そう命じられたのだと、家臣へ言った。
兄に何を奪われるかを考える方が、父が焼かれた姿を想像するより早かった。
王へ送る文には、父を竜に焼き殺されたと記した。
その返事を待つ城の外で、町へ向かう荷車が検問に止められていた。




