第173話 報告にはない声
インディルの城へ、南から戻る兵の名簿が届いた。
家宰のマティアス・フェルナーは、死者と負傷者の記された頁を机に広げた。帰還する人数に合わせて荷車を出し、歩けない兵を迎える。家族への知らせも待たせられなかった。
指示を受けた家臣が退室すると、コンラートが机の向かいに残った。
「父から聞いている。後の手配はこちらで引き受けるから、娘さんへの文を書いてくれ」
「まだ、帰還兵の受け入れが……」
「大丈夫だ。分からないことがあれば尋ねる」
マティアスは、書き込みを添えた束を渡した。指先に染みた墨が、紙の端へかすかにつく。
兵を送る間は、食料と馬と荷車を揃えることに追われた。今度は帰ってくる者の手配がある。机から離れられる日を待っていたら、いつになるか分からない。
「ありがとうございます」
コンラートを見送ってから、白紙を一枚取り出した。
ポルフィラが無事だという報告は受けている。だが、眠れているのか。怪我を隠していないか。あの大きな竜の背で、どんな顔をしているのか。
そのどれも、戦況を知らせる文にはなかった。
*
エステリアは、館で預かった衣服のほつれを繕っていた。
戻ってくる負傷者に着せる物を揃えるため、城に勤める者の家族たちと手を貸している。誰かが廊下を早足で通ると、悪い知らせ届いたのかと、針を止めてしまうのは自分だけではなかった。
戸口にマティアスが立った。
「ポルフィラは、ドランたちの所へ戻ったそうです」
エステリアは、張りつめていた息を吐いた。
「二人にも会えたのね」
「ええ。クラウス様を通して、会いたいと伝えるつもりです。あなたからも書きますか?」
彼が差し出した文には、娘の体調を尋ねる言葉と、こちらへ来られるなら会いたいという願いがあった。
エステリアは膝の衣服を畳んだ。
「私も会いたいわ。でも、休んでいるところを呼び戻すことにならないかしら」
「急いで来なくていいと、書き足します」
マティアスは文を引き寄せたが、すぐには筆を取らなかった。
「無事だと聞くたびに安心して、次の知らせを待つ間に、また怖くなる。……一度、顔を見たい」
エステリアはうなずいた。
自分が村へ運んだ赤ん坊は、もう竜に乗って戦っている。その姿を、彼女はまだ見たことがなかった。
*
文が届いたのは、ポルフィラがドランたちと数日過ごしたあとだった。
マティアスの文字の下に、叔母の言葉も添えられている。
会いたいと思っていたのは、自分だけではなかった。
ポルフィラはクラウスへ行き先を伝え、インディル側にも返事を届けてもらった。王兵が退いても見張りは続いている。急な報告はインディルへ送ってもらうことにした。
ドランとミレアには、二人に会ってくると話した。
〈北へ行きたい。マティアスさんたちに会うの〉
〈あの男か〉
オブシディオンが首を動かし、手元の文を見た。
〈おまえを山まで連れてきたな〉
〈うん。今度は、私が会いに行く〉
*
城から離れた草地で、マティアスとエステリアが待っていた。
頭上を影が覆う。エステリアは空を仰ぎ、思わずマティアスの袖をつかんだ。
黒い翼が広がるたびに、遠くの木々まで揺れて見えた。話には聞いていた。それでも、空を埋めるほどの生き物を前にすると、逃げたいと思う体を止めるだけで精いっぱいだった。
オブシディオンは二人から距離を置いて降りた。
草が倒れ、砂埃が流れてくる。マティアスは顔をかばった腕を下ろせずにいた。山で見た巨体を、忘れたつもりはなかったのに。
竜が頭を低くする。
その角のそばから、娘が降りてきた。
エステリアの手が袖から離れた。
「ポルフィラ」
自分の名を呼ばれ、ポルフィラは足を速めた。
叔母は両手で彼女の腕に触れ、顔をのぞき込んだ。何か尋ねようとして、唇が震える。
「会えて、よかった……」
ポルフィラはその背へ手を回した。
叔母の肩が細かく震えていた。自分から離れるまで、エステリアは腕をほどかなかった。
マティアスはすぐそばで待っていた。
「来てくれて、ありがとう」
その声を聞いた途端、ポルフィラは彼の顔を見上げた。
初めて会ったときも、こうして礼を言われた。今日は目の下に濃い影がある。頬も、少し痩せたように見えた。
「マティアスさんも、眠れていないんですか?」
彼は答えかけ、苦く笑った。
「おまえに聞こうと思っていたんだ」
「私は、父さんたちの所で眠れました」
「そうか」
ようやく彼の肩が下がった。
その顔を見て、ポルフィラは自分がどれほど心配されていたかを知った。
*
三人は竜から少し離れた木陰へ座った。
エステリアは時折、黒い鱗へ目を向ける。ポルフィラがその視線を追うと、叔母はそっと尋ねた。
「あの背に乗って、戦っていたの?」
「はい」
山へ行ったときは、天馬の背にしがみついていた。その自分を知っているマティアスも、竜と娘を見比べていた。
「怖くなかったか?」
「怖かったです。今も、また兵が来たらと思うと……」
膝の上で指を組む。
会ったら話したかったことがあった。だが、言ってしまえば、この二人の目にも戦場の自分が映ってしまう。
マティアスは先を促さずに待っていた。
ポルフィラは地面を見たまま口を開いた。
「私が頼んで、オブシディオンに火を吐いてもらいました。逃げる人たちに、矢を射てくる兵がいて……」
声が小さくなる。
「王の兵が、三人死にました」
エステリアの指が、服の上で強く握られた。
マティアスは目を閉じ、やがてゆっくり開いた。
「報告は受けている。だが、おまえがどうしていたかは、聞けなかった」
「止めようとしても、矢が飛んできたんです。あのままなら助けられなかった。でも、火が消えたあとも、声が聞こえて……」
そこで言葉が途切れた。
マティアスの手が伸び、彼女の指に触れた。手を握る力は弱かった。
「私には、その場で何を選べたかは分からない」
彼は娘を見た。
「だから、簡単に仕方がなかったとは言えない。……おまえが、そんなことを決めなければならなかったのが、つらい」
ポルフィラは唇を噛んだ。
責められるのも、正しかったと言われるのも怖かった。どちらを言われても、あの声が消えることはない。
ただ、握られた手に慰められた。
「私、戦うのをやめたら、竜の民がまた辛い立場に戻されるんじゃないかと思うんです」
「戦いをやめてほしいとは、私からは言えない」
マティアスの声が低くなった。
「おまえが守った兵がいる。おまえだけを戦いから遠ざければ、今度はその兵たちが、竜の助けなしに天馬を防がなければならなくなる」
言い終えてから、彼はもう一度娘の手を握った。
「だがおまえには、生きて戻ってきてほしい」
ポルフィラの視界が滲んだ。
「私も、帰りたいです。父さんたちの所にも、ここにも」
マティアスはうなずいた。口を開いても声が出ず、もう一度うなずいた。
エステリアが彼女の背へ手を添えた。
「ドランさんたちには会えたのね。ちゃんと、お顔を見られた?」
「はい。二人とも、元気でした」
「よかった」
叔母は目元をぬぐった。
「今度は私からも文を書くわ。あの方たちも、知らせを待つ間がつらかったでしょうから」
しばらくして、ポルフィラはマティアスへ顔を向けた。
「私にも、文をください。戦いの知らせだけじゃなくて、お二人のことも知りたいです」
「ああ。書く」
「返事が遅れたら、ごめんなさい。でも、読みます」
エステリアが小さく笑い、彼女の髪に触れかけた手を肩へ下ろした。
その向こうでオブシディオンが顔を上げる。ポルフィラと目が合うと、また草地へ顎を戻した。
まだ話したいことはあった。
ポルフィラは竜へ、もう少しここにいると伝えた。




