第172話 帰る場所で話すこと
南の王軍が引いたあとも、レオノーラは見張りを解かなかった。
王兵達が王領へ戻り、街道の先から王旗が消える。最後の部隊まで下がったと確かめて、ようやく負傷した兵をまとまって後送できるようになった。
ポルフィラは、空になった道を見ていた。
さっきまで戦っていた場所に、折れた槍が落ちている。拾いに行った兵が、そばの血を土で覆った。
レオノーラの左腕には布が巻かれていた。ヴェスペラは伏せ、呼吸に合わせて長い首を動かしている。
「休んでいって」
レオノーラは家臣に仕事を任せ、ポルフィラへ向き直った。
「私も、しばらく飛べそうにないわ。今なら、ヴェスペラも休める」
ポルフィラはうなずき、オブシディオンのそばへ座った。
土の上で眠れるだろうかと思ったのは、ほんの少しの間だった。目を閉じると、まぶたを開く力さえ残っていなかった。
*
数日たつうちに、ほかの領からも報告が届いた。
西の国境の砦から王兵が下がり、クラウスが兵を戻している。東でも領境にいた兵が退いたと、ロデリクが知らせてきた。
四家が認めた竜の民の自由を、王は認めていない。だが、今すぐ領内へ押し入る軍は離れた。
ポルフィラは、西へ帰る前にレオノーラへ父母の行き先を見せた。
「顔を見に行きたいんです」
「ええ。クラウスにも知らせるわ。こちらの報告があれば、あなたのいる所へ届けてもらう」
旅立ちの朝、レオノーラは草地まで見送りに来た。
竜の頭が下がり、ポルフィラが角へ手を掛ける。
鱗へ足を添え、腰を落ち着けてから首が上がるのを待つ。オブシディオンも、彼女の体が落ち着くと翼を開いた。
〈西へ行こう〉
〈ああ〉
地面が離れた。ポルフィラは角の根元へ身を伏せ、遠ざかるレオノーラへ片手を上げた。
*
父母のいる受け入れ先には、先に到着を知らせてもらっていた。
住まいから離れた草地へ降りると、道の向こうでドランとミレアが待っていた。
竜の翼が畳まれるまで、二人はその場を動かなかった。
ポルフィラは頭を下げてもらい、鱗を伝って地面へ降りる。
数歩進むと、ミレアが両手を伸ばした。
「顔を見せて」
頬へ指が触れる。
ポルフィラは母の肩へ額をつけた。服の匂いがした。村の家で、洗った物を取り込むときと同じ匂いだった。
「……会いたかった」
声にすると、喉が震えた。
ミレアの腕が背へ回る。ドランもそばへ来て、娘の肩へ手を置いた。
何をしてきたか聞かれる前に、ポルフィラはしばらく、その二人を抱きしめていた。
荷車を押してきたトーマが、道の手前で足を止めた。
彼は竜を見上げ、口を開きかけてから、こちらへ目を戻す。
「無事だったんだな」
ポルフィラは母から顔を上げた。
「うん。トーマも、みんなと移れたんだね」
「こっちでも、仕事は山ほどあるよ。あとで、話せるか」
「話したい。ガルにも」
「伝える。今日は、まず休めよ」
トーマは荷車を押し直した。去る前にもう一度竜を見て、息を吐く。その姿を見送り、ポルフィラは目元をぬぐった。
戻ってきたのは元の村ではない。それでも、会いたかった人たちがここにいた。
*
ドランとミレアも、少しずつ竜のそばまで来た。
オブシディオンは伏せたまま、首を伸ばして二人を迎えた。ドランはその目を見ると、まだ声を出すまでに間があった。
「娘が、戻ってきた。……ありがとう」
竜がゆっくり目を閉じた。
ポルフィラは父へ顔を向け、それから、膝に置いた手を見た。
今なら話せる。
そう思うのに、最初の一言が出てこない。
ミレアがそばへ座った。
「何か、あるの?」
ポルフィラは顔を上げた。
「二人に、話しておきたいことがあるの」
ドランも腰を下ろす。向こうの道から、人の話し声が遠ざかっていった。
「私、これから年を取らないんだって」
ミレアの手が止まった。
ドランは娘を見たまま、しばらく動かなかった。
「……年を、取らん?」
「竜と繋がった人は、そうなるの。オブシディオンと繋がったあとで、私もそうなったと教えてもらった」
ミレアの視線が、娘の顔から手へ下りる。
「ずっと、今のままなの?」
「彼と繋がっている間は、今のままなんだって。どれだけ先まで生きることになるのかは、私にも分からない」
言い終えた途端、隠しておきたかった気持ちが戻ってきた。
父も母も、まだ返事をしない。
「じゃあ、怪我をしても……」
ドランの言葉に、ポルフィラは首を振った。
「怪我で死ぬことはある。年を取らないことと、それは別なの」
父の目が閉じられた。
ポルフィラは、父の手を見た。指の節の硬さも、火傷の痕も知っている。その手がもっと年を取ったときも、自分の手は変わらない。
「父さんと母さんが年を取っても、私だけ……」
そこから先は、言えなかった。
ミレアが、娘の手を両手で挟んだ。何か言おうとして、唇を噛む。
長く黙ってから、ドランが息を吐いた。
「今すぐ、どう考えればいいかは分からん」
いつもより低い声だった。
「だが、これからのことを、おまえだけで抱えたままにするな」
ポルフィラの目から、涙が落ちた。
ミレアがその手を握り直す。
「今日は、ここで休んでいって。毛布を持ってくるから」
先のことが、解決したわけではない。
それでも、今は二人のそばに座っていられる。母が手を離さないので、ポルフィラも握り返した。
オブシディオンの深い呼吸が、背後で続いていた。
*
王都の洗濯場で、エナは畳んだ布を重ねていた。
仕事を取り仕切る天馬の民の女が、運び出す包みを分けていく。
「こちらは王弟殿下の屋敷へ。お怪我をして戻られるので、寝具も入れ替えるそうだよ」
エナの指が、布の端を押さえたまま止まった。
セヴェランが戻ってくる。
しかも、怪我をして。
「この包みですね」
自分の声が、思ったより静かに出た。
女はうなずき、次の包みを指した。
エナは、王弟の屋敷へ運ばれる布を見つめた。




