第171話 白い天馬の行く先
詰所の前で、二つの兵の列がぶつかっていた。
南へ逃げる人々。その道を守る橙と藍の旗。北の街道では王の部隊が下がっているのに、前だけが戦い続けている。
ポルフィラは、角の向こうへ身を乗り出しかけた。
〈前を見るんだ〉
オブシディオンの声に、顔を上げる。
白い天馬が、濃灰の天馬を追っていた。ヴェスペラの背へ身を伏せるレオノーラが見える。
〈アルディスを離したい。でも、下に人がいる〉
〈空いている方へ追う。しっかりつかまれ〉
竜が高度を下げた。
影が、街道を横切る。
王兵の一人が空を見上げ、そのまま盾を落とした。横の兵も振り返る。王の軍だけではなかった。オランデルの兵の槍まで、動きが止まった。
アルディスの羽ばたきが乱れた。
セヴェランが手綱を引く。白い天馬は首を振り、少しでも竜から離れようとした。
オブシディオンは人のいる南側から近づき、東の丘へ抜ける隙間を残した。
アルディスが、その方へ飛んだ。
〈追いすぎないで。兵の上へ戻さないようにしたい〉
竜の首がわずかに動く。
ポルフィラは次の旋回に備え、体を寄せ重心を変えた。
オブシディオンの体が傾き急旋回する。
ヴェスペラも詰所から離れた。
レオノーラは、白い天馬が街道へ戻れぬ位置を取り直す。言葉を交わさずとも、こちらの意図を汲んでくれたのだとポルフィラには分かった。
*
「退くぞ! 王命どおり北へ戻れ!」
竜に気を取られた王兵の列を、伝令が走る。
「殿下は俺が迎えに行く! 兵を前へ出すな!」
王側の指揮官が声を張った。
オランデル側も、追ってくる兵へは槍を向けたまま、退く者は追わなかった。
盾の間から、負傷者が次々と引き戻される。
指揮官はセヴェランの護衛を連れ、東の丘へ馬を走らせた。
*
丘の上で、セヴェランがアルディスを引き戻そうとしていた。
白い首が抵抗して伸びている。手綱を引いても、天馬は竜と反対の方へ逃げるばかりだった。
「止まれ! 戻れと言っている!」
ポルフィラにも、その声が届いた。
すぐ下に人はいない。だが、街道へ戻せば、また兵が巻き込まれる。
オブシディオンが前へ出た。
大きな翼が、白い天馬の戻ろうとする空を塞ぐ。オブシディオンはアルディスを噛もうとはせず、首を伸ばして咆哮した。
驚いたアルディスは竜から逃れようと急降下し、丘の斜面へ着地する。
その衝撃でセヴェランの腰が鞍から浮き、片足が鐙から抜けた。手綱にしがみつき、傾いた体を戻そうとした。
〈落ちる!〉
ポルフィラは思わず角を握り締めた。
セヴェランが座り直すより早く、アルディスは背後の竜を振り返った。恐怖に駆られ、横へ跳ぶ。
踏ん張れなかったセヴェランは鞍から振り落とされ、斜面に叩きつけられた。片腕を下にして転がる。そのすぐそばへ、アルディスの脚が踏み下ろされた。
〈もう近づかないで。あの人が、アルディスに踏まれる〉
オブシディオンは少し高度を上げ天馬の周りをゆっくりと旋回した。
アルディスはそれ以上走らず、地面で身をよじる主人から後ずさった。
ポルフィラは息を止めていた。
セヴェランが片手で胸を押さえている。起きようとして、声を上げた。もう一方の腕は動かない。
生きている……
エナの夫と娘を殺した男が、そこにいた。
兵を従えていた姿よりも、ずっと小さく見える。だが、あの男のしたことが、小さくなるわけではなかった。
〈追うのは、ここまでにしたい……〉
声がうまく出なかった。口で話しているわけでもないのに、喉が詰まる。
〈分かった〉
竜は街道へ戻れる位置を保ち、丘の脇へ下りた。ポルフィラは角を握ったまま、セヴェランを見ていた。
*
王側の指揮官が、騎兵とともに丘へ着いた。
馬が竜を見て竿立ちになり、護衛は途中で飛び下りた。槍を上げかけた兵へ、指揮官が下ろせと命じる。
「怪我人を連れて、退いてください!」
ポルフィラが叫んだ。
指揮官は竜と娘を見比べ、声を返した。
「下がる! 殿下を運ぶ間、竜を近づけないでくれ!」
彼女はうなずき、オブシディオンへ手を当てた。
兵たちがセヴェランのそばへかがむ。体を起こそうとして悲鳴が上がり、指揮官が急かす声をのみ込んだ。
盾と外套を使って担架を作り、数人で斜面から運び下ろす。
アルディスは竜を警戒したまま、その後へついた。
白い天馬も、王弟も、丘から離れた。
ポルフィラはようやく息を吐いた。
レオノーラがヴェスペラを離れた地面へ下ろし、家臣たちへ手を振っている。街道の王兵は北へ引いていた。
*
「追撃しないで。負傷者を運んで、見張りを残して」
レオノーラは右手で左の腕を押さえながら命じた。
南の道へ出ると、救われた人々が座り込んでいた。手を取り合う者も、呼んでも返事のない人のそばを離れぬ者もいる。
ポルフィラは地面へ降りた。
担架を持つ竜の民の男へ、手伝えることがあるか聞こうとした。
男は彼女の後ろを見て足を止め、担架を抱え直した。目が合っても、近づいてこない。
彼女は道を空けた。
オブシディオンのそばへ戻ると、腕も足も力が抜けていた。鱗へ額をつけて、目を閉じる。
丘から運ばれた男の叫び声が、まだ耳に残っていた。




