第168話 王が命じた撤退
王太子の文を読み終えると、ヴァルテルは紙を机へ置いた。
天幕の外で、馬が短くいななく。荷車を直す槌の音も、朝から止まっていなかった。
「四家の話を、もう一度聞けというのか」
返事を求められた軍務の家臣が、一歩進んだ。
「王太子殿下は、終戦の条件をお尋ねです。王都の守りが手薄になるので、次の兵は容易に出せないとも」
ヴァルテルは、文の最後へ目を戻した。
息子は命令を拒んでいない。物資の手配も進めている。そのうえで、何のために兵を送り続けるのかと問うていた。
子供のころは、自分の説明を疑わず聞いていた息子だった。
「竜の力を頼みに王兵を襲った者へ、望みどおりの返事をすれば、ほかの者も同じことをする」
「申し入れをお認めになる必要はございません。ただ、今の陣で次の戦いを始めるには、兵と食料が足りません」
家臣は、運ばれてきた報告を広げた。
補給のために遠回りする荷車。その護衛へ回す兵。町から戻り、まだ動けぬ負傷者。
失ったものを数える紙ばかりが増えていく。
「南はどうなっている」
「セヴェラン殿下の部隊も消耗しています。オランデル側へ、インディルの増援が向かっているとの報告もきています」
「敵に増援が来る前に、道を開けられぬのか?」
家臣は何も言わず頭を下げた。
ヴァルテルは椅子を離れた。
天幕の入口を開くと、遠くにノクスが見えた。黒い天馬は、世話をする兵の手から顔をそらしている。空を大きな鳥が横切っただけで、首が上がった。
ヴァルテルにも、竜に遭遇した時の感覚が残っていた。
竜が迫り、自分の体が鞍から振り出されかけた。あのとき、命令してもノクスは止まらなかった。
「……兵を、立て直す」
背後で、家臣の衣が動いた。
「南にも、いったん引くよう伝えよ。負傷者と物資を先に戻し、軍を王領へ収める」
「攻撃の中止も、明記いたしますか」
「そうせよ。退く途中で、勝手な戦いを始めるなと」
口に出すと、屈辱が喉へせり上がった。
四家を従わせるために出た軍が、占領していた町を失い、引き返す。竜が一頭現れたことで、自分の命令が領主たちへ届かなくなっている。
家臣が、王太子への返書について尋ねた。
ヴァルテルは振り返った。
「出兵を終えたければ、四家が勝手に改めた扱いを撤回し、王兵を襲った者を差し出すこと。それが返事だ」
家臣の筆が走る。
王はその手元を見てから、言い添えた。
「レオンハルトには、都を守れと伝えよ。兵を戻すまで、守りを崩すな」
*
王の命令を持つ使者は、南へ向かった。
セヴェランだけでなく、軍を預かる指揮官にも同じ文を渡すためだった。
西では、王軍の荷車がさらに後方へ動き始めた。
その報告を聞いてもクラウスは、すぐに兵を休ませるとは言わなかった。国境の砦には、まだ王兵がいる。見張りは続け、退く列を追わぬよう命じた。
ポルフィラは草地で、ようやく腰を下ろした。
膝に置いた文には、避難した両親の行き先が記されている。道をたどるように指でなぞる。飛べば、顔を見に行けるだろうか。
「南の返事を待っている」
クラウスの言葉に、彼女は顔を上げた。
「王の命令で、あっちが本当に退くか確かめたい。退くと分かれば、こちらも守りを分け直せる」
ポルフィラは紙を折り、服の内側へしまった。
オブシディオンが彼女へ目を向ける。
〈少し眠れ。今は、私が見ている〉
彼女は鱗へ背を預けた。目を閉じても、空を飛ぶ感覚が、まだ体の中で揺れていた。




