第165話 町へ戻る兵
夜の川を渡って逃れてきた男は、濡れた服を握り締めていた。
「王の兵は町の家からも、食料を集めています。うちも、残っていた粉を持っていかれました」
王軍は、補給を守るため北の道へ兵を割いている。その分、町の守りは薄くなっていた。
クラウスは地図から顔を上げた。
「今なら、この町を取り戻せる」
橋から進むのはヴェルディア兵。北へ回る隊には、インディルの増援も加わる。東の街道を逃げ道として残し、王兵を町の中へは閉じ込めない。
ポルフィラとオブシディオンは、町と王の本隊の間に入り、ノクスの加勢を防ぐ役目だった。
*
王兵の放った矢が橋板へ突き立つ。
前を進むヴェルディア兵が盾を上げた。その陰へ次の兵が身を寄せる。足を止めれば、後ろが詰まる。
「進め! 向こうへ渡れ!」
隊長の声が橋に響いた。
町を追われた日、最後まで盾の兵列を支えた隊長だった。今日も先頭に立ち、王兵の槍を盾で受けている。
その脇へ、味方から槍が突き出された。
王兵が槍を避けて一歩退く。
橋の出口が開いた。ヴェルディア兵が通りへ押し出す。町角の向こうでは、北から来たインディル兵の旗が揺れていた。
家の戸が、細く開く。
「まだ出るな! 安全になったら呼ぶ!」
その脇の路地から、王兵が槍を突き出す。声をかけた兵は戸口から身を引き、盾で穂先を押し返した。
*
黒い天馬が、本隊を離れた。
王がノクスを町へ向けている。
ポルフィラは、オブシディオンの首へ体を寄せた。
〈町へ行かせないで〉
竜が翼を打つ。
ノクスとの間が一気に縮まった。黒い翼が大きく開く。風が来る。
その前にポルフィラは角の後ろへ伏せた。
激しい音とともに、鱗へ風がぶつかった。
衝撃に息が止まり、肩が外へ引かれる。膝を締め、首の動きへ体を沿わせる。足は離れない。次の衝撃に備え、息を吸った。
オブシディオンは風を突き抜け、羽ばたき一つでノクスに迫り、牙を剥き出した。
迫る竜の牙を前に、ノクスが急旋回する。王は鞍へ身を伏せ、手綱を引き絞った。
黒い天馬は本隊の方へ逃れる。
竜は数度の羽ばたきで追うのをやめ、向きを変えた。
〈ここを離れれば、その隙に別の王兵が通る〉
ポルフィラはうなずいた。
町の北には味方の旗がある。その足元から、煙が上がっていた。
〈町で、火が……〉
首をそちらへ向けかけたが、東でノクスが翼を開き直す。
オブシディオンの体が、その進路を塞いだ。
ポルフィラは角へしがみついたまま、煙の根元を見ようとした。屋根に遮られ、どうなっているのか分からなかった。
*
「持ち出せぬ物資は燃やせ! 東へ退くぞ!」
王側の指揮官の声がした。
倉の戸口で火が膨らむ。追い出されたように飛び立った鳥の下で、煙が隣家の窓を覆った。
「井戸へ回れ! 家にいる人を出せ!」
ヴェルディアの隊長が、指示をとばす。
そちらへ走った部下の前で、退きかけた王兵が振り向き、弓を引いている。
隊長は咄嗟に盾を突き出す。
矢はその脇を抜け、首を貫いた。
首へ手を当てた隊長が、膝を折る。
「隊長!」
部下が抱き起こした。指の間から血があふれ、盾の裏を伝った。
もう一人が布を押し当てる。押さえた手の下で、隊長の口が動いた。
声にならない。
路地の奥で女が叫んだ。
部下の一人がそちらを見た。隊長へ目を戻し、それから立ち上がる。
「火が回る! 住民を出せ! ここは俺が引き継ぐ!」
その声は裏返っていた。それでも、止まりかけた兵達が走り出した。
北から来たインディル兵は、店の戸へ肩をぶつけた。
奥で物が倒れる音がする。煙の下へ身をかがめると、天馬の民の老夫婦が見えた。夫が、足を痛めた妻を背に隠すようにしている。
「クラウス様の味方です。迎えに来ました!」
夫の手から、握っていた棒が落ちた。
「娘は……娘は、逃げたはずなんだ」
兵はその場所を聞き直した。両親を探す娘がいると、西岸の家臣から聞いていた場所だった。
「向こうで待っているかもしれません。川まで行きましょう」
夫は何度もうなずき、妻を起こそうとする。兵が手を貸し、二人を煙の外へ連れ出した。
*
町の東へ、王軍の荷車が続いていた。
町から退いた兵を収容し、本隊も王領の方へ引いていく。ノクスはその列の近くへ下り、もう町へ向き直らなかった。
〈追うか?〉
オブシディオンが尋ねた。
ポルフィラは煙へ目を戻した。町の外へ出た人が、地面へ座り込んでいる。
〈戻って。まだ、助けを待っている人がいる〉
竜は川岸の家臣の合図を待ち、町外れの畑へ降りた。
ポルフィラの足が地面につく。踏ん張ろうとした膝が震えた。
家臣が駆け寄り、王兵は町を退き、通りを確保したと告げる。
橋を渡ってきたクラウスが、次々と指示を出していた。
火が残る家へ近づけないこと。まだ調べていない建物へ、住民を戻さないこと。
ポルフィラはその横で、担架に道を譲った。
血のついた盾が添えられている。
「橋を守っていた隊長だ…」
運ぶ兵の声に、ポルフィラは担架を見直した。
渡り終えた兵を見守っていた日の姿が浮かぶ。あのときは立っていた。仲間へ声をかけ、自分の足で橋を渡ってきた。
呼び止める言葉が出ない。
担架は、彼女の前を通り過ぎた。
川岸では、店の娘が父母に抱きついていた。
娘の泣き声と、担架を運ぶ兵の足音が聞こえる。
ポルフィラはオブシディオンへ手をついた。手のひらに伝わる熱へ身を寄せたまま、しばらく動けなかった。




