第159話 ここを離れられない
ポルフィラが町の上へ着いたとき、橋にはまだ逃げる人々がいた。
町側の入口では、クラウスの兵が王兵を押しとどめている。その上を、王を乗せたノクスが飛んでいた。
〈ノクスを、橋から離して〉
オブシディオンが翼を傾けた。
〈低く伏せていろ〉
ポルフィラは角の根元へ体を寄せた。
竜が橋とノクスの間へ入った。
驚いた王が手綱を引き、竜から離れるようノクスの向きを変えさせようとした。
だが、恐慌したノクスは、その場で激しく翼を打ち風を起こす。
風がオブシディオンの胸を打った。
鱗をひっかく音が響き、ポルフィラの体が浮いた。足が支えから外れ、角を握る腕に全身の重さがかかる。
声も出なかった。肘を曲げ、必死に胸を首へ押しつけた。
オブシディオンが高度を上げた。
大きな翼がノクスの前を覆う。竜が顎を開き、咆哮した。
ノクスが急に身をひねった。
王の体が鞍の横へ振られる。ノクスの体にしがみついたヴァルテルを乗せたまま、黒い天馬は町の屋根を越え、東へ逃れていった。
ポルフィラは、ノクスが橋から遠ざかるのを見た。
行く先には、王軍の旗が並ぶ街道があった。ノクスはその本隊の方へ下りていく。もう橋を襲える位置にはいない。
あの背に王がいる。
追いつけば、戦いを終わらせられるのだろうか。
そう思ったとき、眼下の橋で盾の列が崩れた。王兵たちが、逃げる住民の方へ踏み込もうとしていた。
〈王は追わないで。橋の兵を止めて〉
〈分かった〉
オブシディオンは町の東へ追わず、橋へ引き返した。
王が離れても、町に入った王兵は残っていた。
竜を見て通りの奥へ逃げた者もいる。だが、橋の入口で戦っていた兵は、まだ斬り合っている。
オブシディオンが、その王兵の上へ大きな影を落とした。
何人かが頭をかばい、後ずさる。指揮官も空を見上げたが、守備兵へ向けていた剣は下ろさない。
クラウスの兵は負傷者を抱え、少しずつ橋へ退いていた。
〈下がらせたい。でも、橋には人がいる〉
ポルフィラは、川岸の小舟にも目を向けた。人が乗っている。そのそばへ炎を向けるわけにはいかなかった。
〈人のいない水の上へ吐く〉
オブシディオンが橋と小舟から離れた川下へ首を向けた。
ポルフィラは鱗へ伏せ、角を握り直した。
黒い炎が、水面の上を走り、水蒸気が噴き上がる。
腹を揺さぶる轟音が川に響き、熱で揺らぐ空気の向こうで王兵の列が崩れた。
丘で人を焼いたときの姿が、ポルフィラの目に浮かぶ。手の震えを押さえるように、角へしがみついた。
炎が途切れた。
オブシディオンは首を戻し、王兵へ咆哮した。
頭の奥まで揺さぶられる響きに王側の指揮官が、慌てて後退を命じた。兵たちは橋から離れ、町の通りへ下がっていく。さらに竜から距離を取り、建物の陰へ退いていた。
橋の入口に、王兵の姿はなくなった。
クラウスの兵が負傷者を運び始め、住民たちも止まっていた足を動かした。
ポルフィラはまだ着地をせず、オブシディオンと川の上に留まり、退く人々の後ろへ王兵が出てこないか見ていた。
*
町の東では、ノクスが王軍の本隊の近くへ下りていた。
ヴァルテルは兵に支えられて鞍から下りた。膝が震え、すぐには歩き出せなかった。
ノクスも落ち着かず、竜のいる方を向くたびに翼を動かした。
川の方で黒い炎が上がると、周りの兵は動揺し、身をすくめた。
王は近くの指揮官を呼んだ。
「竜のいる橋へ、兵を近づけるな」
「町に入った部隊も退かせますか」
「町は押さえよ。橋へは進むな。竜が離れたら、すぐ私に知らせろ」
指揮官が伝令を走らせた。
王はノクスの首へ手を置いた。今すぐ、もう一度竜へ向かわせることはできなかった。
*
負傷した守備兵が、仲間に肩を借りて橋を渡った。
その後ろから、板に乗せられた竜の民の男が運ばれてきた。付き添う女が、夫の名を呼び続けていた。
橋の入口を守っていた兵の隊長も、西岸へ渡り終えた。
オブシディオンは町側の通りを見た。王兵は建物の奥に留まり、橋へ戻ってこなかった。
ポルフィラも、東の空を見た。ノクスは戻っていない。
〈西岸へ下りよう。橋と、逃げる道は空けて〉
〈あの草地へ下りる。町は見える〉
オブシディオンは橋の脇にある草地へ降りた。
逃げる人の列からは離れ、川向こうの町を見渡せる場所だった。ポルフィラを地面へ下ろすと、オブシディオンは再び首を上げ、王兵のいる岸へ顔を向けた。
クラウスが家臣とともに来た。
「王もノクスも、橋から離れました」
ポルフィラが伝えると、クラウスはうなずいた。
「見張りからも、王軍の本隊へ下りたと報告があった。町の王兵も進んでこない。今のうちに、ここへ渡った者を先へ逃がす」
彼の袖には血がついていた。
ポルフィラの視線に気づき、クラウスは腕を動かした。
「私の怪我ではない。負傷した兵を運んだときについた」
板で運ばれた男のそばで、医師が膝をついた。
妻に何かを告げると、女は首を振った。夫の手を握り、離そうとしなかった。
ポルフィラはそこを見たまま、言葉が出なかった。
クラウスが静かに告げた。
「町の中には、逃げられなかった者がいる。戻って家族を探したいと言う人もいるが、今は王兵がいて通せない」
川の向こうには、町の屋根が並んでいた。王兵を橋から退かせても、町を取り戻せたわけではなかった。
「南からも知らせが来ている。セヴェランが兵を進め、レオノーラは詰所を一つ明け渡した。残る道は、ヴェスペラと守っているそうだ」
ポルフィラは顔を上げた。
「私たちが、そちらへ行った方がいいですか?」
「今は、西に残ってほしい。君たちが離れれば、ノクスがまた橋へ来るかもしれない。南への増援は、テオバルトと手配する」
ポルフィラはオブシディオンを見た。彼は、話の間も町へ目を向けていた。
ここに残れば、南には行けない。それでも、今の橋を守る者が必要だった。
「残ります。こちらへ兵が戻ってきたら、また止めます」
クラウスがうなずいた。
「南のことも、知らせが届いたら伝える」
ポルフィラは、震える手をオブシディオンへ伸ばした。
草地の後ろでは、避難の荷車が出発していた。対岸の王兵は町を離れず、王とノクスも、町の東にいる。
まだ、この橋から離れることはできなかった。




