第155話 黒い炎の行き先
横道を進む荷車には、救い出したニコとダリオが乗っていた。ニコは、斬られたダリオの傷を布で押さえている。
弟が荷馬を引き、アズレイン兵が車体を押した。矢を受けた村の若者も荷台へ運ばれていた。
街道側の追手は、オブシディオンが下りて進路を塞いでいる。だが、丘の上の王兵は、竜から離れた所にいた。
矢が、荷車と運ぶ人々を射り続けた。
〈丘から射ている人たちを、止めて〉
ポルフィラはオブシディオンへ頼んだ。竜は街道を押さえたまま、首を丘へ向けた。
〈火を向ければ、人が死ぬ〉
ポルフィラは答えられなかった。
丘の兵が弓を引く。荷車を押す味方の兵は、負傷した肩をかばいながら進んでいた。このままでは、また誰かへ刺さる。
「射よ!」
王の指揮官の声がした。
ポルフィラは角を握り締めた。
〈丘の弓兵を攻撃して!〉
オブシディオンの首が、丘へ伸びた。
深く息を吸う音がした。ポルフィラは角の根元へ身を伏せた。つかまっている鱗の下で、首の筋肉が硬くなる。
低い唸りが喉の奥から響き、彼女の胸まで震わせた。
顎が開く。
次の瞬間、黒い炎が噴き出した。
轟音が丘にぶつかった。
太い火の奔流が、荷車の通る道より上の斜面を直撃する。岩陰に並んでいた弓兵も、その後ろの茂みも、一息に黒い炎へ呑まれた。
炎は斜面に沿って大きく広がり、逃げようと立ち上がった兵の姿を覆った。
熱が頬へ押し寄せた。
ポルフィラは目を細め、さらに身を低くした。首を伝わる振動で、角を握る腕まで震える。炎を吐く音が大きすぎて、ほかの音は何も聞こえなかった。
黒い火の端から、人が転がり出た。
一人は斜面を這い下り、一人は燃える外套を引き剥がそうともがく。弓を手放した腕が上がり、そのまま地面へ崩れた。
ポルフィラは息を詰めた。さっきまで弓を引いていた人だった。
オブシディオンが炎を止めた。
途端に、燃える茂みの音と、荷馬のいななきが聞こえた。丘には煙が立ち、火を逃れた兵が岩の向こうへ走っていく。
荷車を狙っていた弓の列は、もうなかった。
ポルフィラは顔を伏せた。
角を握る手が離せなかった。自分が頼んだ。あそこへ、人のいる場所へ、火を向けてほしいと……
炎に覆われた人影が、目を閉じても消えなかった。
〈まだ、荷車が道を抜けておらぬ〉
オブシディオンの声が届いた。
ポルフィラは息を吸おうとした。喉が詰まり、一度ではうまく吸えなかった。
それでも、鱗へ押しつけていた顔をわずかに上げ、彼女は目を開けた。
*
王の指揮官の声が途切れ、丘に残った兵も逃げ始めた。
街道のアウレリス兵は、もう竜へ近づこうとはしなかった。
「荷車を進めろ!」
アズレインの救出隊を率いる家臣が命じた。
荷車は横道の先へ動き、負傷した兵は仲間に支えられて続いた。
オブシディオンは逃げる敵兵を追撃しなかった。
ポルフィラは震える足を鱗へ掛け直し、退路を見た。
丘の下で、一人の王兵が手を上げていた。
弓を捨てて斜面を下りたものの、脚を痛めて動けなくなっている。
ポルフィラは声を上げたが、地上までは届かなかった。
彼女は近くを飛ぶアドリアンへ手を振り、その兵を指した。
アドリアンは視線を追って気づくと、ソレインを道へ下ろした。王兵に肩を貸して起こす。
救出隊の兵も、運ぶのを手伝った。
「捕らえた兵として連れていく。武器は預かれ!」
救出隊の家臣が告げ、負傷した王兵も荷車の空いた所へ乗せられた。
助けられても、その兵は竜から顔を背けていた。
*
一行がアズレイン領内の退避所へ入るまで、ポルフィラはオブシディオンに乗っていた。
竜は遅い荷車に合わせて飛び、追手が来ないか見張った。到着して頭を下ろしてもらうと、彼女は鱗を伝って降り、その場へ膝をついた。
医師たちは、運び込まれた者を順に診ていた。
ダリオの弟は兄の手を握ったまま、医師が来るのを待った。確かめた医師は、静かに首を振った。
ダリオは、運ばれている間に息を引き取っていた。
ニコの縄を切った村の若者も、矢の傷が深く、助からなかった。
弟は医師へ尋ねた。
「兄は、頼まれた文を書いただけなんです。どうして、殺されなければならなかったんですか……」
返事はなかった。弟はまた兄の手を握った。
ポルフィラは離れてその姿を見ていた。ダリオを連れ出すことはできた。でも、生きて返すことはできなかった。
救出隊の家臣が戻り、味方の人数を確かめ始めた。ポルフィラは立ち上がり、その家臣へ尋ねた。
「丘にいた王の兵は、どうなりましたか」
「こちらでは、全員の生死は確かめられていません」
「分かったら、私にも教えてください……私が攻撃を頼みました」
家臣は彼女を見て、うなずいた。
*
ニコは、退避所の腰掛けで手首の傷を診てもらっていた。
ポルフィラが近づくと、彼は背後に伏せる竜を見て体を硬くした。炎を吐いた姿を、ニコも荷車から見ていた。
ポルフィラは少し離れた所で止まった。
「ここから、お話ししても大丈夫ですか」
ニコはうなずいた。礼を言おうとしてから、ダリオの遺体が置かれた方を見た。
「俺が、あの人に頼んだんです。字を書いてくれと」
「それで二人が捕えられるのは間違っています」
そう答えても、ダリオが戻らないことは変わらなかった。
ニコは顔を覆い、しばらくしてから手を下ろした。
「村へ、生きていると知らせたいです。ダリオと、助けに来てくれた仲間のことも。何があったか、黙っていたくない」
ポルフィラは近くの家臣を呼び、村へ知らせを届ける相談をしたいと伝えた。
オブシディオンのもとへ戻ると、彼女は鱗に手を置いた。
炎を人へ向けた。それでも、助けられなかった人がいる。
負傷者を運ぶ声が聞こえ、ポルフィラはもう一度、退避所の方へ顔を向けた。




