第149話 竜が去った場所
砦の裏手へ降りると、ポルフィラは角から手を離しかけた。
足が震えていた。オブシディオンが頭を地面へ近づけるまで、そのまま待った。
リゼリアはシルヴァのそばに座っていた。
「リゼリア!」
駆け寄ろうとして、一度足がもつれた。
リゼリアが顔を上げた。
「大丈夫。落ちなかったわ」
左の腕を押さえている。袖が裂け、腫れた腕に血が滲んでいた。
「シルヴァは?」
「休ませたい。私より、ずっと頑張ってくれたから」
灰色の天馬は、あちこち傷つき翼を畳んで首を下げていた。
オブシディオンが降りても飛び退かなかったが、疲れた体を少し硬くした。ポルフィラはそこで足を止めた。
砦の家臣が医師を連れてきた。
医師は竜を見て立ち止まり、リゼリアへ目を移した。
「こちらへ、来られますか?」
ポルフィラは後ろを振り返った。
竜のそばへは近づけない。そう言いたいのだと分かった。
〈少し、離れよう〉
オブシディオンはうなずき、彼女とともに草地の端へ移った。
医師がようやく歩き出した。
助けに来た自分たちが、今は手当てを妨げている。
ポルフィラは草の上へ座り込んだ。
*
砦から出てきた若い兵が、彼女たちへ礼を言った。
「ノクスが戻ってくれば、門は守れませんでした」
「皆さんは、無事ですか?」
兵は少し黙った。
「門を守っていた者が、一人亡くなりました。負傷した者もいます」
ポルフィラは顔を伏せた。
間に合わなかった人がいた。
誰かの家へ、帰ってこないと知らせが届く。
兵は竜を見上げ、頭を下げて砦へ戻った。
礼を言ってほしいわけではなかった。でも、亡くなった人のために、何を言えばよいのかも分からなかった。
*
王の兵は領境を越え、王領側の後方の野営地まで退いていた。砦の近くで列を整え直している兵も、もういない。
やがて、王の野営地から使者が来た。砦を預かるクラウスの家臣が迎えると、使者はまず竜の居場所を尋ねた。
退いたのは兵を立て直すためで、砦を明け渡す命令は取り消されていないと告げた。
クラウスの家臣は、使者へ答えた。
「こちらから追撃はしていない。負傷者を運ぶ間は、攻撃を控えるよう伝えてほしい」
使者は了承したと言わず、帰っていった。
黒い炎を見て、王兵は大きく退いた。負傷者を運び、壊れた門を補強する時間はできた。
だが、王の命令は下げられていない。兵はまた来るだろう。
*
オランデルでは、ヴェスペラが街道の上へ戻っていた。
アルディスを追って遠ざかれば、その間に王の兵が詰所へ進む。地上の兵を止めようとすれば、白い天馬が近くの道へ下りてくる。
レオノーラは、ヴェスペラを詰所と避難の道の間に留めた。
セヴェランが向かいの斜面へ降りた。
「道を空ければ、これ以上の怪我人は出ぬ!」
「なら、先に兵を下げて!」
レオノーラが叫び返した。
「王の命令だ!」
「ここを通った先には、避難している人たちがいるわ。通すことはできない!」
セヴェランがアルディスを前へ進ませた。
白い翼が開くより先に、ヴェスペラが翼で地面を打った。
巻き起こした風が街道の土を削り、アルディスの進む先を横切った。白い天馬が足を止める。
セヴェランの顔がゆがんだ。
そのとき、王側の指揮官が声を張った。
「いったん兵を下げます! 負傷者を運びます!」
セヴェランが振り向いた。
「なぜ下げる。道は、まだ……」
「このままでは、倒れた者が踏まれます。殿下もお退きください!」
王の兵の列が後ろへ動いた。
オランデル側の兵も、追わずに負傷者を運び始めた。
レオノーラは空から、その道を見ていた。
誰も近づかない道端で、竜の民の若い男が一人、倒れた兵へ手を伸ばしていた。
避難の途中で荷車を押すのを助けていた男だった。
そばにいた商人も戻り、二人で兵を荷車へ載せた。
レオノーラはヴェスペラを下ろした。
「その兵は、こちらの者?」
商人が首を振った。
「王の兵らしいです。呼んでも、誰も戻ってこなくて」
男の足元で、槍が泥に沈んでいた。
レオノーラは近くの家臣へ命じた。
「武器を預かって、医師の所へ。捕らえた兵として記録して。勝手に取り調べたりさせないで」
竜の民の男が、汚れた手を服で拭いた。
救ったからといって、その兵が自分たちをどう思うかは分からなかった。
*
ポルフィラがオランデルの様子を知ったのは、砦を離れ、クラウスのもとへ戻ってからだった。
使者が持ってきた報告を、クラウスが読んだ。
詰所での衝突はいったん止まった。王の兵は近くに留まり、セヴェランもいる。
双方、負傷者は多数でている。
ポルフィラは最後まで聞いた。
オランデルに残っていれば…
そう思いかけて、リゼリアとシルヴァの怪我を思い出した。
ここへ来なければ、砦ではもっと多くの人が犠牲になっていたかもしれない。
「今から、オランデルへ戻った方がいいですか?」
クラウスは首を振った。
「まず休んでほしい。西の王兵は後方まで下がった。砦の前も空いている。ただ、王が進軍をやめたわけではない。次にどう動くか、知らせを確かめて相談する」
ポルフィラはうなずいた。
「私がもっと早く……」
「進軍を決めたのは王だ。君が自分を責める必要はない」
クラウスは文を置いた。
「ただ、領民を元いた場所に戻せる状態にするには、兵を退かせなければならない」
ポルフィラは窓の外を見た。
開けた庭の向こうで、オブシディオンが休んでいた。
彼のいる草地に面した部屋を使わせてもらっている。戸は開けてあり、顔を上げれば、その目が見えた。
〈オブシディオン。傷は痛む?〉
〈かすり傷だ〉
その返事を聞いて、ようやく涙が出た。
自分の頬へ触れると、風が掠った場所がひりついた。
誰も死なないでほしいと願っていても、それだけで戦いを止められるわけではなかった。




