第148話 西へ向かう翼
詰所の方から戻ったレオノーラは、ヴェスペラを竜から離して待たせた。
「アルディスは、こちらの兵を道から退かせようとしている。ヴェスペラで近づけば下がるけれど、兵まで退くわけではないわ」
王の兵と、オランデルの兵が向かい合っている。
近くで天馬の風をぶつければ、どちらの兵も巻き込む。
レオノーラの袖は裂けていた。布の端に土がついている。
ポルフィラはそこを見てから、顔を上げた。
「ノクスが西へ向かったと、リゼリアから知らせが来ました」
「読んだわ」
レオノーラは草地に立つ使者を見た。
「シルヴァだけでは、長く支えられない。あなたたちには、西へ向かってほしい」
ポルフィラは後ろを振り返った。
オブシディオンの向こうに、避難者が入った町が見える。
「私たちが行ったら、ここは……」
「ヴェスペラと私が残る。兵もいる。避難は続けるわ」
「危険ではないですか?」
レオノーラは少し黙った。
「守るために残る。でも、誰も傷つけさせないとは約束できない」
ポルフィラは指を握った。
ここを離れた後、何かあったら。
自分が西へ行くと言わなければ、違ったのだと後悔するだろう…
レオノーラは彼女の返事を待たず、続けた。
「あなたが選ぶわけではない。私が西へ向かうよう頼んでいるの。ノクスを止めるには、こちらより大きな力が必要だから」
ポルフィラはうなずきかけ、まだ足を動かせずにいた。
〈オブシディオン。西へ行ける?〉
〈行ける〉
〈ここの人たちを、残していくのが怖い〉
〈両方へは行けぬ〉
分かっていたことだった。
それでも、あえてその返事を聞いてから、ポルフィラは角の根元へ手を掛けた。
「西へ行きます。ここで何があったかも、あとで教えてください」
レオノーラがうなずいた。
「伝えるわ。あなたも、戻れるときに知らせて」
*
オブシディオンの首が持ち上がった。
羽ばたく前に息を吸う気配が、座っている場所へ伝わる。
ポルフィラは先に身を低くした。巨体が地面を離れてから、角を握り直す。
背の上でどうするか教えられなくても、前より分かるようになっていた。
だが、足元の町が小さくなると、胸が苦しくなった。
〈急いでほしい。でも、落ちそうで怖い〉
〈体を低くしろ。曲がるときは伝える〉
彼女が姿勢を直すのを待ち、オブシディオンは西へ向かった。
町も畑も、翼の下を過ぎていく。
そこにいる人々は、空を見上げているのだろうか?
竜が通ったから助かると思うのか?
それとも、どこかへ戦いに向かうと恐れるのか?
しばらく飛んだ後、前方の空に、小さく動く影が見えた。
黒と灰色。
〈ノクスとシルヴァだ〉
ポルフィラは角を握り締めた。
*
西の砦の上で、シルヴァが大きく体を傾けた。
リゼリアは鞍へ身を伏せた。
ノクスの翼が動く。
打ちつけた風を避けたが、シルヴァとリゼリアを掠り、風の通り道にあった砦の旗が支柱ごと折れた。
地上では、王の兵が門へ近づいていた。砦を守るクラウスの兵が盾を並べる。
さきほどノクスの風を受けた門は、片側が傾いていた。
リゼリアはシルヴァを砦の外へ誘導した。
ここで打ち合えば、壁の上にいる兵が落ちる。
ノクスが追ってくる。
一度、二度と逃れても、黒い巨体は離れなかった。
風を返そうと翼を開けば、その隙に門へ向かわれる。
シルヴァの息が荒くなっていた。
リゼリアは、砦から遠ざかりすぎないように首を巡らせた。
そのとき、空の下に大きな影が伸びた。
ノクスの羽ばたきが乱れた。
*
〈上から入る。低く伏せろ〉
ポルフィラは角の根元へ体を寄せた。
オブシディオンが翼を傾ける。
地面が斜めに回り、砦が視界の端へ流れる。声が出そうになって、歯を食いしばった。
黒い天馬の進路へ、竜の体が割り込んだ。
ノクスが急に高度を落とした。
オブシディオンは後ろを追わず、砦とノクスの間を飛んだ。
翼を開いた黒い天馬から、鋭い風が走った。
鱗を打つ音がした。細い傷が刻まれ、伏せたポルフィラの頬にも、風の端が触れた。
オブシディオンの首がわずかに動いた。
〈しっかりつかまっていろ〉
彼はもう一度、ノクスの前へ出た。黒い天馬が大きく身をひねり、逃げるために翼を打つ。
その下では、王の兵が門へ近づいたまま立ち止まっていた。剣も槍も、まだ下ろしていない。
〈あの兵たちも、砦から離さねばならぬ〉
ポルフィラは眼下を見た。傷ついた門の前に、クラウスの兵がいる。王の兵がまた進めば、戦いが始まる。
〈うん。でも、人には火を向けないで〉
〈分かっている。つかまれ〉
オブシディオンが砦と王兵の間を横切った。人のいない草地へ体を向け、首を上げる。
ポルフィラは角の根元へ身を伏せた。首の奥で、低い音が膨らんだ。
次の瞬間、黒い炎が王兵がいる方角の空へ噴き上がった。
太い火の柱が空を貫き、その先で大きく広がった。
轟音が砦の壁にぶつかり、草地を震わせる。空気が熱に揺らぎ、竜の輪郭までゆがんで見えた。
ポルフィラは息を止め、角へしがみつく手に力が入った。あれを地上へ向ければ、人も門も残らない。
ノクスが翼を激しく打った。竜から少しでも離れようと、黒い体が大きく傾く。砦へ戻ることも、シルヴァを追うこともせず、王領の方へ逃れていった。
熱が地上へおりてきて、王兵の列も崩れた。
「下がれ!」
叫びが上がった。
盾を頭の上へかざす者、槍を落として後ずさる者がいる。
炎を向けられると思ったのか、隣の兵を押してその場から離れようとする。
王側の指揮官は後退を命じたが、その声より早く兵は逃げ出していた。門の前から離れただけでは止まらない。後ろの列まで巻き込み、来た道へ押し戻されていく。
黒い炎が途切れた。
オブシディオンは、人のいなくなった草地へ降りた。後脚が地面を捉え、広げた翼が風を起こす。ポルフィラは体が揺れるのに耐え、角を握り直した。
着地すると大きな顔を王兵へ向け、咆哮した。兵たちは恐慌をきたし、指揮官の乗る馬まで横へ跳ねた。
「王領まで引け! 後ろの者を押すな! 負傷者を置いていくな!」
指揮官は馬を立て直し、砦ではなく退路へ剣を向けた。
オブシディオンは追いかけず、その場で王兵を見据えていた。前列が道を戻り、後ろの列が領境を越える。立ち止まりかけた兵も、振り返って竜を見ると、また足を速めた。
やがて最後の列も丘の向こうへ消えた。王領側の後方にある野営地まで引くと、砦の見張りが声を上げた。
門のすぐ外にいた王兵は、もう見えない。再びここへ来るには、隊を立て直さねばならなかった。
*
砦を守っていた兵たちは、すぐには動けなかった。味方のはずの竜を見上げ、剣を握ったまま立ち尽くしている。
ポルフィラは、その顔を見た。王兵だけが怖がっているのではなかった。
オブシディオンが首をわずかに戻した。
〈兵は離れた〉
〈うん。ありがとう…〉
返事をする声まで震えていた。
砦の家臣が我に返り、部下へ命じた。
「追うな! 今のうちに負傷者を運べ。門の内側を空けろ!」
その声で、ようやく兵たちが動き始めた。崩れた門の横で、一人が仲間に肩を借りて立ち上がる。
ポルフィラは顔を上げた。シルヴァが砦の裏手へフラフラと下りていく。
〈リゼリアの所へ行って〉
〈ああ〉
オブシディオンは、王兵が退いた道をもう一度見てから向きを変えた。彼女はその首に体を寄せたまま、傷ついた砦を見ていた。
兵を大きく退かせることはできた。それでも、すでに傷ついた人たちを元に戻せるわけではなかった。




