第144話 その力で、あの男を
王都の洗い場で、エナはいつもより多く届いた布を仕分けていた。
兵に持たせる品を急いでそろえるのだと、荷を運んできた男が言った。
「オランデルの方へ行くらしい。道で列に会った」
そばで布を畳んでいた若い男が、手を止めた。
「天馬もいたのか?」
「見なかったな。兵と荷車だけだった」
運び手は荷を下ろすと、別の洗い場へ向かった。
エナは持っていた布を置いた。
また、兵がどこかへ行く。
それを見送り、帰ってきた者の布を洗う。自分はここで、そうして年を重ねていくのだろうか。
若い男が小声で言った。
「オランデルには、レオノーラ様がいる」
エナはうなずいた。
あの人は、自分たちの話を聞いた。夫と娘を葬るためにも動いてくれた。
だが、セヴェランは今も生かされている。
*
エナはその後、洗濯物を取りに来る運び手へ頼んだ。
「レオノーラ様の家の方に、話を伝えてもらえませんか」
男は困った顔をした。
「俺は城へ入れるわけじゃない」
「王都へ来ている家臣の方でいいんです。以前、私たちを助けてくださった方です」
「知り合いがいるか、聞いてはみる。いつになるか分からないぞ」
「お願いします」
エナは頭を下げた。
すぐに返事は来なかった。
布を洗い、食事を取り、眠る。朝になると、また水に手を入れた。
年配の女はエナの頼みを知ると、しばらく黙った後で言った。
「私も、村であったことなら話せるよ」
エナはうなずいたが、本当に伝えたいことは言わなかった。
*
王都で用務をしていたオランデル家の家臣が訪ねてきたのは、洗い物を干し終えた後だった。
エナは若い男と年配の女を呼んだ。
家臣はレオノーラから聞いた三人の名を確かめると、話を聞くために腰を下ろした。
「兵がオランデルへ向かったと聞きました」
エナが言った。
「領境の近くに集めているとの報告はあります。ただ、まだ領内へ攻め込んではいません」
「白い天馬の男も、行くんですか?」
「王弟殿下が出発したという報告は、受けていません」
エナは膝の上で指を握った。
「あの方は、また村を壊すのでしょうか?」
家臣は答えられなかった。
エナは顔を上げた。
「竜に乗る人がいるんですよね。あの男を追い払ったと聞きました」
「はい。竜とともに王と会ったことも、確かです」
噂ではなかった。
エナは少しだけ前へ身を寄せた。
「その人に、会いたいです」
家臣が問い返した。
「何をお伝えになりたいのですか」
「セヴェランを、殺してほしい」
隣の若い男がエナを見た。年配の女も顔を上げた。
エナは家臣から目をそらさなかった。
「私には、近づくこともできません。兵に守られて、天馬に乗っている。でも竜が相手なら、あの男は逃げたんでしょう?」
「そのような頼みを引き受けるとは、お約束できません」
「伝えるだけでいいんです」
エナの声は震えなかった。
「夫も娘も死にました。あの男だけが、何も失わずに生きている。私は、もう別の村で起こる悲劇を聞きたくありません」
家臣はすぐには筆を取らなかった。
「レオノーラ様へ、そのままお伝えしてよいのですね」
「はい。竜に乗る人にも、伝えてください」
エナは答えた。
*
レオノーラがエナの言葉をポルフィラへ伝えたのは、オランデルへ戻ってからだった。
ポルフィラはリゼリアとともに、その領地を訪れていた。避難の準備を始めた各地から報告が届き、保護している人たちの今後についても、三家で相談が続いていた。
オブシディオンは館から離れた草地へ降りた。レオノーラはそこで二人を迎え、王都からの報告を取り出した。
「あなたに会いたいと言っている人がいるの」
「王都の人ですか?」
「王領の村に暮らしていた人よ。王弟に家族を殺されて、今は王都で働いている。私も、前に会ったことがあるわ」
レオノーラは、エナが託した言葉を読んだ。
セヴェランを殺してほしい。
ポルフィラは、はっとして顔を上げた。
続いて読まれた夫と娘のことが、うまく頭へ入らない。殺してほしいという言葉だけが残った。
「私に……ですか?」
「竜ならできると思ったのでしょうね……」
ポルフィラはオブシディオンを見た。
彼が天馬を追い払った話は、人を守ってくれるという噂だけになったのではない。
天馬に守られた者を殺せる力。それを求めている人もいる。
「その人は、私が断ったら、どうするんですか?」
「そこまでは分からないわ。エナにも、あなたにも、私が代わりに答えることはできない」
レオノーラは文を畳まなかった。
「王弟が村にしたことを、なかったことにはしたくない。でも、そのことと、あなたに誰かを殺して欲しいと頼むことは別問題よ」
ポルフィラは目を伏せた。
酷い仕打ちをした者を、調べてもらえばよい。罰してもらえばよい。
それが簡単なことではない境遇で生きてきた人へ、今の自分がそう言ったら、どう聞こえるのだろう。
*
レオノーラとリゼリアが少し離れた後、ポルフィラは竜のそばへ座った。
〈あなたも聞いていた?〉
〈聞いていた〉
〈私に、人を殺してほしいって…〉
言い直すと、喉が詰まった。
〈おまえは、どうしたい?〉
〈分からない。夫と娘を殺されたら、憎むと思う。父さんや母さんだったらって考えると……〉
ポルフィラは手を握り直した。
〈でも、殺してほしいと頼まれたから、あなたを連れていくなんて、できない〉
オブシディオンは顔を下げた。人の背より高かった目が、少し近くなる。
〈できると返事をする必要はない〉
〈断ったら、あの人は私を恨むかもしれない〉
〈その恐れはある〉
ポルフィラは唇をかんだ。
断っても、家族を失った苦しみはなくならない。引き受けても、夫と娘が戻るわけではない。
ただ、次に誰かが殺されるのを恐れる気持ちは、痛いほどよく分かる。
*
戻ってきたレオノーラへ、ポルフィラは言った。
「その女性の希望を叶えることはできません…」
レオノーラはうなずいた。
「でも、何も言わずに終わりにもしたくないです。会って、話を聞きたいです」
「エナをこちらへ連れてくるには、王領の許しが必要になるわ。あなたが王都へ行くのも勧められない」
ポルフィラは顔を上げた。
王は、民を他領へ出さないと言った。
その人と話したくても、すぐに会うことさえできないのだ。
「まず、会いたいことだけ、伝えてもらえますか。どうすれば会えるかは、相談したいです」
「分かったわ。返事を届ける家臣には、三人の今の暮らしも確かめさせる。会う方法は、その報告を待って考えましょう」
ポルフィラはうなずいた。
レオノーラは、返事に書く言葉を一つずつ確かめた。
殺す約束はできない。それでも、あなたの話を聞かせて欲しい。
それで足りるとは思えない。だが、できない約束をするわけにはいかなかった。




