第142話 一頭では守れない
王都での会談から戻った後、レオノーラとテオバルトがヴェルディアを訪れた。
ポルフィラも相談に加わった。館に近い草地へ机が運ばれ、地図が広げられた。オブシディオンは、彼女のすぐ後ろに伏せている。
クラウスは地図の上へ指を置いた。
「避難してきた者は、今もオランデルで保護している。だが、王が兵を向けるのは、そこだけとは限らない」
指が西のヴェルディアへ移った。さらに北のインディルを示す。
「私とテオバルトも、王命に従わなかった。こちらを攻める理由にもされる」
ポルフィラは地図を見つめた。
これまでは、逃げてきた人たちのいる場所へ王の兵が来るのだと思っていた。
「避難してきた人がいない町にも、来るんですか」
「その恐れがある。ここを攻めて、レオノーラに引き渡しを迫ることもできる」
レオノーラが口を結んだ。
テオバルトが言った。
「兵だけなら、道を見張り、進んでくるのを確かめてから備えられる。だが、天馬は違う。山も領境も越えてくる」
ポルフィラはリゼリアを見た。
彼女も今日は席についていた。
「シルヴァがいれば、止められますか?」
「戦うことはできる。でも、ノクスを必ず止められるとは言えない」
リゼリアは地図へ目を落とした。
「私たちがオランデルにいれば、その間、ここにはいないの」
レオノーラが続けた。
「私にはヴェスペラがいる。王家の天馬が来れば、立ち向かうわ。けれど、私たちが戦っている間に、もう一頭が別の町へ向かったら追えない」
王家には、黒いノクスと白いアルディスがいる。
ポルフィラは地図の上で二つの場所を見た。一方へ向かえば、もう一方にはいられない。
*
〈オブシディオン〉
顔を上げると、彼は静かにこちらを見ていた。
〈あなたなら、王家の天馬を止められる?〉
〈私のいる場所へ来るならな〉
〈別の場所へ行ったら?〉
〈追うことはできる。だが、追いつくまでに何が起こるかは分からぬ〉
ポルフィラは地図へ向き直った。
彼が来たとき、王の兵は止まった。ノクスもアルディスも逃げた。
だから今度も、彼がいれば止められると思いたかった。
だが、他の場所にもたくさんの町や村がある。自分の村だけを見ていても、守らなければならない場所はほかにいくらでもあった。
「彼がいる場所なら、天馬を止められるそうです。でも、別の場所へ向かわれたら、間に合うとは言えないと」
クラウスはうなずいた。
「私の兵だけで天馬を防ぐことはできない。城に兵を集めれば、町や村が守れなくなる」
畑で働く人たちの上へ、ノクスが降りてきたら。
アルディスの羽ばたきだけでも、人が立っていられなくなった。逃げる家族の前へ降りられれば、兵のように剣を持つことさえできない。
ポルフィラの頭に、父の仕事場と友達の顔が浮かんだ。
「私がオランデルへ行けば、その間に、父さんたちの所へ来るかもしれないんですね」
「そうだ。だが、君が村に残れば済む話でもない。別の村へ行かれるだけだ」
クラウスは地図から手を離した。
「竜がいるから戦っても勝てる。そう考えて進めるわけにはいかない」
誰も答えなかった。
ポルフィラは後ろへ手を伸ばし、オブシディオンに触れた。
これほど大きな彼でも、すべての町を覆うことはできない。
*
「では、王の命令に従うしかないんですか?」
自分でも、頼りない声だと思った。
レオノーラは首を振った。
「返せば、逃げてきた人たちだけに罪を負わせることになる。そう決めるつもりはないわ」
「でも、ほかの人たちも……」
「ええ。だから、戦いになる前にできることを急ぐ」
クラウスが家臣から受け取った紙を机へ置いた。
「領境の見張りを増やすよう、家宰に指示した。兵や天馬の動きが分かったら、城だけでなく近くの町や村にも知らせる」
テオバルトが言った。
「知らせを受けてから、どこへ逃げるかも確かめさせる。道の途中で人が詰まったり、動けない者が残されたりしてはならん」
リゼリアが地図の町を指した。
「でも、ここで天馬を見つけてから使いを出しても、村には天馬が先に着くかもしれません」
「分かっている。襲われてからでは遅い。王が兵を集める動きも調べる。危険の大きい場所から、先に人を移す必要があるかもしれん」
テオバルトは言葉を切った。
「そのためにも、受け入れる場所と食料を今から確かめる」
ポルフィラは三人を見た。
避難する先があっても、家を離れたくない人はいる。仕事を休めば暮らしに困る家もある。
それでも、天馬が来てから逃げてと言うより、被害は少ない……
「村へ知らせる人には、天馬と争わず逃げてほしいことも伝えてください。役人から仕事を離れるなと言われたら、残ってしまう人がいると思います」
クラウスが顔を上げた。
「そうだな。避難の指示を妨げるなと、役人にも命じておく。町も村も同じだ」
*
レオノーラが地図の端へ文を置いた。
「ロデリクとリュシエンヌにも、改めて協力を求めたい」
「保護に加わってもらうのか?」
テオバルトが尋ねた。
「今すぐそこまで求めても、リュシエンヌは応じないでしょう。まず、領民を天馬で襲って命令に従わせることには、反対してほしい」
クラウスがうなずいた。
「王がその方法を使えば、いつか自分の領地にも同じことが起きる。他人事ではないと伝える」
「二人が反対すれば、王はやめますか?」
ポルフィラの問いに、レオノーラはすぐには答えなかった。
「約束はできない。でも、三家が逆らっているから兵を出す、武力で何でも従わせられるとは思わせたくないわ」
相談を終えると、三人はそれぞれの家臣を呼んだ。
見張りと避難の準備、食料と受け入れ先の確認。それぞれの領地へ送る指示が書かれていく。
ポルフィラはそのそばで待った。
自分にも何かできるはずだと、言いかけてやめた。オブシディオンと、どこへでも飛んで行ける。たが、その先は…?
〈私、あなたが来てくれれば、もうあんなふうにはならないと思っていた〉
〈あの場を止めることはできた〉
〈うん。でも、離れた所にいる人は守れない〉
オブシディオンは否定しなかった。
〈私をどこへ行かせるかで、すべてを解こうとするな。私が去ったあとも、人はそこで暮らす〉
ポルフィラはオブシディオンに添えた手を見た。
自分が選んだ場所へ彼が向かう。その間に、別の場所が襲われるかもしれない。
考えるだけで怖かった。誰を守るかなど、選べる気がしなかった。
机の向こうで、クラウスが封をした文を家臣へ渡した。城門の方では、使者の馬が用意されている。
ポルフィラは立ち上がった。
「知らせを受け取った村がどうしているか、私にも教えてください。逃げるのに困ることがあれば、それも」
「分かった。集まった報告は、一緒に確かめよう」
クラウスが答えた。
使者が馬に乗り、館の前から道へ出ていった。
ポルフィラはその姿が木々に隠れるまで見送った。頭上には、オブシディオンの大きな翼が畳まれている。
この翼が届かない場所にも、知らせは届けなければならないのだ。




