第141話 帰せと言う前に
レオノーラは席を立った。
「王領の村から、私の領地へ逃れてきた者たちがいます。その者たちにも、戻れと命じられるのですか」
「そうだ。王領の民を他領へ移すことは認めない」
王は言い切った。
「今後も出さぬ。オランデルにいる者も戻せ」
レオノーラは持参した文を、王の記録を取る家臣へ渡した。
「本人たちから聞いた事情をまとめました。戻ることを恐れています。まず、お読みください」
王は文を受け取ったが、目を通さず膝へ置いた。
「不当な扱いがあったなら調べさせる。だが、勝手に村を出てよいことにはならん」
「調べている間は、こちらで保護させてください」
「その間にも、ほかの者が出てくる。三家を頼れば村へ戻らずに済むと思わせるつもりか」
ユリウスが口を挟んだ。
「逃げた者をよそで雇えば、村に残る者が損をします。仕事を押しつけられる者のことも、お考えいただきたい」
レオノーラはユリウスを見た。
「残る者の負担は減らさなければならないわ。だからといって、逃げてきた者を罰のある場所へ送り返してよいとは思わない」
「まだ罰すると決まったわけではない」
王が言った。
「ただし、許可なく村を出たことは問う。そこまで見逃せば、決まりを守らせることができなくなる」
ポルフィラは膝の上で手を握った。
戻れば罰を受けるかもしれない。村人の恐怖を、王は承知しているのだ。
*
リュシエンヌがレオノーラへ尋ねた。
「保護を続けるなら、その先はどうするの。食べ物と寝床を与えるだけでは済まないでしょう」
「仕事と住まいを探す必要があるわ。町の者たちにも、受け入れてもらわなければならない」
「受け入れを嫌がる者もいるはずよ」
「ええ。簡単に暮らせるようになるとは思っていない」
テオバルトが続けた。
「三家で手を分ける。今いる者の仕事の経験を確かめ、雇える所があるか調べたい」
王の顔が険しくなった。
「私が認めぬと言ったことを、三家で進めるのか」
クラウスが王へ向き直った。
「戻せば罰される恐れがあります。今は送り返せません」
「王領の民を住まわせる権限は、おまえたちにはない」
「それでも、追ってきた役人へそのまま引き渡すことはできません」
王はクラウスからレオノーラ、テオバルトへ目を移した。
「二人も同じ答えか」
「はい」
レオノーラが答えた。
テオバルトもうなずいた。
「保護は続けます。どうすれば戻っても危険がないのか、こちらの申し入れもお聞きいただきたい」
王の指が椅子の腕をつかんだ。
「返さぬと言い張り、他領で暮らす話を無理に進める。王の命令を退けて、戦争でも起こす気か?」
筆の音が止まった。
ポルフィラは顔を上げた。
戦争……?
剣を抜いた兵たちが浮かんだ。あの場では、オブシディオンが止めてくれた。今度は、どこで争いになるか分からない…
村にも兵が来るのだろうか。
息を吸っても、胸の苦しさが抜けなかった。
クラウスが答えた。
「戦争を望んではいません。逃げてきた者を、保護されないかもしれない場所へ返したくないのです」
「それを決めるのは王だ」
「ですから、ここでお願いしています。逃げた事情を調べ終えるまでは、村を出たことも罰しないと、お約束ください」
王は答えず、娘の後ろにいる竜を見た。
オブシディオンの目が王を捉えていた。
伏せた巨体は動かない。それでも王は、椅子の腕を握り直した。
「あの竜がいれば、兵を退けられると思っているのか?」
「彼女に王と戦えなどと言ったことはありません」
クラウスの答えに、ユリウスが鼻で笑った。
「頼まなくても、竜はそちらにいる。ここで王命を断れるのも、そのおかげだろう?」
ポルフィラは口を開きかけた。
違うと言いたかった。だが、自分の後ろにオブシディオンがいるのは本当だった。皆が彼を恐れていることも、分かっていた。
声が出ないまま、指を握り込んだ。
*
ロデリクが王へ言った。
「私の領地で調べた三人も、初めは反抗した者として引き渡しを求められました。本人たちと家族の話を聞かなければ、罰の誤りは分からなかった」
「その件は、私が取り消した」
「はい。ですから今回も、戻す前に調べることはできるはずです。オランデルへ王の調べ役を送り、レオノーラの家臣と一緒に話を聞かせては」
「調べ役が、戻すべきだと判断したら従うのか?」
レオノーラが答えた。
「何を調べ、どう判断したのか伺います。理由も聞かず、従うとは約束できません」
王は文を膝から取り上げた。
「結局は、自分が納得しなければ返さぬということか」
リュシエンヌが口を開いた。
「陛下。三家が引き渡しを断れば、兵を向けられるのですか?」
ポルフィラはリュシエンヌを見た。
彼女の顔もこわばっていた。レオノーラに賛同した様子ではない。ただ、王の返事を待っている。
「命令に従わぬ領主を、そのままにはできん」
王は三家の当主を見据えた。
「兵を動かすことになる前に、考え直せと言っている」
レオノーラは立ったまま答えた。
「それでも、今日ここで帰すとは申し上げられません」
王は立ち上がった。
その動きに、ポルフィラの肩が跳ねた。
「申し入れの文は預かる。だが、王領の民を他領へ出す許しは与えない。これ以上、受け入れを進めるな」
王の家臣が文を受け取った。
会談を終えると告げられても、しばらく誰も席を動かなかった。
*
〈ポルフィラ〉
呼ばれて、ようやく後ろを振り返った。
オブシディオンが顔を寄せていた。立ち上がったポルフィラは鱗へ手をついた。
〈戦争になるの?〉
〈まだ決まってはいない〉
それだけで安心はできなかった。
〈あの人たちを返さないでほしい。でも、戦争になったら、ほかの人たちまで……〉
続きが言えなかった。
オブシディオンは黙ってそばにいた。ポルフィラはしばらく、その首から手を離せなかった。
近づいてきたクラウスへ顔を向けた。
「このあと、どうするんですか?」
「三家で話す。保護を続けるために何が必要か、兵を向けられたらどうするかも決めなければならない」
レオノーラが言った。
「王領へ戻すとは約束しなかった。そのことは、逃げてきた人たちにも伝えるわ」
ポルフィラはうなずいた。
「私も、その話に加えてください」
クラウスはすぐに返事をせず、彼女を見た。
「怖いです。でも、知らない間に戦争の話が進むのは、もっと怖いです」
「分かった。こちらで全部決めてから、竜の力だけを借りることはしない」
ポルフィラはもう一度うなずいた。
オブシディオンが頭を低くした。
角の根元につかまって登る。何度か乗るうちに覚えた足場も、今日はうまく見つからなかった。竜は彼女が腰を落ち着けるまで、頭を動かさずにいた。
顔を上げると、王がこちらを見ていた。
目が合う前に、ポルフィラは角へ視線を戻した。
〈ゆっくり、飛んで〉
〈ああ〉
大きな翼が開いた。
逃げてきた人たちを返す約束はしなかった。けれど、その人たちを守りきれるかは、まだ誰にも分からなかった。




