第140話 竜のそばに立つ娘
王都の外で待つ人々が、空を見上げた。
ヴァルテルは椅子から立った。
弟も兵も、竜はノクスよりはるかに大きいと報告していた。
空を覆う翼を見たとき、弟たちが何を言っていたのか、ようやく分かった。
こんなものが、いるのか。
長い首の先に、小さな人影が見えた。娘が乗っている。その姿がなければ、竜の大きさを捉えられなかった。
王は椅子の背へ手をついた。
隣でユリウスが後ずさった。足が椅子へ当たり、木の軋む音がした。リュシエンヌは顔を上げたまま、半開きの口を閉じられずにいた。
オブシディオンが高度を落とした。
草地にいた兵たちの列が乱れた。顔を腕で覆う者、そばの兵をつかむ者がいる。
「持ち場を離れるな!」
王側の指揮を任された家臣が叫んだ。その家臣自身も、竜の真下を避けるように足を動かしていた。
巨体が人のいない所へ降りた。
衝撃が足裏へ伝わった。風が草を倒し、王の外套を大きくあおる。
ユリウスが腕で顔をかばった。リュシエンヌの手袋が地面へ落ちたが、拾うために顔を下げることもできなかった。
思わず剣へ手を伸ばした王の兵へ、指揮の家臣が命じた。
「抜くな! 手を離せ!」
王の前に立っていた兵が、一度ヴァルテルを振り返った。守るよう命じられていても、何をすれば守れるのか分からない顔だった。
ヴァルテルは、竜の口を見ていた。
あそこから黒い火が出たという。
今、自分へ向けられたら。
首の後ろへ汗が流れた。
竜は首を地面へ下ろした。
角へつかまり、鱗を伝って娘が降りてくる。地面へ足をつけた娘が振り返ると、竜は鼻先を寄せた。
ユリウスは、娘がその鼻先へ手を置くのを見ていた。
指先がまだ震えていた。竜の顔が少し動くだけで、膝が逃げようとする。
それでも、目が離れなかった。
あの竜が欲しい…
ソレインを連れていった息子へ、帰れと命じても戻らなかった。王に頼った兵も、結局は三人を返してこなかった。
あの竜を自分の家へ取り込めれば…
他家へ頼らず、従わぬ者を押さえられる。息子にソレインを使わせるより、はるかに大きな力になる。
ユリウスは竜から娘へ目を移した。
どうすれば、あの娘を自分の側へ置ける?
その横で、ヴァルテルも同じ娘を見ていた。
王の名で動く兵と、最も強い黒い天馬。それを退かせた力が、今は王の命令の及ばぬ所にある。
娘を従わせれば、竜も王のために動くのか。
ノクスを凌ぐ力を王家のものにできれば、三家も今のようには逆らえなくなる。
王は椅子へ置いた手を、強く握った。
娘をここへ呼んだ以上、話を聞くだけで帰したくはなかった。
*
クラウスがポルフィラを迎えた。
「配置は変わっていない。王の兵も、外側にいる」
ポルフィラは周囲を見た。
レオノーラとテオバルトが近くへ来た。少し離れた所にロデリクもいる。王とほかの領主たちの後ろには、王都の壁が見えた。
「オブシディオンは、ここにいていいんですね?」
クラウスはうなずいた。
「約束どおりだ」
オブシディオンはポルフィラの後ろへ伏せた。頭を下げても、顔は人々の背より高かった。
その目が王の方へ動いた。王のそばにいた家臣が、持っていた文を胸へ引き寄せる。
ロデリクは竜の顔と兵の列を見比べた。レオノーラも、衣の袖から出た指を握り直していた。
誰も竜へ声をかけなかった。
ポルフィラは王の方へ向き直った。
〈私はここにいる〉
声が届いた。小さくうなずき、竜の首へ添えていた手を離す。
王は竜から目を離さず、もとの椅子へ腰を下ろした。立ち上がっていた領主たちも席へ戻り、クラウスはポルフィラの近くに用意された椅子へ座った。
ポルフィラも、竜のそばに置かれた自分の椅子へ座った。
王の供をする家臣が一人、記録のために文と筆を持って控えた。紙を押さえる手が、震えていた。
王が口を開くまで、少し間があった。
「ポルフィラだな」
「はい」
自分の声が、いつもより細く聞こえた。
「その竜と、話ができると聞いた」
「はい。私には、彼の声が聞こえます」
「王の兵を退かせたのは、おまえの命令か」
ポルフィラは指を握った。
「助けてと頼みました。兵が剣を抜いて、誰も止まらなくて」
王の家臣が書き留める音がした。
「竜に人を襲わせるつもりはあったか」
「ありません。誰も死なせたくないと伝えました」
王は彼女の後ろを見た。
竜の目が、王へ向いていた。
ヴァルテルは言葉を止めた。椅子の肘掛けへ置いた手に力が入る。
娘を脅しても、あれは従わない。目の前の牙を見ながら、王はようやく次を尋ねた。
「私の兵へ、今後も同じことをするのか」
ポルフィラはすぐには答えられなかった。
「争いは望んでいません。でも、兵を使って竜の民を力ずくで従わせようとするなら、その人たちを守りたいです。そのために、またオブシディオンへ助けを求めるでしょう」
ユリウスが口を挟んだ。
「従わねば、また竜を出すと言うのか」
ポルフィラの肩が動いた。
クラウスがユリウスへ顔を向けた。
「今、王が本人の話を聞いている」
王が手を上げた。ユリウスは口を閉じたが、娘から目を離さなかった。
*
ヴァルテルは住まいの申し入れに話を移した。
あの竜を他家に頼らせたままにはできない。まず娘と家族を王都へ置き、王の保護なしでは暮らせぬようにすれば、遠ざけるより従わせやすくなる。
竜を直接従わせる方法は、まだ分からなかった。だからこそ、娘を手放したくなかった。
「王の保護を受ける気はないと聞いた」
「父と母を王都へ移すのは、怖いです」
「なぜだ。家族の暮らしも守ると言っている」
ポルフィラは一度息を吸った。
「私が命令を断ったとき、父と母を村へ帰さないと言われたら、従うしかなくなります」
王の顔が強張った。
「家族を人質にすると思っているのか」
「その心配があるから、今はお受けできません」
言い終えると、指先が冷たくなっていた。ポルフィラは膝の上で手を握り、続けた。
「もう一つ、聞きたいです。私の家族だけが村を出て王都で暮らしてもよいのは、オブシディオンがいるからですか」
「そうだ。その竜と繋がった者を、普通の村人と同じには扱えん」
ポルフィラは顔を上げた。
「私は村で育って、友達と同じように働いていました。竜に出会っただけで、町に住んでもよくなるんですか?」
王は彼女の後ろにいる竜を見た。
「竜と繋がったおまえには、特別に許す。ほかの村人が村を出ることまで、認めるつもりはない」
ポルフィラは口を閉じた。
王が村を出ることを許そうとしているのは、竜と繋がった自分と、その家族だけだった。村人たちには同じ許しを出さないと言っている。
すぐ後ろで、オブシディオンの息が草を揺らした。




