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オブシディオン  作者: 空飛ぶワイン
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130/233

第130話 引き渡しの中断

地面に落ちた盾を、誰も拾おうとしなかった。

王の兵は広場の端へ退き、剣を持ったまま竜を見ていた。宿舎を守る兵も動けずにいる。


ロデリクが息を整えた。

「剣を納めろ。宿舎の前まで下がれ」

自分の兵へ向けた命令だった。


返事はすぐにはなかった。一人の家臣が同じ命令を繰り返すと、ようやく兵が剣を下ろし始めた。


オブシディオンは首を低くし、王の兵を睨み据えていた。剣を持つ腕が動くたびに、その目が追った。

ポルフィラは翼にしがみついている。顔を上げると兵の姿が見え、また鱗へ額を押しつけた。

〈あの人たちは……〉


〈建物のそばにいる〉


〈連れていかれてない?〉


〈ああ〉


聞いて、少しだけ指の力が緩んだ。けれど、まだ離れることはできなかった。


*


王の兵を率いる家臣は、竜の口元から目を離せなかった。

あの口から、黒い炎が出た。

空に向けていた炎がこちらへくれば、盾を上げても間に合わない。隣に立つ兵も、それが分かっているのだろう。握った剣の先が細かく揺れていた。

指揮官は自分の手を握り直し、部下へ声をかけようとした。


「何をしている!3人を連れてこい!」

広場の外から、セヴェランの声が飛んだ。

アルディスは竜を避けて後ろへ下がろうとしていた。セヴェランは手綱を握りしめ、兵たちへ顎を向ける。

「命令が聞こえないのか!宿舎へ行け!」


兵が互いの顔を見た。一人がためらいながら足を動かした。


竜の顔が、その兵へ向いた。竜の唸り声が兵の腹に響く。

兵の足が止まった。


「進むな」

指揮官が前へ出た。

「その場にいろ。剣を下ろせ」


「おまえが止めるのか!」

セヴェランは怒鳴った。

口の中は乾いていた。もう一度あの炎が上がれば、自分も逃げ出すかもしれない。それでも、周囲には王の兵もロデリクの家臣もいる。道の向こうから、こちらを窺う町の者も見えた。

王弟が竜に怯えて下がった。

そんな話が広まるのを、認めるわけにはいかなかった。

「竜が来たから命令を捨てるのか。王の名で迎えに来たことを忘れたか!」


指揮官はセヴェランの前で足を止めた。

「引き渡しは中断します」


「許さん。兵を進ませろ」


「進ませれば、竜の前を通らなければなりません」


「だから何だ。剣を持っているだろう」


指揮官の背後で、誰かが息を呑んだ。

オブシディオンは動かなかった。ただ、低くした顔を王の兵へ向け、その喉の奥から恐ろしい唸り声が漏れ聞こえる。その体の向こうに宿舎があり、そこへ行くには竜のそばを抜けるしかなかった。


「陛下から預かった兵です」

指揮官は一語ずつ言った。

「竜と戦わせる命令は受けておりません」


「連行しろと言っている!」


「そのために兵を死なせるわけにはいきません」


セヴェランの顔が赤くなった。

「私の命令に背くのか」


指揮官の喉が動いた。目の端では、まだ竜の牙が見えていた。そこから顔を背け、セヴェランを見た。

「はい。ここで兵を進ませる命令には従えません。陛下へ報告し、次のご命令を待ちます」


アルディスがまた大きく身をひねった。セヴェランは鞍をつかみ、体勢を戻す。


少し離れたノクスも、竜へ近づこうとはしなかった。


指揮官は部下へ向き直った。

「納刀。道へ下がれ。隊を崩すな」


「まだ話は終わっていない!」


「引き渡しを中断したのは私の判断だと、陛下へ報告します」

指揮官はもう一度答えた。

「兵を退かせます」


王の兵が剣を納め始めた。

落ちた盾を拾う兵の手が震えていた。隣の兵が肩を支え、二人で下がる。オブシディオンの目は、その一人一人を追っていた。

誰も宿舎へ進まなかった。


ロデリクは自分の兵を宿舎側へ寄せ、王の兵が退く道を空けさせた。

「三人は引き続き、私が保護します。王へは私からも報告を出します」


セヴェランは竜を見た。その翼にしがみつく娘へ目を移す。

「その娘のことも、王に説明してもらうぞ」


ロデリクはうなずいた。

「私が答えます」


*


アドリアンはソレインを宿舎の裏手へ連れていった。

建物で竜の姿が隠れても、天馬の震えは収まらなかった。首へ触れようとすると、ソレインはびくりと体を動かした。

「ここにいる。置いていかない」

アドリアンは近づくのをやめ、その場で待った。

いつも自分に勇気をくれる、力強い相棒だった。そのソレインが、今は逃げる場所を探している。

宿舎の表で何が起きているかも気になった。けれど、震える天馬を残して行く気にはなれなかった。


*


兵の姿が広場から消えてから、リゼリアがポルフィラへ近づいた。

「私よ。そばへ行くわね」


ポルフィラは頬を鱗につけたまま、うなずいた。

オブシディオンの目がリゼリアへ向いた。彼女も一度足を止めたが、ポルフィラの隣まで来て屈んだ。

「王の兵は宿舎から離れたわ。三人も中へ入れた。今は誰も連れていかない」


ポルフィラはようやく顔を上げた。

広場には、ロデリク側の兵と家臣だけが残っていた。皆、竜から距離を取っている。

「剣は……」


「納めたわ」

リゼリアの返事に、ポルフィラの喉が震えた。


「本当に、斬るかと思った」


「ええ」


「止まれって言っても、誰も止まらなくて…」

言葉が切れた。リゼリアは続きを求めず、ポルフィラの背へ手を添えた。

その手に支えられ、少しずつ息を吐いた。

〈オブシディオン〉


〈聞いている〉


〈来てくれて、ありがとう〉


竜の鼻先がそっとポルフィラに寄せられる。

その鼻先に、まだ震える手で触れた。


*


宿舎へ戻るまで、リゼリアが腕を貸した。


オブシディオンは広場に残った。ポルフィラがそばから離れても動かず、退いた王兵を睨みつけている。


部屋では、怪我をした男性が寝台に足を載せていた。村の係がそばに座り、世話役の女性は入口へ目を向けていた。


ポルフィラは戸口で立ち止まった。

「足は、大丈夫ですか」


男性はうなずいた。

「支えてくれて、助かった」


女性が椅子から立った。ポルフィラも一歩進もうとした。

そのとき、外で低い音がした。オブシディオンが姿勢を変え、翼の先で地面を擦ったのだった。


女性の肩が跳ねた。


ポルフィラの向こうにある戸口を見て、それから彼女へ視線を戻す。差し出しかけた手が、胸元で止まった。

ポルフィラも足を止めた。


「……座るかい」

女性が椅子を示した。


「はい」

ポルフィラはリゼリアに支えられて座った。

女性は水を持ってきてくれた。けれど、その目は何度も窓へ向いた。ポルフィラが何か言いかけると、怯えが表情をよぎる。

さっきまでと同じようには話せなかった…

ポルフィラは両手で水の入った器を持った。何を言えば女性が安心するのか、分からなかった。


*


城へ戻ったロデリクは、家臣を呼んだ。

「誰も宿舎へ近づかぬよう見張れ。道を通る領民にも、今は広場へ入らないよう伝えろ。見物人を集めるな」


「承知しました」


「王へ報告を出す。三家にも、竜が姿を現したことを知らせる」


家臣は文を用意しかけ、手を止めた。

「竜と、あの娘のことを……どこまで書きますか」


ロデリクは窓へ目を向けた。

宿舎の屋根の向こうに、黒い首が見えていた。城の兵も、町を行く者も、あれを見ている。

「娘が助けを求め、竜が来たと書く。兵が剣を抜きかけた、ではない。実際に抜いた。そのことも省くな」


「はい」


「竜が人も建物も焼かなかったこと、逃げた兵を追わなかったことも」


家臣が書き始めた。


「それと、ユリウスへ出す抗議も止めるな。三人の残された家族は、まだあの領地にいる」


ロデリクの言葉に、家臣は別の文を引き寄せた。


*


広場から下がった王の兵たちも、帰り支度はしていなかった。

指揮官は宿舎から離れた場所で隊を整え、王都へ急報を送った。


竜が現れ、王の天馬が恐慌したこと。

そして、その竜へ一人の娘が駆け寄ったこと。


宿舎では、ポルフィラが窓から外を見ていた。

オブシディオンの顔が、こちらへ向く。

その姿を確かめると、止まりかけていた涙がまたこぼれた。


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