第130話 引き渡しの中断
地面に落ちた盾を、誰も拾おうとしなかった。
王の兵は広場の端へ退き、剣を持ったまま竜を見ていた。宿舎を守る兵も動けずにいる。
ロデリクが息を整えた。
「剣を納めろ。宿舎の前まで下がれ」
自分の兵へ向けた命令だった。
返事はすぐにはなかった。一人の家臣が同じ命令を繰り返すと、ようやく兵が剣を下ろし始めた。
オブシディオンは首を低くし、王の兵を睨み据えていた。剣を持つ腕が動くたびに、その目が追った。
ポルフィラは翼にしがみついている。顔を上げると兵の姿が見え、また鱗へ額を押しつけた。
〈あの人たちは……〉
〈建物のそばにいる〉
〈連れていかれてない?〉
〈ああ〉
聞いて、少しだけ指の力が緩んだ。けれど、まだ離れることはできなかった。
*
王の兵を率いる家臣は、竜の口元から目を離せなかった。
あの口から、黒い炎が出た。
空に向けていた炎がこちらへくれば、盾を上げても間に合わない。隣に立つ兵も、それが分かっているのだろう。握った剣の先が細かく揺れていた。
指揮官は自分の手を握り直し、部下へ声をかけようとした。
「何をしている!3人を連れてこい!」
広場の外から、セヴェランの声が飛んだ。
アルディスは竜を避けて後ろへ下がろうとしていた。セヴェランは手綱を握りしめ、兵たちへ顎を向ける。
「命令が聞こえないのか!宿舎へ行け!」
兵が互いの顔を見た。一人がためらいながら足を動かした。
竜の顔が、その兵へ向いた。竜の唸り声が兵の腹に響く。
兵の足が止まった。
「進むな」
指揮官が前へ出た。
「その場にいろ。剣を下ろせ」
「おまえが止めるのか!」
セヴェランは怒鳴った。
口の中は乾いていた。もう一度あの炎が上がれば、自分も逃げ出すかもしれない。それでも、周囲には王の兵もロデリクの家臣もいる。道の向こうから、こちらを窺う町の者も見えた。
王弟が竜に怯えて下がった。
そんな話が広まるのを、認めるわけにはいかなかった。
「竜が来たから命令を捨てるのか。王の名で迎えに来たことを忘れたか!」
指揮官はセヴェランの前で足を止めた。
「引き渡しは中断します」
「許さん。兵を進ませろ」
「進ませれば、竜の前を通らなければなりません」
「だから何だ。剣を持っているだろう」
指揮官の背後で、誰かが息を呑んだ。
オブシディオンは動かなかった。ただ、低くした顔を王の兵へ向け、その喉の奥から恐ろしい唸り声が漏れ聞こえる。その体の向こうに宿舎があり、そこへ行くには竜のそばを抜けるしかなかった。
「陛下から預かった兵です」
指揮官は一語ずつ言った。
「竜と戦わせる命令は受けておりません」
「連行しろと言っている!」
「そのために兵を死なせるわけにはいきません」
セヴェランの顔が赤くなった。
「私の命令に背くのか」
指揮官の喉が動いた。目の端では、まだ竜の牙が見えていた。そこから顔を背け、セヴェランを見た。
「はい。ここで兵を進ませる命令には従えません。陛下へ報告し、次のご命令を待ちます」
アルディスがまた大きく身をひねった。セヴェランは鞍をつかみ、体勢を戻す。
少し離れたノクスも、竜へ近づこうとはしなかった。
指揮官は部下へ向き直った。
「納刀。道へ下がれ。隊を崩すな」
「まだ話は終わっていない!」
「引き渡しを中断したのは私の判断だと、陛下へ報告します」
指揮官はもう一度答えた。
「兵を退かせます」
王の兵が剣を納め始めた。
落ちた盾を拾う兵の手が震えていた。隣の兵が肩を支え、二人で下がる。オブシディオンの目は、その一人一人を追っていた。
誰も宿舎へ進まなかった。
ロデリクは自分の兵を宿舎側へ寄せ、王の兵が退く道を空けさせた。
「三人は引き続き、私が保護します。王へは私からも報告を出します」
セヴェランは竜を見た。その翼にしがみつく娘へ目を移す。
「その娘のことも、王に説明してもらうぞ」
ロデリクはうなずいた。
「私が答えます」
*
アドリアンはソレインを宿舎の裏手へ連れていった。
建物で竜の姿が隠れても、天馬の震えは収まらなかった。首へ触れようとすると、ソレインはびくりと体を動かした。
「ここにいる。置いていかない」
アドリアンは近づくのをやめ、その場で待った。
いつも自分に勇気をくれる、力強い相棒だった。そのソレインが、今は逃げる場所を探している。
宿舎の表で何が起きているかも気になった。けれど、震える天馬を残して行く気にはなれなかった。
*
兵の姿が広場から消えてから、リゼリアがポルフィラへ近づいた。
「私よ。そばへ行くわね」
ポルフィラは頬を鱗につけたまま、うなずいた。
オブシディオンの目がリゼリアへ向いた。彼女も一度足を止めたが、ポルフィラの隣まで来て屈んだ。
「王の兵は宿舎から離れたわ。三人も中へ入れた。今は誰も連れていかない」
ポルフィラはようやく顔を上げた。
広場には、ロデリク側の兵と家臣だけが残っていた。皆、竜から距離を取っている。
「剣は……」
「納めたわ」
リゼリアの返事に、ポルフィラの喉が震えた。
「本当に、斬るかと思った」
「ええ」
「止まれって言っても、誰も止まらなくて…」
言葉が切れた。リゼリアは続きを求めず、ポルフィラの背へ手を添えた。
その手に支えられ、少しずつ息を吐いた。
〈オブシディオン〉
〈聞いている〉
〈来てくれて、ありがとう〉
竜の鼻先がそっとポルフィラに寄せられる。
その鼻先に、まだ震える手で触れた。
*
宿舎へ戻るまで、リゼリアが腕を貸した。
オブシディオンは広場に残った。ポルフィラがそばから離れても動かず、退いた王兵を睨みつけている。
部屋では、怪我をした男性が寝台に足を載せていた。村の係がそばに座り、世話役の女性は入口へ目を向けていた。
ポルフィラは戸口で立ち止まった。
「足は、大丈夫ですか」
男性はうなずいた。
「支えてくれて、助かった」
女性が椅子から立った。ポルフィラも一歩進もうとした。
そのとき、外で低い音がした。オブシディオンが姿勢を変え、翼の先で地面を擦ったのだった。
女性の肩が跳ねた。
ポルフィラの向こうにある戸口を見て、それから彼女へ視線を戻す。差し出しかけた手が、胸元で止まった。
ポルフィラも足を止めた。
「……座るかい」
女性が椅子を示した。
「はい」
ポルフィラはリゼリアに支えられて座った。
女性は水を持ってきてくれた。けれど、その目は何度も窓へ向いた。ポルフィラが何か言いかけると、怯えが表情をよぎる。
さっきまでと同じようには話せなかった…
ポルフィラは両手で水の入った器を持った。何を言えば女性が安心するのか、分からなかった。
*
城へ戻ったロデリクは、家臣を呼んだ。
「誰も宿舎へ近づかぬよう見張れ。道を通る領民にも、今は広場へ入らないよう伝えろ。見物人を集めるな」
「承知しました」
「王へ報告を出す。三家にも、竜が姿を現したことを知らせる」
家臣は文を用意しかけ、手を止めた。
「竜と、あの娘のことを……どこまで書きますか」
ロデリクは窓へ目を向けた。
宿舎の屋根の向こうに、黒い首が見えていた。城の兵も、町を行く者も、あれを見ている。
「娘が助けを求め、竜が来たと書く。兵が剣を抜きかけた、ではない。実際に抜いた。そのことも省くな」
「はい」
「竜が人も建物も焼かなかったこと、逃げた兵を追わなかったことも」
家臣が書き始めた。
「それと、ユリウスへ出す抗議も止めるな。三人の残された家族は、まだあの領地にいる」
ロデリクの言葉に、家臣は別の文を引き寄せた。
*
広場から下がった王の兵たちも、帰り支度はしていなかった。
指揮官は宿舎から離れた場所で隊を整え、王都へ急報を送った。
竜が現れ、王の天馬が恐慌したこと。
そして、その竜へ一人の娘が駆け寄ったこと。
宿舎では、ポルフィラが窓から外を見ていた。
オブシディオンの顔が、こちらへ向く。
その姿を確かめると、止まりかけていた涙がまたこぼれた。




