第129話 黒炎の竜
アルディスが足を止めた。
セヴェランは手綱を引き、空を見た。
さっきまで空だった所に、黒い腹があった。
広場の上を覆う翼。その間から後脚が伸び、曲がった爪が見えた。さらに後ろへ続く尾が、屋根の向こうを横切った。
ポルフィラは息を吸おうとした。胸が動かなかった。
黒い鱗が見えた。
オブシディオンだ。
壁へ背を押しつけたまま、ポルフィラは顔を上げ続けた。来てくれた。その姿を追う目に涙がにじみ、翼の輪郭がぼやけた。
ノクスが翼を開いた。
その黒い翼ごと、竜の影が呑み込んだ。
黒い天馬が、引きつった声を上げた。
アルディスも首を反らし、背のセヴェランごと後ろへ跳ねた。宿舎側ではソレインが身をひねり、アドリアンが慌てて追いすがった。
三頭とも、竜を見たことはない。
それでも本能が察していた。空から降りてくるものは、自分たちを喰うものだと。
ノクスが後ろへ蹴るように跳び退いた。前にいた王の兵が散り、盾を落として逃れる。
「アルディス、止まれ!」
セヴェランの声を聞いても、白い天馬は止まらない。逃げ道を探して暴れ、王の兵を広場の端へ追い立てた。
ソレインも翼をばたつかせ、その場から離れようとする。アドリアンが呼び続ける声が、甲高いいななきに重なった。
シルヴァも体を強張らせていたが、オブシディオンを知っていた。リゼリアが首に手を添え声をかけ落ち着かせると、その場に踏みとどまった。
大きな翼が最後に一度、打ち下ろされた。
広場の砂が地面を走る。旗が激しくはためき、宿舎の戸が壁を叩いた。
「下がれ!」
誰の声か分からなかった。
王の兵が一斉に退いた。後ろの兵とぶつかり、盾が地面へ落ちる。人が散った広場へ、影が広がっていく。
巨体が地へ降りた。
後脚が広場を踏み、土が砕け舞いあがる。重い衝撃がポルフィラの足から腹へ突き上げ、背中を預けた壁まで震えた。
遅れて風が押し寄せる。
ポルフィラは男性と女性に覆いかぶさった。砂が頬を打ち、宿舎の窓が激しく鳴った。
ばたつく外套の隙間から、黒い鱗が見えた。
オブシディオンは折った翼の先を地へつき、体を支えた。長い尾が広場の向こうへ伸びる。首を起こすと、顔が宿舎の屋根を越えた。
兵達とポルフィラ達の間を、その体が塞いでいた。
オブシディオンが首を反らした。
顎を上へ向け、大きく口を開く。その奥で、黒い炎が揺らぐ。
次の瞬間、黒炎が空へ噴き上がった。
轟音が頭上を突き抜けた。太い黒炎が真上へ伸び、その先で大きく膨れ上がる。空を覆うように燃え広がる黒い炎の縁で、熱に歪んだ景色が激しく揺れた。
熱が頬へ押し寄せた。
ポルフィラは息を呑んだ。
炎を吐けるなんて…
リゼリアも口を開いたまま見上げていた。ロデリクは腕を顔の前へ上げかけ、動きを止めている。竜に会い、その大きさを知っていても、こんな力まであるとは知らなかった。
「火を……?」
アドリアンの声が途切れた。
セヴェランはアルディスの背で身を伏せた。王の指揮官も兵たちも、盾や腕で顔を覆った。宿舎の窓の奥で悲鳴が上がり、扉が勢いよく閉じられた。
火は人へも建物へも向かなかった。竜の頭上で渦を巻き、空高く燃え上がっていた。
それでも誰も、ただの威嚇だと受け流すことはできなかった。
誰もが、言葉を失っていた。初めて竜を見る者にとっては、御伽話の生き物が現れ、目の前で火を吐いたのだ。理解が追いつかないまま、熱と轟音だけが体へ押し寄せていた。
オブシディオンが口を閉じた。
途切れた黒炎が空でほどけ、消えていく。炎の消えたあとも、みなの頬に熱が残っていた。
竜はゆっくりと首を下ろした。
セヴェランと、その前にいる王の兵たちへ顔を向ける。
唇が持ち上がった。太い牙が並び、開いた口の奥が見えた。
喉の深い所で、音が膨らんだ。
オブシディオンが吠えた。
咆哮が広場を叩き、建物の間を突き抜ける。
ポルフィラは両手で耳を塞いだ。それでも胸の中まで震えた。隣の女性が身を縮め、男性の肩へ額を押しつける。
王の兵が盾を持ち上げたが、音を防ぐことはできなかった。一人が剣を落とし、別の兵は膝をつく。下がろうとした者が尻もちをつき、這うように後ろへ逃れた。
アルディスが悲鳴のようにいななき、広場の外へ向かって走る。
セヴェランの体が大きく傾いた。手綱と鞍へしがみつき、ようやく落ちるのを免れる。止まれと怒鳴る声も裏返っていた。
ノクスも反転した。
黒い翼が王の兵たちの頭上で激しく動いた。兵が道を空けると、そこへ逃げ込むように進み、広場の端でまた大きく身をひねった。
ソレインはアドリアンがそばへ来ても震え続けた。竜の方へ顔を向けては後ずさりし、逃げようとする脚が地面を掻いていた。
人と繋がる天馬も、今は恐慌の中にいた。乗り手の声だけでは、自分を喰うものへの恐怖を抑えられなかった。
シルヴァも首を低くして震えていたが、リゼリアのそばを離れなかった。
オブシディオンは一歩も動かなかった。
口を閉じ、首を低くした。牙を見せた顔が、セヴェランたちの方を向いたまま止まる。
咆哮の響きが薄れても、耳の奥は鳴り続けていた。
誰もポルフィラ達へ近づかなかった。
剣を持つ兵も、盾を構える兵も、その場から動けずにいた。
「竜……」
かすれた声がした。
セヴェランは自分の前にいるものを、見上げていた。
*
〈ポルフィラ〉
声が届いた。
ポルフィラは耳を塞いでいた手を下ろした。指が震えていた。自分の呼吸が浅く、何度吸っても足りなかった。
目の前に剣はなかった。
兵は下がっている。誰もこちらへ走ってこない。
さっきまでぶつかり合っていた盾も、伸びてきた兵の腕も、黒い体の向こうにあった。
「オブシディオン……」
声に出した途端、涙がこぼれた。
立ち上がろうとして膝が崩れた。そばにいたリゼリアが腕を支えたが、ポルフィラは竜の方へ手を伸ばした。
「オブシディオン!」
リゼリアの手を離れ、広場へ駆け出した。
もつれる足で、地についた翼のそばまで走った。折り畳まれた翼の縁へ両腕をかけ、しがみつく。
そして硬い鱗へ頬を押しつけた。
背後で誰かが声を上げた。それでも離れられなかった。指に力を込め、顔を伏せた。
怖かった。
誰かが斬られると思った。あの男性が目の前から引きずられていくと思った。自分も押し倒され、もう立てなくなる思った。
喉が震え、息が漏れた。
〈怖かった……〉
それだけ伝えると、あとは言葉にならなかった。
オブシディオンの翼は動かなかった。
長い首だけがゆっくりと曲がり、ポルフィラのそばへ顔が下がった。兵がまた後ずさったが、竜はそちらを見なかった。
〈ここにいろ〉
低い声が届いた。
ポルフィラは鱗に額を押しつけたまま、何度もうなずいた。
*
セヴェランは、竜にしがみつく娘を見ていた。
アドリアンも、王の兵も、ロデリクの兵も、声をかけなかった。
あれだけの炎を吐き、天馬まで退かせたものへ、娘が駆け寄った。その娘を竜は傷つけず、顔を寄せ動かずにいる。
宿舎の壁際で、世話役の女性は男性の腕を抱いていた。
一緒に衣服を直した娘だった。つい先ほどまで、同じように兵を恐れていた。
その娘が今、竜にすがって泣いている。
女性は声をかけようと口を開いた。けれど、何も言えなかった。




