第128話 空を覆う影
セヴェランは、ロデリクの前に王の文を置いた。
「王の兵もこちらへ向かっている。着くまでに、引き渡しの支度を済ませておいてもらいたい」
「三人の訴えを聞いていただくよう、お願いしています。返すのは、そのあとにしていただきたい」
「兄上は読んだうえで、返せと命じられた」
窓の向こうには、ノクスの黒い背が見えた。
ロデリクは文から顔を上げた。
「では、私が直接お話しします。三人は、その間もここで保護します」
「おまえが王都へ行くまで待てと?」
「はい。ここで無理に連れ出せば、警備の兵と衝突します」
セヴェランの目が細くなった。
「それを止めるのがおまえの仕事だろう」
「ですから、引き渡しを急がないでいただきたいのです」
話はそこで止まった。
セヴェランは城に留まり、ロデリクは王へ面会を求める文を出した。
*
その夜、ポルフィラにオブシディオンの声が届いた。
〈海沿いまで来た。今は岩場にいる〉
ポルフィラは寝床から身を起こした。
〈ありがとう。まだ誰も宿舎には来ていない。でも、王の兵も向かっているって〉
〈そうか〉
〈もし呼んだら、兵も天馬も、傷つけずに止められる?〉
返事を待つ間、自分の心臓の音が聞こえた。
〈相手がどう動くかは分からん〉
オブシディオンは短く答えた。
〈だが、まず間に降りることはできる。そこから先は、相手も私も何をするかだ〉
ポルフィラは膝の上で手を握った。
絶対に誰も傷つかないと約束してもらえたら、来て欲しかった。でもそれは約束されなかった。
〈あなたがいると知られたら、私の村にも何かされるかもしれない〉
〈おまえだけのことでは済まんだろうな〉
〈うん〉
家の戸口に立つドランとミレアを思った。リナたちの顔も浮かんだ。
逃れてきた三人を守りたい。それでも、遠いところにいる自分の大切な人たちに危険が及ぶのも怖かった。
〈今は、待っていてほしい。ロデリク様にも、あなたが来たと伝える〉
〈分かった〉
*
翌朝、ポルフィラはリゼリアとともにロデリクへ会い、オブシディオンが近くまで来たと伝えた。
王の兵が到着したのは、その後だった。
隊列は城へ向かう道を進み、宿舎の近くにも兵が配置された。港へ荷を運ぶ人々が立ち止まり、道を変えていく。
ロデリクは兵を率いる家臣と会った。
「王都へ面会を求めている。返答が来るまで、引き渡しを待ってほしい」
「私には、こちらで引き渡しを受けて護送する命令が出ております」
「三人が逃げ出さぬようにする。返答を待ってもらいたい」
指揮官が答える前に、セヴェランが立った。
「何日待てばよい。また文を出し、次の返事を待つのか」
「私から王都へ報告を出します」
指揮官はセヴェランへ言った。
「拒まれた場合は報告せよと、陛下から命じられております」
「本人たちは、本当に帰りたくないと言ったのか」
セヴェランはロデリクを見た。
「おまえに囲われ、そう答えるほかないのではないか。私が確かめる」
「会うのであれば、こちらで場を設けます。兵を宿舎へ入れないでいただきたい」
しかしセヴェランは答えず、部屋を出た。
*
宿舎へ知らせを持ってきた兵は、リゼリアに言った。
「王弟殿下がこちらへ向かわれています。ロデリク様も追って来られます」
リゼリアは三人に、奥の建物へ移るよう勧めた。そこへ移動して、ロデリクが話をつけるまで隠れていてほしいという。
怪我をした男性を、村の係とポルフィラが両側から支えた。世話役の女性が戸を開け、警備の兵が先に出る。
建物の間を抜けたところで、頭上に白い翼が広がった。
アルディスが広場へ降り、地面を踏んだ。
「その者たちか」
背に乗るセヴェランが、こちらを見下ろしていた。
警備の兵が前へ出た。
「ロデリク様がお見えになります。それまで、お待ちください」
「私は本人に聞いている。道を空けろ」
アドリアンが駆けてきた。ソレインも続いていたが、そばでは王の兵が集まり始めている。
「この三人は、罰を受けるのが怖くて帰れないんです。ロデリク様に言わされたのではありません」
「ならば、おまえだけ先に帰ればよい」
「帰りません」
セヴェランが手綱を握り直した。アルディスが翼を動かし、砂が足元を走った。
ポルフィラは目を細め、男性の腕を支え直した。
その向こうから、黒いノクスが歩いてきた。
白い天馬の隣で立ち止まり、顔をこちらへ向ける。兵たちが道を空けた。近くにいた馬が鼻を鳴らし、御者が手綱を引いて下がらせた。
ポルフィラの隣で、男性の息が速くなった。
シルヴァが宿舎の側へ来た。リゼリアはその首に手を当て、前へ出るのを止めた。天馬の間には人も兵もいる。ここで風をぶつければ、その人たちまで巻き込む。
ロデリクが広場へ入ってきた。
「三人は私が保護しています。私との話を終える前に、連れ出すことは認めません」
「本人に帰る意思を確かめるだけだ。こちらへ来させろ」
世話役の女性が首を振った。
「ここで話します。連れていかないでください」
セヴェランは王の兵へ目を向けた。
「連れてこい」
先頭の兵がためらいながら進んだ。ロデリクの兵が腕を伸ばし、その胸を押し止める。
「領主様の許しが出ていない。下がれ」
「こちらは王命を受けている」
押された兵が腕を払い、もう一度前へ出た。その後ろからも兵が続き、宿舎を守る列へぶつかった。
「動くな! そこを通すな!」
ロデリクの声に、広場の端にいた警備の兵まで駆け寄った。
盾が打ち合った。靴が砂を削り、押された兵が隣の肩へ倒れかかる。誰かが怒鳴ったが、別の声にかき消された。
王の兵を率いる家臣が、守備兵の間を押し分けてきた。
「止まれ! まだ引き渡しは――」
「何を止める!」
セヴェランの声が重なった。
「その者たちをこちらへ連れてこい。邪魔をする者は押し退けろ!」
アルディスが前へ出た。翼が開き、打ち下ろされた風が広場を走る。
兵の外套がはためいた。ポルフィラは顔を背け、男性の体を抱えるように支えた。村の係が踏ん張りきれず、片膝をつく。
「こちらへ!」
リゼリアが叫んだ。
ポルフィラは男性を引こうとした。だが目の前へ兵が割り込み、建物へ続く道が見えなくなった。
アドリアンが間へ入った。
「押さないでください! 怪我人がいます!」
兵の肘が胸へ当たり、彼はよろめいた。ソレインが前に出ると、王の兵が身を引き、代わりに別の兵が前へ押し出された。
ノクスが低く鼻を鳴らした。
黒い体が前に出ると、そばにいた兵たちが横へ逃れた。人の列が崩れ、その端が宿舎側へ押し寄せる。
「だめだ!剣を抜くな!」
ロデリクが叫んだ。
そのすぐ前で、刃が鞘を離れた。
向かいの兵も剣を抜いた。切っ先が人の肩越しに揺れる。盾で押し返す音に、あちこちで剣を抜く音が混じった。
ポルフィラは、その刃から目を離せなくなった。
誰かが少し腕を動かせば、人が斬られる。どちらの兵も入り乱れ、倒れた人を避ける場所もない。
こんなことになるとは思っていなかった。
怯え、苦しんでいる三人のそばにいたかった。少しでも話を聞き、そばにいて返事を一緒に待つつもりだった。それが今、目の前で兵同士の殺し合いになろうとしている。
逃げなければと思った。けれど、人垣に閉じ込められ身動きがとれなくなっている。支えている男性の腕を離さぬよう、必死で捕まえていることしかできなかった。
王の指揮官はセヴェランへ叫んでいた。
「殿下、兵を下げます! このままでは斬り合いになります!」
「ならば向こうを下がらせろ!」
「私の兵へ手を出すな!」
ロデリクの声が飛ぶ。誰も列を立て直せない。後ろから来た兵は前の様子が見えず、止まれと叫んでも前の兵を押し出してくる。
ポルフィラの袖を、世話役の女性がつかんだ。
男性の足が床石の縁へ引っかかった。ポルフィラと村の係が支え直したが、人に押されて倒れ込みそうになる。
〈オブシディオン!〉
〈聞いている〉
〈剣が……誰かが斬られる。どうしよう、ここから動けない〉
男性が、ポルフィラの腕から離れようとした。
「もういい。俺が行く。だから――」
その声さえ、怒鳴り声に消えた。
〈助けて、オブシディオン!〉
ポルフィラは男性の腕をつかみ直した。
〈誰も死なせたくない。お願い、止めて……!〉
〈人を建物へ寄せろ。私が間に入る〉
ロデリクへ知らせなければ。
ポルフィラは口を開いた。一度目は息しか出なかった。
「ロデリク様! オブシディオンが……来ます!」
ロデリクがこちらを見た。
「宿舎へ下がれ! 押し返すな、下がれ!」
近くの家臣が同じ命令を繰り返した。警備の兵が盾を並べ、押し寄せる人を受け止めながら少しずつ退く。
ポルフィラは村の係と男性を引きずるように運んだ。世話役の女性が背中を支え、壁際へ座らせる。
リゼリアはシルヴァを建物側へさがらせた。アドリアンもソレインを呼び、王の兵から離れる。
セヴェランが声を上げた。
「逃がすな! 追え!」
王の指揮官が、進みかけた兵を止めようとした。
そのとき、遠くで低い音がした。
怒鳴り声の下に、もう一度、重い響きが重なった。
ノクスが首を上げた。
港の方を見ていた兵が、空を指した。
「何だ、あれは」
海の上に、黒い影があった。
長く伸びた首。その後ろで、巨大な翼が空を打った。
一度、もう一度。
羽ばたきのたびに、影が大きくなる。翼を持ち上げた姿は、天馬の姿とはまるで違った。広場へ向かって飛んで来るものが何なのか、誰もが理解できずにいた。
次の羽ばたきが響いたときには、黒い体はもう港の屋根を越えていた。
「空を見ろ!」
広場の端から声が上がった。
押し合っていた兵が顔を上げた。盾を押す手が緩み、その後ろの兵まで空を向く。
「何だ、あれは。天馬か?」
答える者はいなかった。
物語の挿絵にしかいないはずの姿が、翼を動かして近づいてくる。誰もその姿と竜という名を結びつけることができずにいた。
黒い翼が大きく開いた。
巨体が海側から広場へ向きを変えた。広げた翼の下で、屋根が一つ、また一つと影に沈んだ。道にいた人々が立ち止まり、荷車の御者が頭を抱えて身を伏せる。
セヴェランの声がした。
何を言ったのか、ポルフィラには聞き取れなかった。
頭上へ迫る翼が、風を切って唸った。




