第109話 従わない息子
アドリアンが父に呼ばれたとき、部屋には村を担当する家臣がいた。
机には仕事の報告が広げられている。
ユリウスの治めるアウレリス領は、王都の南東に広がる穀倉地帯だった。広い平地に畑が続き、その間に村や穀物を保管する倉が点在する。城の近くで集まる麦だけでなく、遠くの村からも荷が運ばれ、川沿いの船着き場や街道の拠点を経て各地へ送られていた。
「村人に、余計な噂を信じるなと伝えろ」
ユリウスは家臣へ言った。
「ロデリクが命令を変えても、こちらの決まりは変わらない」
「すでに船で来た者から話を聞いた村もございます」
「なら早く伝えろ」
アドリアンは二人を見た。
「何の噂ですか」
「アズレイン領で竜の民への罰を取り消した話だ」
「王がお認めになったと聞きました」
ユリウスは息子へ向き直った。
「それはロデリクの領地のことだ。こちらでまで役人に口答えされては困る」
家臣が付け加えた。
「麦を運ぶ仕事でも、怪我をしたと申す者がおります。噂を聞いて言い逃れが増えれば荷が滞ります」
「その者は本当に怪我をしているのか?」
「村の係に確かめさせます」
「では、まだ嘘かどうか分からないのでは?」
家臣は返事をしなかった。
ユリウスが机を指で叩いた。
「おまえにはソレインに乗って村の近くを通ってもらう」
アドリアンは父を見た。
「何のために」
「誰の領地か忘れさせないためだ」
「彼らを脅すためですか?」
「命令を聞けばよいのだ。何が嫌だと奴らに言わせていては、こちらの仕事が進まん。村へ降りる必要もない」
アドリアンは動かなかった。
ソレインが空を通るだけで、村人は怯えるだろう。自分は何も言わずに帰ってくればよい。そのあと何があっても、命令したのは父だと言える。
ロデリクの城へ行けと言われたときも、同じことを考えた。
父が卑怯だと思ってきた。だが自分も、命令に従っただけだと自分に言い訳すれば同じになる。
「行きません」
ユリウスは椅子から身を起こした。
「またか」
「ソレインで脅す前に、怪我を確かめてください」
「私の命令に条件をつけるつもりか」
「怪我を確かめずに働かせるためなら、私とソレインを使わないでください」
部屋が静かになった。
家臣がそっと父の顔を見た。ユリウスはそれに気づくと、椅子へ座り直した。
「もうよい。下がれ」
アドリアンが戸口へ向かうと父の声が追ってきた。
「この家で暮らしながら、家のためには働けないのか」
足が止まった。
食べる物も衣服も、竜の民の仕事と無関係ではない。自分だけが父のやり方から離れているつもりでも、ここで暮らしていることは変わらなかった。
それでも振り返って従うとは言わなかった。
*
庭の外で待つソレインは、アドリアンを見つけると首を下げた。
淡い灰色の毛を撫でると、その声が届いた。
〈出かけるのか〉
〈今日は行かない〉
ソレインは鼻先を寄せた。
〈父は、おまえを村の近くへ飛ばせと言った。怖がらせるために〉
〈おまえは行きたいのか〉
〈行きたくない〉
〈なら行かない〉
簡単な返事だった。
アドリアンは額をその首へ寄せた。断れたことへの安堵はあった。けれど村人への命令がなくなったわけではない。
自分が飛ばなくても父は役人を送れる。村人を守ったとは言えなかった。
〈断っただけでは、あの人たちは助からない〉
ソレインは黙って聞いていた。
アドリアンは顔を上げた。
父の言うままに空を飛ぶことはやめた。その先に何をすればよいのかは、まだ分からない。
*
数日後、リュシエンヌは自領の役人から届いた報告を読んでいた。
彼女の治めるヴィオレスタ領は、王都の南西にあった。丘陵の放牧地と盆地の畑の間に集落が点在し、羊毛や繊維になる作物も産する。城から近い村ばかりではなく、丘を越えた先の村にも同じように人々の暮らしがあった。そのすべてを自分の目で見られないからこそ、リュシエンヌは役人の報告で領内を知ったつもりになっていた。
集めるよう命じたのは、家族まで罰した事例だった。だが理由の欄には「命令に逆らった」とあるだけで、家族が何をしたのか分からないものもあった。
「これでは、何が起きたか分からないわ」
報告を持ってきた家臣が答えた。
「担当した者に詳しく書かせます」
「ええ。罰を決めた理由が分かるようにして」
家臣が退出するとリュシエンヌは机に残った報告へ目を戻した。
役人の判断を確かめる必要はある。だが、それと三家の申し出に賛成することは別だった。
ロデリクは、領主の祖先が領民の争いを収めていたと言った。その話をなぜ信じたのかは明かさなかった。
三家が今になって違う歴史を語る理由も分からない。王との対立に、自分まで巻き込まれるのは避けたかった。
リュシエンヌはクラウスへ文を書いた。
ロデリクから聞いた国の始まりについて、詳しく知りたい。その話を信じた理由も説明してほしい。
三家への賛同は書かなかった。
*
文が届いたとき、クラウスは自分の城にいた。
読み終えたあとも、すぐには返事を書かなかった。
求められているのは、昔の話だけではない。何を根拠に信じたのかを問われれば、証言した相手のことにも触れる必要がある。
リュシエンヌは王の前でユリウスに同調し続けたわけではない。だが三家の要求に賛成したわけでもなかった。
竜を知ったあとで王へ報告するかもしれない。ロデリクが黙っているからといって、彼女も同じようにするとは限らない。
クラウスは返事を書いた。
会って話すことには応じる。ただし、話の出所については明かすと約束できない。
それを読んで、彼女がどう受け取るかも分からなかった。
クラウスは文を封じた。レオノーラとテオバルトにも、問い合わせが来たことを知らせる必要がある。
まずは会って、リュシエンヌが何を疑っているのか聞く。彼女が味方になるかどうかは、まだその先の話だった。




