第10話 教えられたこと
皆が産屋跡から本を読まずに帰った日から、三日が過ぎた。トーマは、家の前で豆のさやをむいていた。ポルフィラが足を止めると、妹のそばに置いた籠へ豆を落とし、顔を上げた。
「今日は、本は?」
ポルフィラは空いた両手を見せた。
「持ってきてないよ。母さんに、お使いを頼まれたの」
トーマは妹から次のさやを受け取った。
「母さんから聞いた。あの日、皆も読まずに帰ったんだって」
ポルフィラが隣へしゃがんだ。
「うん。セラが、トーマにも伝えてって」
トーマは少し黙ってから言った。
「僕が休んでる間に、皆は新しい字を覚えてるのかと思ってた」
ポルフィラが、新しく読めたところはまだないと答えると、彼の口元が少し緩んだ。
「父さんには、何を読んでたか話した。二冊で昔の話が違ってたことも。本によって違うなんて知らなかったって。でも、まだ皆と読んでいいとは言われてない」
ポルフィラはうなずいた。今すぐ一緒に読もうとは言えなかった。
「お使い、行ってくるね」
ポルフィラが歩き出すと、背後からトーマが妹に豆のむき方を教える声が聞こえた。
*
ドランはこの三日の間に、リナの父親とシオンの父親にも会っていた。古い建物へ近づかせたくないという親も、まず子供の話を聞くという親もいた。本を読ませ続けるかは、それぞれの親が決めることになった。ただ、地下へはもう下りさせないと、どの親も言った。
その日の午後、管理者が鍛冶場へ来た。仕上がった道具を確かめ、帳面へ数を書き留める。
「これで、今度納める分はそろったな」
ドランが答えた。
「はい。運ぶ前に、もう一度、柄が緩んでいないか確かめておきます」
荷を運んできた村人が帰るのを待ち、ドランは戸口から外を見た。近くに人はいない。戸を閉めると、帰ろうとしていた管理者が振り返った。
「ほかにも、用があるのか」
ドランは声を落とした。
「少し、お尋ねしてもよろしいでしょうか。娘にいただいた本のことで」
管理者の目が閉じた戸へ向いた。
「誰かに見つかったのか」
ドランはすぐに首を振った。
「いいえ。家に隠してあります。ここへも持ってきていません」
「では、何を聞きたい」
ドランは二冊の違いを説明した。古い本には、二つの民が協力して平和に暮らした時代がある。新しい本にはその話がなく、天馬の民が竜の民の反乱を鎮めて、初めて平和になったと書かれている。
「この違いは、ご存じだったのでしょうか」
管理者は少し考えた。
「書き方が変わったところはあると思った。だが、二冊を並べて細かく比べてない。昔とは教え方が変わったのだろうと、そのくらいにしか考えていなかった」
ドランは相手の顔を見ながら続けた。
「私は読めませんので、娘から聞いた話ですが……。二つの民が仲よく暮らした時代があったのか、それとも、竜の民を従わせるまで平和ではなかったのか。書き方を変えただけではないように思うのです」
管理者は帳面へ目を落とした。
「……その『初めて』という言葉までは、気に留めていなかった」
ドランは尋ねた。
「どちらが、本当にあったことなのでしょうか」
管理者は顔を上げた。
「私には分からない。私が知っているのも、本で教えられた話だ。書いた者が何を調べたのかも知らない」
ドランは作業台へ手をついた。
「古い方も、正しいとは限らないのでしょうか」
管理者が答えた。
「古い本にも、間違いや、書かれていないことがあるかもしれない」
文字を読めるこの人なら、答えを知っているかもしれないと思っていた。だが、この人にも分からなかった。ドランはもう一つ、娘の疑問を伝えた。
「あの古い本は、どうして取ってあったのですか」
管理者の表情が少し変わった。
「私が子供のころに使った本だ。使い終わっても、家に置いてあった。捨て忘れただけだがな」
管理者は続けた。
「だから本に書いてある違いを教えるために、残していたわけじゃない。ただ、文字を覚えるのに役立つと思ったから全部渡しただけだ」
ドランはうなずいた。管理者は声を低くした。
「なぜ書き直されたかは、私にも確かめられない。上の者に尋ねれば、何のために古い本を調べているのかと疑われる」
ドランが答えた。
「承知しております」
変な疑いをうけ上から調べられ、本を渡したことが分かれば、この人もただでは済まない。子供や家の者がどうなるかも分からない。ドランは作業台から手を離した。
「そのために、危ないことをお願いするつもりはありません。ただ、差し支えなければ、もう一つ教えていただけませんか。知られれば危ないと分かっていて、どうして娘に本をくださったのでしょうか」
管理者はすぐには答えなかった。並んだ道具を見て、口を開いた。
「ここへ来たばかりのころ、気にしていたのは、命じた仕事が済んだか、納める品がそろったかということだけだった。竜の民は、天馬の民が従わせておかなければ争いを起こす。そう教えられていたからな」
ドランは黙って聞いた。村へ出入りする天馬の民から、何度も聞かされた決めつけだった。この人も、自分たちをそういう者だと思っていたのだ。管理者は一本の道具へ目を向けた。
「だが、ここで見たのは、互いに助け合う人々だった。おまえは、使う人が困らないよう道具を工夫する。村人も、誰かが病気になれば、その家の仕事を手伝う。私が命じたからではない」
ドランが低く答えた。
「互いに助けなければ、暮らしていけませんので」
管理者はうなずいた。
「争いを起こす者だと教わったが、助け合って暮らす姿は、教わったこととは違っていた」
外で遠くの戸を閉める音がした。二人は話を止め、足音が近づいてこないことを確かめた。管理者は再び口を開いた。
「私は子供のころ、字を習い、本を読んだ。この村の子供には、それが許されない。見つかれば、命まで奪われかねない。ここで人々の暮らしを見てから、竜の民だからというだけで学ぶことを禁じるのは、おかしいと思うようになった」
ドランは、読める字が増えたとミレアへ得意そうに教えていた娘を思い出した。
「それで、娘に本をくださったのですか」
管理者が答えた。
「ああ。あの子にも、私と同じように字を覚える機会があってよいと思った。だが、法律は変わっていない。見つかったとき、私にはあの子を守りきれない。本を渡した私が言うのも勝手だが、そこは忘れないでくれ」
ドランは頭を下げた。
「はい。忘れてはおりません」
管理者は帳面を取り上げた。
「娘には、私が改訂の理由を知っているわけではないと伝えてほしい。古い本を残したのも、特別なことを知っていたからではない」
ドランが承知したと答えると、管理者は戸口へ向かいかけて足を止めた。
「その子たちは、二冊ともよく読んだのだな」
ドランは、友達の読めないところを一緒に確かめていた娘を思った。
「時間はかかりますが、分からないと何度も読み返して、皆で考えているようです」
管理者は手元の帳面を見た。
「私は、教科書が変わっても気にしなかった。だが、その子たちは、昔は天馬の民と竜の民が仲よく暮らしていたのか、知りたかったんだな」
ドランが戸を開けると、管理者は道へ出ていった。娘に、本をくれた理由を話してやりたかった。同時に、その人でさえ、娘の知りたいことには答えられなかったと、伝えなければならなかった。
*
夕食のあと、ドランは管理者の返答を伝えた。古い本は管理者が子供のころに使ったもので、捨てずに家に置いてあったという。歴史の書き方が変わったことも、教え方が変わったのだろうとしか考えていなかったと。ポルフィラは食卓へ目を落とした。
「竜の民も平和を築いた、ってところがなくなったのに?」
ドランが答えた。
「書き直されたところを、細かく比べてはいなかったそうだ。おまえたちが何を気にしているのか伝えたら、考え込んでいたよ」
ポルフィラは口を閉じた。昔は二つの民が協力していた。その話を見つけたとき、皆もすごく気にしていた。でもあの人は、気にならなかったのだ。
ドランは、管理者が村へ来るまでは、竜の民は従わせなければ争いを起こす者だと信じていたことも話した。ミレアが娘へ言った。
「でも、村で皆が助け合うのを見て、考えが変わったのね。それで、あなたにも字を学ばせてあげたいと思ったんだわ」
ポルフィラは父を見た。
「もう、私たちが争いを起こす人たちだとは思ってないの?」
ドランは少し考えた。
「ああ。ここへ来て、教わったことをそのまま信じるのはやめたんだと思う」
ポルフィラは本をしまった場所へ目を向けた。まだ尋ねたいことはある。それでも、渡してくれた理由が分かったのはうれしかった。
ドランは娘へ念を押した。
「だが、あの人にも守りきれん。ほかの天馬の民に見つかれば、話を聞いてもらえるとは限らん。そのことも忘れないでくれと言っていた」
ポルフィラは父を見て、うなずいた。片づけが終わると、娘は二冊を見てもよいか尋ねた。
「少しだけな。誰か来たら、すぐしまう」
ポルフィラは隠してある包みを取り出し、食卓で開いた。古い表紙は、何度も触れたところが薄くなっている。自分より前に、この本で文字を覚えた子供がいた。その子が大人になり、この村へ来て、本をくれたのだ。
ポルフィラは、昔の争いについて書かれた頁を開いた。二つの民が協力したという話は、古い方にしかない。けれど、どちらも争いを起こしたのは竜の民だとしている。
本をくれた人は、村へ来てから、教わったことに疑問を持った。昔の竜の民について書かれた話も、間違っていることがあるのだろうか。ポルフィラは古い本の頁に指を置いた。天馬の民と一緒に平和に暮らせたのなら、そのころのことをもっと知りたい。だが、この本を信じてよいかも、まだ分からなかった。




