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第5章:心理の残響とボラティリティの臨床――2000-2019【転】


「でもね、ボク。医学の世界には**『衛生仮説』**という言葉があるだろう?」


 叔父は、それまで広げていた2008年のパニックの記録を閉じ、一転して、不気味なほど「平坦」なグラフが続く2017年のページを開いた。


「あまりに清潔すぎる環境で育った子供は、免疫システムが適切な訓練を受けられず、成長してから些細な花粉や埃に対して致命的なアレルギー反応……アナフィラキシー・ショックを起こしやすくなるという説だ。実は、金融市場においても全く同じことが起きるんだよ」


ボクは大学の免疫学の講義を思い出した。


異物を排除するはずの免疫系が、平和な環境に慣れすぎたせいで、自己と非自己の境界を見失い、暴走して自らの組織を焼き切る。


「おじさん。それって、経済で言えば『平和すぎて、リスクを忘れた時が一番危ない』ってこと?」


「その通りだ。この2017年のチャートを見てごらん」


 叔父が指し示したグラフは、驚くべきものだった。


2017年、VIX指数の年間平均はわずか11.02。


歴史上、最も市場が『静か』だった年だ 。


「この時、世界中の中央銀行が大量の資金を供給し、ボラティリティ(変動)を力ずくで抑え込んでいた。市場は、まるで無菌室の中にいるような平穏を謳歌していたんだ。


投資家たちは『もう暴落なんて起きない』と過信し、ボラティリティを売る、つまり『恐怖がないこと』に賭ける投資に熱狂した」


叔父は、当時爆発的に売れていた『インバースVIX(VIXの逆方向に連動する商品)』のパンフレットを模した古い資料を取り出した。


「人々は、この『安定』という麻薬に溺れた。


VIXが低ければ低いほど儲かる仕組みに、巨額の資金が流れ込んだんだ。


でもね、ボク。市場が平穏であればあるほど、その裏側では巨大な『エネルギーの歪み』が蓄積されていたんだよ。


これをボクたちは**『低ボラティリティの罠』**と呼んでいる」


そして、叔父は運命の日のページを捲った。


2018年2月5日。


 その日、市場に走った激震の名前を、ボクはニュースのアーカイブで見たことがあった。


『ボルマゲドン(Volmageddon)』――ボラティリティとハルマゲドンを掛け合わせた造語だ。


「きっかけは、ほんの些細な賃金上昇のデータだった。


マクロ経済で見れば、本来は喜ばしいはずの兆候だ 。


でも、無菌室で免疫力を失っていた市場にとっては、それが致命的な抗原アレルゲンになったんだ。


VIX指数は、わずか1日で17.31から37.32へと跳ね上がった。


終値ベースで史上最大、20.01ポイントもの爆発的な急騰だ」


叔父の声が、当時の現場の混乱を再現するように鋭くなった。


「一晩で、ボラティリティの安定に賭けていた巨額の資金が『逆流』を始めた。


インバースVIX商品の代表格だった『XIV』というETNは、1日で純資産のほぼ全てを失い、消滅した 。


これは経済学的な理論が通用しない、純粋な**『アレルギー反応』**だったんだ。安定そのものが不安定を創り出し、自家中毒を起こしてシステムを破壊した。


ボクたちは、モニターの前でただ呆然と、昨日までの平穏が火の海に変わるのを見ているしかなかったよ」


ボクは戦慄した。


2008年のリーマン・ショックが『多臓器不全』だったとするなら、このボルマゲドンは、健康体だと思い込んでいた人間が、自分の過剰な防衛本能によって自壊したようなものだ。

「安定は不安定の父である……。ハイマン・ミンスキーが唱えたそのパラドックスを、これほど残酷に証明した症例はない。ボク。君が専門分野で『ストレス応答』を研究しているなら、これも覚えておいてほしい。適度なストレスや変動がないシステムは、いつか必ず、たった一つのノイズで壊滅するんだ」


叔父はそう言って、2019年の年末、つまり世界が「パンデミック」という未知のウイルスに襲われる直前の、最後の静寂が記されたページに手を置いた。


「2017年の『無菌室』、2018年の『アレルギー』。そしてこの病歴の先に、ボクたちが今生きる2020年代の、さらに進化した『変異株』のパニックが待っている。でもね、2024年の暴落には、これまでの臨床データでは説明できない、ある『計算上のマジック』が隠されていたんだ」


叔父の視線は、既に次の、さらに現代的な「恐怖」の正体へと向かっていた。ボクは、歴史という名のカルテが、ただの記録ではなく、現在進行形の「警告書」であることを痛感していた。




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