表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/25

第5章:心理の残響とボラティリティの臨床――2000-2019【承】


叔父はホワイトボードの端に、生物学の教科書で見かけるような『系統樹』に似た図を描き始めた。ただし、その枝先に並んでいるのは種の名前ではなく、『ITバブル崩壊』『同時多発テロ』『リーマン・ショック』といった、経済史に刻まれた痛ましい傷跡の数々だった。


「いいかい、ボク。医学において病歴アナムネーゼを知ることが診断の基本であるように、金融市場においても過去のパニックの記録……**『臨床データ』**を紐解くことは、今の市場の『体質』を知るために不可欠なんだ」

叔父はモニターに、2000年から2019年までの20年間にわたるVIX指数の長期チャートを映し出した。それは、凪のような平穏と、天を衝くような激越なスパイクが交互に現れる、巨大な生命体の心電図のようだった。

1. 慢性的な「不信」の時代(2000年〜2002年)

「まずはここ、21世紀の幕開けだ」

 叔父が指し示した2000年代初頭、VIX指数はそれまでの安定圏だった10〜20のレンジを突き抜け、20〜30という高水準で数年間も高止まりしていた。

「ITバブルの崩壊だね。でも、この時期の恐ろしさは単なる株価の下落じゃない。エンロンやワールドコムといった巨大企業の『不正会計』が次々と発覚したことにある。

生物学で言えば、自己と非自己を識別する免疫システムが、自分自身の細胞(企業)を信じられなくなった状態……**『慢性の免疫不全』**だ 。

同時多発テロという外部ショックに対して、市場は一時VIX 40を超える過剰なパニック反応を見せたが、それが長引いたのは、システムの内側に対する根深い不信感があったからなんだよ」

2. 「大いなる安定」という名の潜伏期(2003年〜2006年)

チャートは一転して、2003年以降、深い谷へと沈んでいく。

VIX指数は10台前半という歴史的な低水準で推移し、市場には不気味なほどの静寂が広がっていた。 「これを当時の経済学者は『グレート・モデレーション(大いなる安定)』と呼んで礼賛した。

でも今思えば、これは破滅的な疾患の**『潜伏期』**に過ぎなかったんだ」

 叔父の声が低くなる。

「VIXが10付近で凪いでいる裏側で、サブプライムローンという名の『毒素』が、金融システムの毛細血管の隅々まで回っていた。

でも、温度計であるVIXには熱が出ない。

投資家たちは『もうリスクは克服された』と盲目的な楽観に浸り、より危険なリスクを取り続けた。臨床的には、最も危険なのは熱が出ないまま病が進行する時なんだよ」

3. 史上最大の「多臓器不全」(2008年)

そして、2008年。

チャートには、エベレストの頂のような、絶望的なスパイクが描かれていた。 「2008年10月24日。VIX指数は日中で89.53という、現在の手法で算出されるようになって以来、史上最高の数値を叩き出した」

 ボクはその数字の圧倒的な質量に息を呑んだ。

「89……。それって、生存できるレベルなの?」

「いや、まさに死の淵だ。リーマン・ブラザーズの破綻をきっかけに、世界中の金融機関が互いに疑心暗鬼に陥り、資金の循環……つまり血流が完全に止まった。

この年の平均VIXは32.69。市場は1年中、高熱でうなされる『赤信号』の状態だったんだ 。

一つの臓器(銀行)の不全が、瞬時に全身へと波及し、世界経済という個体を崩壊寸前まで追い込んだ。心理センチメントが実体経済を完全に飲み込み、破壊し尽くした瞬間だね」

4. ボラティリティ・リスク・プレミアム:生存本能の数理

叔父はホワイトボードを使い、ボクに一つの数式を提示した。


「これは**ボラティリティ・リスク・プレミアム(VRP)**と呼ばれる概念だ。IVインプライド・ボラティリティは、VIXのように市場が予測する未来の変動。RVリアライズド・ボラティリティは、実際に起きた変動だ 。

面白いことに、歴史的に見ると、人間は常に将来の恐怖を、実際に起きる事態よりも『過大評価』する傾向があるんだよ」


ボクはノートにその数式を書き写しながら、生物学的な解釈を試みた。


「……それって、生存本能そのものだね。暗闇でガサガサと音がしたとき、それがただの風(RV)であっても、猛獣(IV)だと勘違いして逃げ出す個体の方が、生き残る確率は高い。経済の世界でも、市場は常に『最悪の事態』という名の保険料を価格に上乗せしているんだ」


「その通りだ、ボク! その過剰な恐怖の差額プレミアムを収穫するのが、プロのストラテジストたちが好む『ボラティリティ・キャリー戦略』の正体なんだよ 。


でも、この生存本能に基づいた戦略が、時として牙を剥くことがある。それが、次に見せる2010年代の『罠』だ」


叔父はそう言って、チャートをさらに先へと進めた。2011年の米国債格下げによる、1日で16ポイントもVIXが跳ね上がった衝撃の記録を 。


そして、平穏が長く続きすぎたために市場が自身の免疫力を忘れてしまった、2017年の「史上最低のボラティリティ・レジーム」へと 。


「過去の病歴は教えてくれる。人はパニックを繰り返すが、そのパニックの『形』は、その時代の金融政策やテクノロジーという、新たな『変異株』によって常に更新され続けているんだということをね」


ボクは、20年前の色褪せたデータの中に、現代の自分たちが直面している「恐怖」の原形が、ウイルスの遺伝子配列のように潜んでいるのを見た気がした。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ