青い夜魔
年が明けると、途端に仕事が忙しくなった。冬は、エンバーミングの仕事が最も多い季節。この寒さが、人を神さまのもとに近づけるから。チラチラと舞う雪は、綺麗だけれど。寒いものは寒い。店内の花も凍りそうだ。水に氷が張らないように気をつけないと。
「おはよう、レイン。……あら?」
いつものように一階に降りると、リリーがすでに入荷した花を仕分けていた。作業の手を止めて、首を傾げている。
「どうしたの?」
「レイン、もしかして体調が悪いの?真っ青な顔をしているわ」
リリーに促され、椅子に座る。ひんやりしたリリーの手が、おでこにあてられる。
「まぁ、やっぱり。熱があるわ。今日はお仕事、お休みしましょう?」
確かに、寒いなと思ってはいたけれど。今は一年で一番寒い頃だし、そういうものかと思っていた。熱のせいだったんだ。
「今日はコーヒーではなくて、温かいミルクにするわ。パンも食べられるなら、用意するけれど。どうかしら?」
今はまだ、吐き気などもない。今のうちに何か食べておいた方が良さそうだ。リリーの言葉にうなづくと、手早く朝ごはんを用意してくれた。
「お医者様に連絡しておくわ。それとローシュにも。エレンを帰してもらいましょう」
「そこまでしなくても、大丈夫だよ?」
「いいえ、何かあってからでは遅いわ。それに」
リリーの体温のない手が、僕の手に重ねられる。
「それに。弱っている時ほど、寂しさに足元を掬われるものだわ。わたしはここにいるけれど、エレンがいた方が安心でしょう?」
リリーに心はない。けれど、かけられた声は僕のことを精一杯気遣っていた。
「うん。そう、かも。でも、無理はしなくていいって、伝えてね?エレンも、忙しいから」
「分かったわ。食べ終わったら、自分のお部屋に戻って、ベッドに横になっていて。お医者が来たら、案内しておくから」
リリーの言うとおり、今日は一日寝ていよう。別に眠くはないのだけれど、なんとなく身体もだるい。
「ごちそうさま。ありがとう、リリー。あとを頼むね」
「ええ、レインはゆっくり休んでね」
この建物は、二階へは一度外に出ないと上がれない。裏口から外に出ると、冷たい風が服の中まで入ってくる。あまりにも冷たくて、思わずくしゃみが出た。
自分の部屋に入ると、なんだか気が抜けて。そのままベッドに倒れ込む。全然気づいてなかったのが不思議なくらい、頭がぐらぐらする。なんとか毛布を被り、目を閉じた。
気づくと、誰もいない場所に一人で立っていた。湖のように、静かに地面がゆらゆら揺れている。紫陽花が咲くその場所は、とても綺麗だ。上を見ると、雲の一つもない青空が広がっている。
誰かに呼ばれた気がして、振り向いた。見慣れた長い金色の髪が。大好きな翠の目が、僕を呼んでいる。エレンだ。
「エレン。すぐそっちに行くね」
エレンの方に向かって歩く。けれど、何歩歩いてもエレンに近づいている様子はなくて。むしろ、どんどん遠くに行ってしまう。
「待って、待って。お願い」
歩いていた足は、速くなっていく。全力で走っているのに、どんどん遠くへ行ってしまう。
道中、色んなものが通り過ぎていった。古い時計、枯れた花。リリー、ハルカ、ローシュ。最後に、もう声も覚えていない両親の顔が見えて。
エレンの口が、動く。その言葉を聞きたくなくて、叫ぶ。
「置いていかないで、エレン!」
「レイン、レイン。大丈夫かい?」
雷に打たれたように、目が覚めた。心配した顔と目が合う。エレンだ。
「随分うなされていたけれど。嫌な夢でも見たかい?」
夢を見ていたんだ。そう分かって、心の底から安心した。心臓がうるさくて、涙がこぼれそうで。とても、とても哀しかった。
「起き上がれそうかい?レインが寝ている間に、医者を呼んでね。薬が出ているから、ひとまず飲んで」
背中を支えられながら、なんとか起き上がって。水の入ったコップを受け取る。ぬるい程度に調整された温度に、安心した。
「落ち着いた?」
「うん。ありがとう、エレン」
僕の背中をさする大きな手のおかげで、だんだん心臓の音も落ち着いてきた。
「医者の話によると。ただの季節性の風邪だそうだよ。薬がなくなる頃には、元気になるだろうって」
「そう。ごめんね、お仕事だったのに。無理して帰ってきてくれたのでしょう?」
この時期のエレンは、ローシュの仕事の関係で多忙だ。相当無理を言って帰ってきてくれたに違いない。
「レインのためなら、どうということはないよ。私にとって、レインが一番大切だからね」
「ふふ、ありがとう。エレンは、いつも僕を大切にしてくれるね」
思えば、出会った時から。エレンが、僕を二の次にしたことは一度もない。僕が困っていれば必ず助けてくれたし、どこにだってついてきてくれた。大切な、大切な人。
「夢を、見たの。エレンが、いなくなっちゃう夢。どこまでも青い空の、その先に行ってしまう夢」
人は星に夢を見るという。星の数を数えて、早く朝が来ないかと、孤独に苛まれることがあると。
僕にとってそれは、真昼の晴れた空の下で起こるものだった。
「晴れた日の空って、怖いの。空が、どこまでも遠くまであって。あの青の向こうに、何もなかったら。全てのものが、あの向こうに消えていくのだとしたら?そう思うと、カーテンを閉めた部屋に閉じこもって、夜が来るのを待っていたくなる。どこにも行かないで、大切なものを並べて。大丈夫だよって思えないと、何も出来ない。何も、出来ないの」
どんなに綺麗なものでも、大切にしているものでも。僕の前から消えていってしまう。帰ってこないものを見つめて、不安になってしまう。
エレンは、そっと僕を抱きしめて外が見えないようにしてくれた。エレンの、優しい甘い香りに包まれる。その匂いに、少しだけ安心した。
「エレン。お願いがあるの」
「なんだい?」
翠色と目が合う。僕は、ずっと思っていたことをとうとう口にした。
「ずっと、ずっと。僕のそばにいて。どこにも、どこにもいかないで。もう、大切なものがどこかにいってしまうのは、耐えられないの」
どうしても、エレンだけは。どこにも行ってほしくない。熱に浮かされた身体は、寂しさに溶けてしまいそうだった。
「いいよ。私の全てを、あげる。レインはもう、その方法を知っているだろう?」
「──本当に?本当に、いいの?」
どうしようもない願いだと。人が、犯してはならない罪を。僕は今、道を踏み外そうとしている。けれど、その誘惑に。抗えなかった。
「僕の、永遠になって。エレン」
「ああ。ずっと一緒にいるよ、レイン」
外の雪は、雨に変わっていた。
外は、ひどい大雨だった。自分の足元もろくに見えないほどの雨は、全ての生き物から体温を奪うようだ。そんなどう考えても外に出ない方がいい日に。スミレと共に、急いで目的地に向かう。
「待たせたね、ごめんよ。この雨じゃ、ろくに馬車も出せなくて」
「ううん、ごめんね。こちらこそ、来てくれてありがとう、ハルカ」
──エレンが死んだ、と。思ってもみなかった知らせを受けたのが、つい数時間前の話だ。
「聞いた時は、耳を疑ったよ。まさか、エレンが」
特別病気だったとか、怪我をしていたとか。そんな話も聞かなかった。なのに、突然。
葬儀には、喪主であるレイン以外には、ローシュと少しの人間しかいなかった。エレンには、血縁のアテがないとは、以前聞いていた。随分と寂しい葬儀だ。
「驚くのも無理はない。ワタシも驚いたからね」
ローシュの表情は、いつもと変わらないようにみえる。けれど、その声はどこか寂しげだった。
棺はすでに、棺蓋が被せられていた。このまま式が終わると、すぐに墓地へ埋葬するそうだ。かける言葉も見つからないまま、葬儀は滞りなく進んでいく。
参列者の少ない式は、あっという間に終わった。墓地に着いても、雨は土砂降りのままだった。
「ハルカ。この後、時間はある?」
埋葬が終わり、参列者が帰って行った頃。レインが声をかけてきた。
「うん、大丈夫だよ。何か、話したいことがあるのかい?」
「ハルカには、見せてもいいかなって。家に来てくれる?」
「見せたいもの?」
このタイミングで、わざわざ見せたいものってなんだろう?ボクもスミレも首を傾げたが、レインの申し出にうなづく。
参列者が全て帰り、ボクとスミレ、ローシュだけが残った。特に会話もないまま、レインの家──花屋アウターに辿り着いた。
「おかえりなさい、レイン。あら、ハルカおにーさんも一緒なのね。それに、ローシュも」
店は閉まっているが、リリーが出迎えてくれた。留守番だったようだ。
「やぁ、久しぶりだねリリー。ご機嫌いかがかな?」
「わたしは元気よ、ありがとうハルカおにーさん。今日は、エレンに会いに来たのかしら?」
「え?」
リリーのその言葉に、ボクもスミレも驚く。エレンは、さっき埋葬されたじゃないか。
「ハルカ。こっちに来てくれる?」
レインはリリーの言葉を特に気にした様子もなく、ボクたちを案内する。呼ばれたのは、地下だ。あれ、地下って確か。それに気づいた瞬間、ボクは最悪の事態を予測してしまった。そしてそれは、ほぼ確実に当たっているということも。
地下室の扉の先は、レインの工房──処置室だ。変わらずボクにはよくわからない機械がいっぱい詰まっている。その中央に、大きなガラスケースが置かれていた。布がかけられたそれは、人がちょうど一人入るような大きさで。ローシュの美術館で、かつてみたものと同じで。
「いつもより、丁寧にやったから。時間がかかっちゃったの。ふふ、見てくれる?」
レインは機嫌よく、ガラスケースの布を取り払った。よく磨かれたケースの、その中にあったのは。
「エレン──?」
先程葬儀を済ませたはずの、エレンの身体が。ただ寝ているだけのように、静かに横たわっている。けれど、動かない胸が。生きている人間にあるはずの、微細な動きがないことが。彼がもう死んでいることを表していた。
「エレンがね、僕と約束してくれたの。ずっと一緒にいるよって。ふふ、素敵でしょう?」
目の前のもう温度のないエレンの遺体は。今まで見たどんな作品よりも、美しかった。
「ハルカにはね、教えておこうと思って。頑張ったの、すごいでしょう?これからは、ずっと一緒なんだ」
そういうレインの顔は、本当に幸せそうで。幸福の女神がいたら、きっとこんな顔で笑うのだろうと。そう思ってしまうほど、綺麗だった。
ああ、二人は。どうしようもない過ちを犯してしまったのだと。分かってしまった。分かってしまったのに。
「うん。すごく──今まで見たこともないくらい、美しいね」
美しいものの価値を、ボクは知っている。だからこそ。
目の前の芸術に、首を縦に振ることしかできなかった。




