第42話 『言葉』を覚えろ
「……ですから、一般的に麻酔薬を表す符丁はこの白い三角形になるわけです。これは元々シビレスズランの花を図案化したもので、特に注釈がなければシビレスズラン抽出液を表すのですが、別の薬である場合もありますので不慮の事態を避けるために必ず確認をすえうようにしてください。
自分で書く際は、ほら、このように三角の後ろにもう一つ符号を書いて、種類を明らかにしておくのがいいでしょう。黒い逆三角はモルフォコウモリの催眠毒。三つの小さな丸が三角形に並んでいるのは、シロイシダケの硬直胞子を表します。
さて、ではこの符号は何を表すでしょう? 先ほど一回お教えしましたが……」
「……ダメだ、降参。入りきらねえ」
ディンゴは弱々しい声で応え、椅子の背もたれにぐったりと寄り掛かった。隣に座るザインが困ったような顔でため息をつく。
「そうやってすぐ諦めてしまってはいけませんよ。確かに初めは覚えることだらけで、追いかけるだけで精いっぱいという感じでしょうが……一旦分かるようになってくれば面白くなってきて、自然に覚えてしまうものなんです」
ザインは子供に説いて聞かせるような口調で言い、太い指で机の上のカルテをめくった。
ここは『紅蓮獅子団』の新たな拠点――ウベル=ベル=レグリキカ鉱山跡に佇む工夫小屋である。キャラバがここを購入してから既に数日、小屋は何とか人の住めるレベルにまで修復をほどこしてあった。窓ガラスはまだ嵌まっていなかったが、割れた窓は裏から厚布を張って塞いであったし、雨漏りする天井にはキャラバが数日がかりで継ぎを当てた。とりあえず、室内に居ながら雨や風に晒されるということだけは無くなったわけだ。
室内のガラクタもすっかり運び出され、代わりにカルテや医学書の詰まった本棚がいくつかと、医薬品の棚、そして古い書き物机が運び込まれていた。
工夫小屋を改装した紅蓮獅子団事務所がどうやら形になり、隙間風も雨漏りもなんとか防げるようになった時、最初に持ち込まれたのがこの書籍やカルテの山だった。元々はキャラバが冒険者相手の医者をしていた時分につけたものらしい。
「精が出るねえ、お2人さん。コーヒー淹れたけど、飲む?」
アラムが奥からポットを片手に出てくる。玄関を入ってすぐ、「応接室」と名付けられた広間の更に奥には、工夫たちの使っていた炊事場がある。大した設備があるわけではないが、魔導泉を置いた流し台と簡単な魔導コンロが置かれていた。
「頂きます、アラムさん……ありがとう」
振り返って微笑むザインに、大きな真鍮カップを手渡しながらアラムは尋ねる。
「御大将はまだ戻らないのかね? 信号があってから、もうだいぶ経つが……」
コーヒーカップでアラムは部屋の奥を指した。示す先には、壁際に鎮座まします巨大な箱。魔導合金製の伝導線やプラグがむき出しになり、床には束になった配線が蛇のようにのたくって広がっている。ひときわ太い配線束は、奥の壁一面を覆った四角い帆布の裏へと伸びている。帆布の上には細い線で、暗黒壁面内部の地図が描かれていた。
これが、キャラバとマーレの造りあげた緊急信号受信機である。遺跡の中で信号が発せられると、地図上に魔力の光が灯りその位置を指し示す。内部にはベルまで仕込まれていて、信号をキャッチするとけたたましく鳴り響くのである。
つい先ほど、昼飯の直後くらいにも信号が鳴り響き、キャラバは坑道を通ってその指し示す位置へと向かっていた。それが、午後のお茶の時間になっても戻ってきていないのだった。
「ま、呼び出しがあった場所は全然浅いとこだったし、御大のことだから途中で野垂れ死んだってこともないだろうけど……別の意味で面倒起こさないか心配になって来るね。どこほっつき歩いてるやら。
そろそろ本業の医者でまともな収入上げないと、ユノーの薬草採りで暮らしを繋いでるようなもんだからね、今ンとこ」
アラムの言葉どおり、ユノーもまた遺跡へ薬草採りに出ていた。無論自分たちが使うためというのもあるが、余った分は換金もしている。元々暮らしていた鳥人部族の薬種商にツテがあり、採ってきた薬草を買ってもらえるのである。今のところはそれが、紅蓮獅子団の経営を支えるほとんど唯一の収入源となっていた。
「おや、キミはコーヒー要らないのかね、ディンゴ?」
受け取られぬままポットの取っ手に引っ掛けられているカップを見て、アラムは机に向かうディンゴに声をかけた。応えるディンゴの顔色は冴えなかった。
「俺ぁいいわ……どうせ鉱石だろ? しかも、外で採ってきたヤツ」
「立地を利用しない手はないからね。節約だよ、節約」
アラムはにっこりと微笑み、書き物机の上に広げられた書類を寄せてカップを置くスペースを作った。事務所近くの坑道は元々珈琲石の鉱山だったため、今でも探せば珈琲石の欠片がいくらか見つかるのだ。
「大竪穴で暮らすんなら、鉱石珈琲にも慣れとかないとツラいよ。コーヒーの力を借りたい時なんてしょっちゅうなんだから……キミ、ひどい顔してるぜ。自分で気づいてるかね?」
アラムが指摘した通り、ディンゴの顔にはありありと疲労の色が窺えた。無理もない。事務所が開いてからというものディンゴは、事務所に泊まり込んで朝晩みっちりとザインの特別授業を受けているのである。内容は、大竪穴におけるカルテの読み方・書き方および、医学の基礎知識であった。
「こんなもん、今更勉強する必要なんかあるのかよ……俺の腕は見ただろ? 経験なら外界でみっちり積んできたし、今までだってこんな知識に頼らなくっても立派にやってこられたんだからよ」
「アカデミーに行きたいのでしょう? だったら、遅かれ早かれ本格的に学ばなければならないことですよ」
ザインは優しく、しかし断固とした口調で言った。
「外界ではどんなに能力があろうとも、正式な医者でないと相手にされない――とは言いますがね。それもそれなりの理由あってのことです。
そりゃあ幾分かは、王立アカデミーという権威を崇拝しているところはあるでしょう。ですが、少なくともアカデミーを出た医者というのは、これだけの知識を備えているとのお墨付きが付いているわけですからね。治療を受ける側として安心できるのはどちらか、分かるでしょう?」
医学書の山を示しながら、ザインは語った。ディンゴはぐっと返答に詰まりながらも、そっぽを向いて負け惜しみのように言い返す。
「なんだ、やけに外界アカデミーの肩を持つじゃねえかよ……大竪穴に籠もりっきりの『うちびと』のくせによォ」
「失礼なこと言うんじゃないぞ、少年」
ふてくされて椅子にもたれかかったディンゴの肩へ、アラムが肘をつく。
「その『少年』っての、いい加減やめろよなァ!」
「ザインはな、第3大隧道のアカデミーを通じて外界王立医学アカデミーの通信教育を修了してるんだ。無論、『うちびと』だってことは隠してな。キミの大先輩になる予定のお方なんだぞ。ま、キミの勉強が順調に進めばだけど」
「そう大層な紹介をされても困りますよ、アラムさん」
ザインは慌てて手を振る。シンバルほどもある手のひらが起こした風で、広げてある本やカルテが飛び散りそうになった。
「考古学研究に協力する代わり、『そとびと』文明の医術も教えていただきたいと言ったら、アカデミーの方々が色々と段取ってくれたというだけで……しかし、貴重な体験ではありました。私たち『うちびと』は、大竪穴の外へは出られませんからね」
外界に存在する王国政府は、冒険者や彼らの集めた財宝の出入りは許しているものの、異形の『うちびと』の血をひく者だけは断じて大竪穴の外へ出そうとしなかった。宗教的・文化的な偏見など、様々な理由が考えられるが、最たるものは「混血の排除」であろう。『うちびと』は純粋人類とも簡単に交配し雑種を産む。人間といえば純粋人類しか知らない外界王国のお歴々にとって、それは恐怖以外の何物でもないのである。
「外界の方から見れば、大竪穴の医療は実践的で、外界の形式ばったやり方よりも良いように見えるのかもしれませんが……こちらはこちらで、基礎的な学術研究の成果がなかなか実戦レベルにまで広まらないんです。
大部分の医者は未だにおまじないレベルの施術を堂々と行っていますし、カルテも残さない場合が多くて……一人ひとりの技術は経験によって向上しますから、そりゃとてつもなくすぐれた医者は何人かいますよ。でも、それが全体の底上げにつながらないんです。キャラバさんが憂いてらっしゃるのは、まさにそういうところでしてね」
「聞いたね? そういう手先だけの医者には、なりたくなかろう?」
アラムは片目をつぶり、鉱石珈琲をゆっくりと啜った。
「外界じゃ、キズを診る医者と病気を診る医者の分業も進んでると聞くがね……大竪穴の医者ってのは、基本的に何でも診るヨロズ屋さ。何しろ人手が足りないし、冒険中ってのはあらゆることが起こるからね。打ち身擦り傷は日常茶飯事、魔物に有毒植物、得体の知れない古代魔術や神殿を守る罠……ありとあらゆる自体が待ち受けてるし、ありとあらゆる種類の患者が持ち込まれる。その全てに対応しなくちゃならないんだ。
とはいえ、一人の人間がそんなになんでもかんでもこなすなんてのァ不可能だ。誰しも得意なこと、苦手なことってのはある。時には「他人に治療を任せる」ってのも、立派にひとつの診断なんだよ。
そのために何が必要か、分かるかね? 症状を症例に照らし合わせて的確な診断を下す『眼』と、その内容を他人に伝える『言葉』だよ」
「言葉なんざ、わざわざ教えてもらわなくたって……」
口答えをしようとするディンゴの顔の真ん前に、アラムはコーヒーカップを持った手をぐいと突きつけた。
「言っとくが、こうしてキミと私がお喋りしてるような意味での『言葉』のことを言ってんじゃないからね。医者同士としての話さ。目の前の患者をどう治すか、例え途中で一人がくたばろうとも、もう一人がすぐさま引き継いで治療を続けられるような……」
と、アラムが言いかけた瞬間だった。表の扉が、引きちぎられんばかりに荒々しく開け放たれた。
「今帰ったぞォ……と! くそッ!」
吠え声のような罵声を轟かせつつ大股に入ってきたのは、リオンナード・キャラバその人であった。冒険用のドクイバラ繊維のコートには、遺跡でまとってきたらしい砂埃がみっしりと積もっている。その両肩には何やら黒っぽい大荷物を1つずつ担いでいる――と、その『荷物』が低く呻き声を上げた。
「か……勘弁してくれェ……」




