第37話 剣の舞
やがて――ユノーのように風魔術の心得が無くとも、近づいてくる大羚羊の気配が感じられるようになってきた。地面を叩く蹄の音、太い喉から漏れ出る息遣い。そのテンポは速い。招かれざる客の存在を確信し、警戒が怒りに変わったのだ。剣の大角を持つ巨獣は、その切っ先を侵入者に突き立てようと疾駆を始めた。
「さァて……来るぞォ! 備えろッ!」
アラムが叫び、右腕の盾を突き出して半身に構える。と、その声を聞いて後ろの2人が身構える暇もなく、1つ手前の曲がり角から巨大な影が飛び出した。
天井のほころびから漏れるわずかな光が、駆け寄ってくる大羚羊の姿を照らす。長い首を地面すれすれにまで下げて、刃型の2本角を真っ直ぐ前方に突き出した、流線形の突撃姿勢。ちらりと光った黒い瞳は、絶望的なまでの憤怒と敵意に燃えていた。
乏しい光源の中、アラムは相手の瞳も蹄も見なかった。ただ、その2本の角だけを一心に見つめた。敵は一直線に突進して、その角を突き刺し貫く気でいる。それを、決して大きくはない盾で止めなくてはならない。
アラムは歯を食いしばり、腰を落として盾をぐっと前へ出す構えを取った。的を小さくし、突撃の軌道を限定するためだ。ブレードホーンはほぼ進路を変えることなく、地面をこすりあげるようにして角を振り上げ、アラムの身体目掛けて突きかかった。
「くッ……危ない、だろッ!」
アラムは咄嗟に右腕を上から落として角を受け止め、そのまま丸盾を地面に突き立てた。盾の下部だけを形状変化させて楔型にし、体重をかけて深く地面にめり込ませる。2本の角は、盾によって地面にピン止めされたような形となった。梃子の要領で、ブレードホーンの頭がぐっと押さえつけられて下がる。
「ディンゴ、今だ! 頼むッ!」
アラムが叫ぶが早いか、既に構えていたディンゴが後ろから飛び出し、押し下げられたブレードホーンの頭へと魔導杖を向けた。先端に光が集中し、握り拳ほどの光球を作ったかと思うと、白い光の奔流が闇を引き裂いて降り注ぐ。
「Brrrrr!」
もろに目を射られたブレードホーンは一瞬突進力を緩め、怒りも忘れた様子で首をよじりもだえ苦しんだ。その間にアラムは盾を引き抜き、素早く大羚羊の横へ回る。
「今のうちだ、早く外へッ!」
言われるまでもなく、ディンゴとユノーも後に続いた。未だ混乱のさなかにあるブレードホーンが闇雲に振り回す蹄に蹴り倒されないよう、3人は身を屈めて壁際を伝うように走った。
しかし――一同が大羚羊の横をすり抜けられるかと見えた、その時だった。
「危ないッ! 屈め!」
不意に先頭のアラムが叫び、立ち止まってクルリと体を反転させると、後からついてくる2人へ体を投げ出し、押し倒した。
と、耳をつんざくような風の唸り声を伴って、鋭い刃のような角が円弧を描いて飛んできた。角の先端は先ほどまでアラムたちが居たあたりの壁面をかすめ、鮮やかな直線の傷を深くつけていった。
「な、なんだ……なんであの体勢から、角が横に飛んでくんだ!?」
ディンゴは思わず叫び、ブレードホーンの方を見た。閃光による混乱と目くらましから、もう立ち直ったというのか? ……いや、大羚羊の両の目は閉ざされていた。まだ視力は回復しきっていない。それに何より、先ほどまでブレードホーンは前方のアラムたちに突きかかる姿勢だったのだ。この狭い通路の中でどうやって方向転換し、斬りかかってきたのか?
その答えは間もなく明らかになった――ブレードホーンは低く嘶くと、再び首を下ろして2本角を突き出し、膝をぐっと落とした。と、足元の魔力器官に風の魔力が集まっていく。跳躍の魔術を使ったときと同じ状態だ。
「クソッ……ダメだ、退くんだ!」
アラムが叫び、2人を追い立てるようにして立ち上がる。よろけながら駆け出した直後に、ブレードホーンは行動を起こした。
「Barrrrr!」
進軍ラッパのような一声と共に、ブレードホーンは風の魔力を解き放った。ただし、縦にではない。横にだ。体を軽く傾けると、前脚の一本を支柱にして爪立ちし、そのまま水平方向へ向かって風の魔術を噴き出させる。当然ブレードホーンの巨体は、爪立った前脚を軸にその場で回転を始める。
「危ない!」
アラムはディンゴとユノーの背を左腕で押し出すように突き飛ばすと、残った右腕を体に引き寄せて構えた。黒曜石色の盾と化した右腕を、ブレードホーンの角の先端が激しく擦る。たちまち、黒い砕片が洞窟の暗闇に散った。
(何のことァない、剣付きの独楽だ! 角の硬度はそれほどでもないんだろうが、何しろデカい魔物だし、何度も受けてたらこんな薄い盾じゃ……!)
アラムの脳裏に絶望的な考えがよぎる。一行は結局、洞窟の奥へ押し戻されてしまっていた。ブレードホーンが通路のど真ん中で「独楽」をやっている限り、脇をすり抜けて逃げるというわけには行かない。今は目の利かないブレードホーンも、じきに回復してこちらを追ってくるだろう。先ほどのような不意打ちの目くらましも、もはや通じるかどうか……。
と、そこまで考えた時であった。
「追いつめたぞ、こらァーッ!!」
不意に、洞窟を揺るがすような大声が向こうの方から響いてきた。アラムは一瞬目を見開き、すぐにうんざりしたような表情となる。ディンゴとユノーも、一瞬で理解した。誰の声なのか、誰がやって来たのかを。
「……ん? 何か妙なことをやってやがるな」
呑気な声で呟きながら、右手に魔導灯を持って洞窟内にずかずかと入り込んできたのは、外からブレードホーンを追ってきたリオンナード・キャラバであった。
「リオ……よくまあ、こういうタイミングで!」
半分呆れ、半分安堵がないまぜになった声でアラムが呟く。ディンゴはふと、その顔を見上げた。まだブレードホーンは健在だというのに、アラムの表情は既に半ば問題が解決したかのようだった。
「妙に信頼してんだな、あのオッサンのことを」
声をかけると、アラムは今気づいたかのように表情を引き締め、眼鏡を直した。
「そんな風に見えたかね? いや、不覚だな……そう、魔物をナメちゃいけない。援軍が来たからって、窮地に変わりはないんだ……。
でも、何だろうね。こういうどうしようもない状況って時ほど、不思議と信じられるんだよね、あの御大はさ」
アラムはそう言い、困惑したような笑みを浮かべた。ディンゴが眉をひそめ、それについて何やら意見を言おうとした時だった。
キャラバたちの側が動き出した。巨大な人影がもう一つ、キャラバの後ろから顔を出したのだ。巨猪人、ザインだ。
「アレだ。魔術を横方向に使ってやがる。頼めるか?」
「成程……ああいうふうに回転するというのは、私も聞いたことがありませんでした。飛び跳ねられないような狭いところを住処とするうちに編み出したものでしょうか。
いずれにしろ、問題はありません。ちょっと下がっていてください」
ザインは貫頭衣をはだけ、体を這う黒い刺青をあらわにした。複雑な文様の一部がほんのりと青い光を帯び、洞窟を照らす。
「揺蕩い舞う水霊、ゲム=マフルクカ、天駆けて歌い、踊り渡れ……」
ザインの詠唱に合わせ、契約印が脈打つように光る。と、その光がうっすらと白く濁りだした。ザインの姿までも白い靄がかかったようにぼやけていく――霧だ。ザインの体を中心に薄い霧が立ち昇り、地を這うようにしてブレードホーンの方へ向かっていた。
ブレードホーンは相変わらず目を閉じたまま、脚を闇雲に蹴りだして魔力を放射し、反動で角を振り乱す回転運動を続けている。その足元へ霧が、絡みつくように伸びてゆく。最初は蹴り足の起こす風に負けて押しのけられていたのが、時間と共に濃くなってゆき、ついにはブレードホーンを囲む白い柵を造り出す。
そこまで来ると、ブレードホーンが足を蹴りだすたびに火花が上がり始めた。霧に含まれる水の魔力と、脚から噴射される風の魔力が反発しあっているのだ。その様子を見計らったザインは、ここが好機とばかりに両腕に力を込め、魔力を絞り出した。辺りを包んだ霧が一斉にブレードホーンへと集まってゆく。
「……!!」
けたたましい炸裂音と共に魔力の反発力がブレードホーンを襲った。大羚羊は旋回の構えを崩され、魔力の噴射をやめてその場でたたらを踏んだ。首は上がり、剣呑な角は天井を指してふらふらと彷徨っている。
「よっしゃ、これでいい……後は、打ち合わせた通り頼むぜ!」
叫ぶや、キャラバはブレードホーンに向かって駆けだした。背を曲げた極端な前傾姿勢だ。まるでタックルでもかけようというかのような……いや、事実彼は、自分の数倍は体重があろうかという大羚羊にタックルをかけようというのだ。
「あの、バカ……正気なのか!?」
思わず真っ先に声を上げたのはアラムだ。信頼もどこへやら、あんぐりと口を開けて目をしばたいている。しかし、当のキャラバはいたって真面目のようだった。巨体に似合わぬ機敏な動きでブレードホーンまで駆け寄ると、激しく足踏みしている前脚の間を縫ってその首っ玉へしがみつく。
「捕まえたぞ、この野郎……ほれっ、大人しくしろッ!」
太い首に腕を回し、ぶらさがるようにして抱きついたその姿では、どちらがどちらを捕まえたのか分からぬ状態だ。ブレードホーンは激しく首を振って抵抗する。が、キャラバの膂力も負けていない。振り落とされまいとしがみつきながら、しきりに大羚羊の首筋を叩いている。
見ているうちに、案外その状態が悪い体勢でもないと分かってきた――首が上がった状態あれば、一番危険な武器である角が向けられることはない。踏み鳴らされる前脚の蹄も、胸元にまで蹴りだすわけには行かない。ブレードホーンにとって、首っ玉の間近は攻撃の真空地帯なのだ。
と、徐々にブレードホーンの抵抗が弱まってきた。相変わらず首を振り立て、足踏みをしているが、その勢いは怒りや攻撃のためというよりもむしろ困惑したような調子になっている。キャラバも既に、そこまで必死でしがみついている様子ではない。
事ここに至ってザインが動いた。太い脚を大股に動かし、ブレードホーンの真正面からのしのしと歩み寄る。ブレードホーンは首を立て、ぱちりと目を開けた。
「危ねえ! あいつ、もう見えるようになってやがるぞ!」
ディンゴが声を上げる。が、ザインは動じる様子もなく、両腕を広げてゆっくりとブレードホーンに近づいた。覆面の奥の目は、ブレードホーンの瞳をまともに見つめている。ブレードホーンは魅入られたようになり、キャラバをぶら下げたまま棒立ちの姿勢になった。
「グルル、ゲル、ゴアログル。グオール、グラルグル」
低く響く声が覆面越しに発せられた。ほとんど唸り声のような、それでいて音楽的な調子も帯びた、不思議な声だ。古代呪文だろうか……? ディンゴがそう考えた時、ザインはブレードホーンの元に辿りつき、大きな手のひらでその首筋を軽く叩いた。
「グルロール、オル、グララグル。グオール、グラルグル」
地鳴りのような声を耳元に注ぎつつ、ザインは両腕をゆっくりと合わせ、ブレードホーンの首を掻き抱いた。緩慢ながら有無を言わさぬ巨猪人の力を込めて、ザインはその首をぐっと下へ引きずり下ろす。驚いたことに、ブレードホーンはさしたる抵抗もせずにその動きに従った。大羚羊が、まるでひれ伏すかのようにその場に膝を折る。
「う……ウソだろ?」
ディンゴが思わず呟いた。ザインは腕を解き、ブレードホーンの首筋を撫でてやりながら、覆面の下で笑みを作った。
「どうなることかと思いましたが……何とか、上手く行きましたね。他のスキッパーならこれで落ち着かせられるんですが、ここまで大きな相手に通じるか、自信がなかったのですが」
「よく言うぜ、この野郎」
ブレードホーンの首から降り、キャラバはザインの横腹を肘で突いて豪快な笑みを浮かべた。
「勝算がなけりゃ、俺がここへ入ってくのを止めてたろ、最初からよ。謙遜しやがって」
「それは、まあ……恐縮です」




