第27話 騎士道入門
「おおッ! 任せろ!」
アラムの号令に従うようにして、ディンゴが前へ出た。身を屈めるようにして走り、体勢を崩したブレードホーンの首っ玉へ後ろから飛びつく構えだ。ブレードホーンは首をめぐらしてディンゴの姿を認め、その場でたたらを踏んだが、跳躍はできなかった。体勢を崩しているうえ、未だ魔導信号弾の魔力は滞留しており、風が使えないのだ。
「この野郎……! 捕らえたッ!」
ディンゴは振り向いたブレードホーンの首に飛びかかり、太い首に両腕でぶら下がった。そのまま首をよじ登り、角にぶら下がった蓄光機をもぎ取ろうとする。
しかし――ブレードホーンの瞳にちらと目をやり、ディンゴはぎくりと手を止めた。物言わぬ獣ではあるが、その目に籠もった表情は敵に追われる草食獣の怯えではない。もっと何か、狂暴かつ容赦のない光だ。
この獣は、逃げるつもりではなかった。
(やべェ……ッ!)
本能的にそう思い、ディンゴは捕まえた首を放して逃げようとした。が、一足遅かった。
太鼓の擦り打ちにも似た嘶きを喉からほとばしらせたかと思うや、ブレードホーンは恐ろしい勢いで首を振り下ろした。掴まっていたディンゴは、煽られて空中でほとんど逆立ちのような状態となる。と思ったのもつかの間、ブレードホーンは首を跳ね上げて棹立ちになった。
「うおあッ!」
抗いがたい力に、ディンゴの体はたわいもなく跳ね飛ばされ、バネ仕掛けの人形のように宙を舞った。肩の高さだけでディンゴの背丈ほどもある巨獣が、全身のバネを思うさま使って弾き上げたのだからたまらない。ディンゴはなすすべもなく、そのまま頭から草地に落下しそうになった。
「もうッ! 世話の焼ける……!」
ようやく追いついたユノーが、息を切らしながら両腕を突き出した。たちまち突き出された手のひらを起点に風の流れが巻き起こり、空気が凝集していく。ユノーは集まった空気の塊を、ディンゴの着地点を狙って押し出した。
頭から落ちていくディンゴの体は、ユノーが魔力によって固めた空気の塊にめり込んで減速し、ゼリーの上に落ちたかのようにふわりと着地した。
「うおッ! ……死んだかと思った!」
ひっくり返った姿勢から上体だけ起こして、ディンゴは叫んだ。外傷はないらしい。ユノーはため息をつきながらつかつかと歩み寄った。
「まったく、何が「任せろ」よ。情けない」
「あ、ああ……済まねえ。助かった、ありがとう」
流石のディンゴもこの状況では返す言葉がなく、口ごもりながらも礼を言って起き上がった――その直後、その目が不思議そうに細められる。
「あれ……お前、籠手は?」
ユノーの両腕には、籠手が嵌められていなかった。ブレードホーンが想定より早く草地に入ったので、結局装着する暇がなかったのだろう。しかし……ディンゴはふと違和感を覚えた。籠手を着けずに魔術を使った? 魔道具を持ってもいないのに、どうやって?
そしてその視線が、魔術を放ってめくれ上がったユノーの袖口に行った時――ディンゴは思わず声を上げた。
「お前……その紋章!」
ユノーの白い手首には、茨のように曲がりくねり絡まり合った奇妙な紋様が黒々と刺青されていた。見えているのは一部だけだが、明らかに契約印だ。
「それ、古代魔術の……」
「……!」
ユノーの目がすッと冷たくなる。と思った次の瞬間、ブーツが風を切って飛び、立ち上がりかけていたディンゴのむこう脛をしたたかに蹴りつけた。
「ぐおっ……!!」
声を失ってその場にうずくまるディンゴに対し、ユノーは厳しいひと睨みをくれてから、背を向けざまにぼそりと呟いた。
「助けなきゃ、よかった!」
「ちょっ……おい!」
捨て台詞を残し駆けていったユノーを追おうと、ディンゴはやっとのことで立ち上がりびっこを引きながら歩きだした。その肩を、後ろからアラムが支え起こしてやる。
「大丈夫かね? 災難だったな……しかしまァ、ありゃあキミも悪いよ。デリカシーがなさすぎた」
「どういうこったよ!? 俺、何かマズいこと言ったか?」
「話してもいいんだけど、今は……」
アラムは振り向き、坂道を見下ろした。キャラバとザインが雑草を蹴倒しながら駆け上がってくる。上に目を向けると、よろけながらも駆けてゆくブレードホーンの姿。ディンゴを振り落として、いよいよ森の中へ逃げようというのだろう。
「向こうを追っかける方が先決だろうね。ユノーも向かったようだし、ブレードホーンに追いつけば自然とあの娘も捕まるって寸法だ」
「あ、ああ……」
アラムに肩を叩かれ、まだ釈然としない顔をしていたディンゴもとりあえず走りだした。追いかけるのは、草原を飛ぶように走ってゆくブレードホーンだ。森が近いためか風の魔術での跳躍は見せていないものの、それでもかなりの速度になる。単純な追いかけっこでは、やはり追いつけそうにもない。
「チャンスがあるとしたら、森に入る瞬間だな。あの巨体でトップスピードのまま木々の間に入るのは難しいはずだ。どうしたって手前で減速しなきゃならない。そこへもう一度、信号弾を撃ち込む。
ユノー、籠手の準備はいいかね?」
「走りながら着けた! 香も用意してあるわよ!」
ユノーは振り向かずに答え、籠手を嵌めた手で何本かの金属筒を振って見せた。シリンダーを組み合わせて籠手にセットし着火することで、ユノーは様々な薬効を持った煙を焚くことができる。麻酔作用のある煙を吸わせ、ブレードホーンの動きを止めようというのだ。
後は、ブレードホーンに追いつけるかどうかだ――魔導信号弾を再装填しつつ前方に目を向けたアラムは、ふと眉を寄せた。一目散に森へ向かって逃げるかと思われたブレードホーンだが、その軌道は直線ではない。緩やかに右へ向かってカーブを描きながら走っている。
「何だろうな……怪我でもしたか?」
ディンゴも横でいぶかしげな声を上げる。アラムは少し考え、ややあって閃いたように行く手を指さした。
「あれだ……あそこに、ちょっとした丘があるだろう」
見ると、確かにアラムの指さす先には、草原が持ち上がって出来た丘のような場所があった。さほど高くはないが、それでも人の背丈ほどはある。斜面には草が生えておらず、ごつごつと岩の突き出た白っぽい土が見えていた。
「奴の脚なら、あれくらいの丘はひとっ跳びだ。一方こっちは、登るとしたら低い側から大回りしてかにゃならない。多分奴は、あそこで私たちを撒くつもりなんだ。
マズいね……ユノー、聞いてた? あの丘の上だ! やれるか?」
アラムは両手を口に当て、先行するユノーへ叫んだ。ユノーは既に香のシリンダーを選び、装填し終えていた。
「煙は上へ昇るものよ!向かう場所さえ分かれば、任せといて!」
勇ましく言い放つや、ユノーは両腕を揃えて前に突き出した。調合された香に火がつき、薬効を持った白い靄が籠手の排気口からふわりと漂いだす。ユノーの操る魔術で、放たれた靄はちりぢりになることなくそのまま綿の塊のように籠手の周囲にまとわりついた。
一方、ブレードホーンは既に丘の手前まで走りつこうとしていた。巨大な体を軽やかに躍らせると、丘までまだかなり距離のあるうちに地面を踏みきり、跳躍した。
「遠すぎる! 壁にぶち当たるぞ!」
ディンゴは思わず叫んだ。が、アラムは静かに首を振った。
「忘れたかね。奴のジャンプは、あれで終わりじゃない」
そう――丘の斜面に頭から突っ込むかと思われたその刹那、ブレードホーンは後脚で空気を蹴り、もう一段階上昇した。先ほども見せた、風を蹴る跳躍だ。巨大な体がまるで紙人形のように舞い、丘の頂上に難なく着地した。
だが、その時にはユノーも、丘のふもとまで辿りついていた。息を切らしながらも体勢を整え、腰をぐっと沈めて靄に包まれた両腕を振り上げる。
「見下されるのは好きじゃないの。ちょっと眠っててもらうわよ!」
ユノーはカタパルトのように突き出した両腕から風の魔力をほとばしらせ、その勢いで白い靄を撃ち放った。速度はそれほどでもないが、量がケタ外れだ。丘をすっぽり包み込むほどの麻酔煙が、掴みかかる巨大な白い手のように広がっていく。ブレードホーンがどちらへ逃げようと思っても、四方を囲む靄の幾ばくかを吸わずには出られない包囲陣だ。ブレードホーン自身もそのことを悟っているのか、跳ぼうとも逃げようともせずにただユノーの姿をじっと見下ろしていた。
「やれやれ、ようやく観念してくれたかね。大人しくしてればこっちだって、ただ角に引っかかったゴミを取ってやろうってだけなんだから」
アラムが安どの声を上げる。だが、ディンゴの顔は晴れなかった。その目は、丘の上に仁王立ちし追手を見据えるブレードホーンにのみ注がれていた。見覚えのあるもの、背筋に冷たいものを走らせる表情が、巨獣の瞳には確かに見て取れた。
「あの眼だ……逃げようと思ってる眼じゃねえ。追い詰められた獣の眼なんかじゃねえ。
ヤバいぞ! 何か分からねえが、とにかくヤバい! 奴は何かやる気だ!」
「何だね、藪から棒に……何か、ったって、そんな漠然としたこと言われたってどうしようもないでしょうが」
戸惑うアラムを押しのけるようにして、ディンゴは前に飛び出した。
「ユノーッ! 一旦戻れッ! 危ねえぞ!」
「……えっ?」
ユノーが思わず振り向きかけた、その時だった。
ブレードホーンはおもむろに太い首を下ろした。刀剣のような2本の角が、鋭い音を立てて風を切り地面に深く突き刺さる。と、そのまま大羚羊は首を跳ね上げ、テコの要領で地面をえぐり飛ばしたのだ。
土の塊が、丘の上から転げ落ちる――いや、土と雑草に覆われてはいるものの、よく見ればそれは角ばった大岩だった。当然ながら、岩の転がっていく先には籠手を構えたままのユノーがいる。
「……っ!」
ずしん、と、重たい音がした。土埃と麻酔の煙で辺りは白く閉ざされ、ユノーの姿も見えない。
「ユノーッ! 大丈夫か!?」
ようやく追いついたアラムが、右手で口元をかばいつつ煙の中に入ってゆく。と、収まりはじめた土埃の中に、倒れた人影が浮かび上がった。急いで駆け寄ると、アラムは我知らず笑みを漏らした。
「ユノー……無事だったか。それに、少年も」
人影は1人ではなかった。ユノーの体を抱きかかえるようにして、ディンゴが上から覆いかぶさり倒れている。岩が落ちてくるより一瞬早く、ディンゴがユノーの体を押し倒して飛んだのだ。
「危なかったなァ、ユノー。この騎士サマがいなかったら、頭をコナゴナにされてるとこだ。キチンと礼を言っときなよ」
「そッ……それより、いい加減にどきなさいよッ! 重いんだから!」
照れ隠しなのか、ユノーは声を荒らげてディンゴの体をぽかぽかと叩いた。が、ディンゴは立ち上がろうとしない。流石に心配になったアラムが、傍に屈み込んで尋ねる。
「怪我でもしたかね、少年?」
「いやァ……そうじゃねえんだけど……」
ディンゴは妙に間延びした声で応えた。
「煙を突っ切った時、幾らか麻酔を吸い込んじまったみたいだ。ちょっと頭が……フラついて……」
「何だね、カッコ悪い」
アラムは苦笑し、力の抜けたディンゴの体を引き起こして丘の斜面に横たえた。
「とりあえず、そこで休んでいたまえ。後でユノーが解毒剤を調合してくれる。ブレードホーンの方は私たちに任せて……」
「そうだ、ブレードホーン!」
ユノーがぴしゃりと手を打ち合わせる。
「忘れてた! あいつ、どこ行ったの? 煙があたりに漂ってるから、そう簡単に逃げられるはずはないと思うけど……」
と、その声に応えるかのように、丘の上で高らかな嘶きが轟いた。ブレードホーンだ。逃げるどころか、またも地面に角を深く深く突き立て、丘を掘り返そうとしている。アラムは慌てて右手の手袋を外した。
「また岩が来る! あいつめ、どうあっても私らとやりあいたいらしい。ユノー、ディンゴを連れて私の陰へ!」




