第8話 地図の外にあるもの
「今日は、こちらへ入るのを控えていただけますか」
エレノアが尋ねると、男たちはもう一度、地図を覗き込んだ。
「ここだけ避ければいいってことですか」
「ほかの場所も、今日すべて確認したわけではありません。これから入るのでしたら、採取は見合わせることをお勧めします」
手前の道を指しかけていた男の指が止まった。
隣の男が空を見上げる。
「どうする。今から別の場所へ行ってもな」
「……帰るか」
二人は相談を終えると、肩の籠を掛け直した。
「受付でも聞いてみます。明日は入れるかどうか」
「お願いします。詳しい案内は、そちらで確認してください」
男たちが街道へ戻っていく。
その背中を見送り、エレノアは地図を畳んだ。説明を始める前より、風が冷たくなっている。
弓の女が森側へ顔を向けた。
「戻ってくる人もいますね」
枝の向こうから現れたのは、籠を背負った年配の男だった。三人の姿を見ると、自分から声をかけてきた。
「さっきの光、何が出たんだ?」
同じ説明を、もう一度する。
男は顔をしかめたが、森へ戻ろうとはしなかった。どこで採っていたかを聞くと、地図の南側を指した。
「今日は、この辺りだ。奥には行ってない」
「ほかの採取者を見かけましたか」
「何人かはな。顔まで覚えちゃいないが」
茶色の上着と細長い籠についても尋ねたが、心当たりはないという。
エレノアは礼を言い、記録へ書き加えた。
そのあとも、帰ってくる人に何度か声をかけた。
光を見た者も、知らなかった者もいた。一人は別の道へ抜けるつもりだったが、採れた草が少なく、歩く気が失せてこちらへ戻ってきたのだと言った。
地図に記した道の外にも、人は歩いている。
エレノアは聞き取った経路を細い線で足し、時折、顔を上げて木々の向こうを確かめた。
*
木の影が道へ長く伸び始める前に、エレノアは記録帳を閉じた。
「引き上げましょう」
剣の男が頷き、弓の女も街道側から戻ってきた。
交代の姿はない。ガレスも、まだ王都へ着いていないかもしれなかった。
エレノアは鞄を肩へ掛け、森へ続く道を振り返った。
つい先ほどまで人が歩いていた場所なのに、誰もいなくなると、急に頼りなく見える。
「途中で向かってくる人がいたら、声をかけます」
「ええ」
剣の男が答えた。
三人で街道へ向かう。今度は彼が前を歩き、エレノアと弓の女が続いた。
歩き始めてしばらくすると、腰のあたりが重く感じられた。鞄の中身が増えたわけではない。立ち止まっている間に、脚が冷えたらしい。
朝はまだ、倒木と標識を確かめれば、事故の経緯をもう少し絞れると思っていた。
その調査自体は進んだ。だが、持ち帰る地図には別の印が増えている。
エレノアは鞄を掛け直した。
「肩、替えたほうがいいですよ」
弓の女が言った。
「ずっと、そっちでしょう」
「ああ……そうですね」
言われて初めて気づき、反対側へ移した。肩が軽くなる代わりに、今度は鞄が短剣の鞘へ当たった。
少し位置を直していると、女が笑った。
「荷物って、帰りだけ増えません?」
「記録は増えました」
「それ、重くなりますか」
「気分としては」
「なるほど」
女は納得したように頷いた。
街道の先では、まだ王都は見えなかった。
*
ギルドへ戻ったときには、通りの店先に灯りが並んでいた。
玄関をくぐると、受付の職員が顔を上げた。
「お戻りですね。ガレスさんから聞いています。皆さん、お怪我は?」
「護衛の方に浅い擦り傷が。ほかはありません」
剣の男が袖を示し、職員が頷く。
「帰還の報告をお願いします。調査の方は、上でお待ちです」
護衛二人に礼を言って別れ、エレノアは階段を上がった。
執務室へ入ると、ガレスが机から顔を上げた。
「戻ったか」
「はい。予定どおり引き上げました」
「途中は?」
「何も。警告した方と、聞き取りの記録があります」
鞄を置き、記録帳を取り出す。
隣の机からリオネルが椅子を寄せた。
「茶色の上着の採取者は?」
「会えていないわ。ほかの方にも聞いたけど、確かめられなかった」
「分かった。こちらでも、その特徴だけで誰かは絞れていない」
彼は紙を引き寄せた。
エレノアは腰を下ろし、採取者から聞いた場所を地図へ写した。光を見た位置、見なかった人がいた場所、通ってきた道。
リオネルは黙って見ていたが、途中で一箇所を指した。
「この線は?」
「道ではないわ。ここから林縁へ抜けた、と聞いた経路」
「なら、線を変えてくれ。既存の道と混ざる」
「ああ、そうね」
描き直すと、彼は小さく頷いた。
ガレスが机の端へ手をついた。
「部門長には先に報告した。明朝は案内の範囲を広げて、受付から伝える。現地での警告と周辺の確認は、冒険者運用側が人を手配してる」
「ほかの採取道も?」
「ああ。今日、俺たちが使わなかった道も含めてだ」
エレノアは頷いた。
自分たちが立っていた場所だけでは、足りない。けれど、今はその先へ仕事が渡っている。
「奥の調査は、明日改めて話すそうだ。副ギルド長も入る」
「追加の人員についてですか」
「それも含めてな。今の範囲をどう広げるか、まず合わせたいと」
エレノアは地図の北側へ目を落とした。
そこまで線を引き足すには、今日の装備と人数では足りなかった。
リオネルが採取袋を見た。
「葉と毛は、こっちか」
「ええ。採った場所は袋ごとに書いてある。本人への確認は、まだよ」
「明日の段取りに入れる」
彼が袋を受け取ったところで、ガレスが口を挟んだ。
「詳しい清書は明日でいい。今日はもう帰れ」
「この経路だけ、写し終えてからにします」
ガレスは彼女の手元を見た。
「本当に、それだけだぞ」
「はい」
エレノアは地図を押さえ、最後の線を引いた。
*
翌朝、上着へ袖を通したところで、右肩が少し痛んだ。
昨日、短剣を振った側だった。
腕を上げ、下ろしてみる。動かないほどではない。ただ、髪をまとめる間は、いつもより少し時間がかかった。
剣を振るう兄なら、こんなことにはならないのだろう。
そう考えてから、子どもの頃、父との稽古の翌日に腕が上がらなくなっていた兄を思い出した。
あのときは、ずいぶん笑った。
今日は笑えない。
エレノアは編み込みを留め、細いリボンを結んだ。
昨夜洗った現場用の上着は、まだ乾いていない。袖口の染みも完全には落ちなかったが、ひとまず帰宅した自分を責めるほどの汚れではなくなっていた。
朝食を済ませ、ギルドへ向かう。
受付では、すでに森の案内を確認する冒険者がいた。
ルルが地図を広げ、相手の指す場所へ頷いている。
エレノアに気づくと、目だけで挨拶をしてから、説明へ戻った。
「そちらの道も、今日は利用を控える案内が出ています。依頼の期限については、こちらで内容を確認しますね」
声は普段どおりだった。
エレノアも軽く頷き、階段へ向かった。
*
部門長の部屋には、ガレスとリオネルが先に来ていた。
机を挟んだ向こう側には、ゼインが立っている。手にした紙から顔を上げ、エレノアへ視線を向けた。
「おはようございます。昨日は遅くまで、お疲れさまでした」
「おはようございます」
「お怪我はなかったと聞いていますが」
「はい。問題ありません」
椅子を勧められ、エレノアはガレスの隣へ座った。
ゼインも腰を下ろし、手元の紙を机へ置く。
「概要はガレスさんと部門長から伺いました。今日は、次に何を確かめる必要があるかを整理したいと思っています」
部門長が地図を広げた。
「まず、昨日の遭遇地点はこちらだね」
「はい」
エレノアは古い調査印のある木を示し、周辺の地形を説明した。
ゼインは話を遮らずに聞いていた。説明が済むと、地図の境界線へ指を置く。
「負傷した方の襲撃地点は、まだこの外側が候補なのですね」
「ええ。本人の話と景色は合っていますが、持ち帰った葉や地図で再確認します」
「では、その確認と、昨日の出現への対応は並行して進められますか」
リオネルが頷いた。
「聞き取りはこちらで進められます。現地へ同じ人数を戻す必要はありません」
「ありがとうございます」
ゼインは紙へ短く書き込み、今度はガレスを見た。
「灰牙狼が普段いるのは、どの辺りですか」
ガレスの指が、地図の奥へ動いた。
「もっと北です。この辺りから先になります。今回の候補地点とも離れている」
エレノアはその指先を追った。
昨日、沢沿いに拾った足跡は、この範囲までつながっていない。途中で落ち葉に紛れ、そこで追跡を終えている。
「昨日の場所へ戻って、周辺だけ調べれば済みそうでしょうか」
ゼインが尋ねた。
ガレスは少し考えてから首を振った。
「そこにほかの個体がいないかは調べたいです。ただ、それだけじゃ、なぜ来たのかまでは分からんでしょうな」
「移動した範囲を調べる必要がありますか」
「ええ。普段の生息域のほうも、最近どうなっているか知りたい」
部門長が古い記録を一枚、地図のそばへ置いた。
エレノアは日付を確かめた。
記録には灰牙狼の目撃地点がいくつか残っていた。だが、それはその日に見つけた場所であって、今日も同じところにいるという証明ではない。
「最近、奥で仕事をした方への聞き取りも必要だと思います」
彼女が言うと、ゼインが顔を向けた。
「現地へ入る前に、得られる情報を集めるわけですね」
「はい。姿を見たかだけでなく、どの経路を歩いて、何も見なかったのかも。過去の記録だけで進路を決めると、空振りになるかもしれません」
ゼインは地図を見てから、部門長へ視線を移した。
「冒険者運用側へ、直近の活動報告を確認してもらえますか。現地の警戒に出る人員と、奥を調べる人員は、分けて相談したいです」
「分かった。必要な条件をこちらでまとめよう」
「お願いします。調査を広げた結果、採取道の警戒が手薄になるのは避けたいので」
ゼインは再びガレスへ向き直った。
「日帰りで調べられる範囲は、どこまででしょう」
ガレスが地図の上へ手を置いた。
「街道の移動に馬を使えば、森で使える時間は増やせます。ただ、奥へ入って痕跡を探すなら、戻る時間まで見ないといけません」
「では、移動手段も含めて組み直しましょう。必要なら、日程を分けることも考えてください」
エレノアは手元の紙へ書き込んだ。
昨日と同じ場所へ、人数だけ増やして戻るのではない。
入る前に聞くことがある。調べる範囲を選び、その範囲に合う人と装備を揃える必要がある。
「一つ、確認してもよろしいですか」
ゼインの声に、顔を上げた。
「昨日の狼は、対処に当たった方々から見て、普段と違うところがありましたか」
ガレスがエレノアを見る。
彼女は短剣に伝わった感触を思い出した。
速かった。だが、速いというだけで異常とは言えない。比較できるほど、彼女は灰牙狼と戦っていなかった。
「私からは、判断できません」
そう答えると、ゼインは頷いた。
「分かりました。護衛の方々の報告も確認します。現時点では、出現した場所が普段と違う、ということですね」
「はい」
彼はそれ以上の答えを求めなかった。
エレノアは、自分の紙へ目を落とした。
分かっていないことを尋ねられると、せめて役に立つ何かを返したくなる。だが、昨日感じた恐怖や手応えを、そのまま異変の証拠として差し出すわけにはいかなかった。
部門長が資料を揃えた。
「では、聞き取りと既存記録の確認を先に進めよう。現地調査の案は、その結果を合わせてもう一度相談する」
ガレスが頷き、リオネルは確認する記録を手元へ引き寄せた。
エレノアも地図を畳もうとして、指を止めた。
昨日まで何度も見ていたのは、採取区域を囲む線だった。
その線の外側に、灰牙狼の普段の生息域がある。さらに奥には、今回の紙に収まっていない森が続いている。
狼にとって、あの標識は境界ではない。
エレノアは地図を畳まず、机の上で少し北へずらした。
次に見る必要がある場所は、昨日までとは違っていた。
お読みいただきありがとうございます。
次話「確かめる場所」――受付に立つゼインと、負傷した青年の再確認。襲撃地点は、ほぼ絞れることに。
面白かったらブックマークで応援してもらえると励みになります。




