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氷の女神は魔法が使えない ―忘れられた神の物語―  作者: mom
静まり返る森

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第9話 確かめる場所

部門長の部屋を出たとき、午前はもう半ばを過ぎていた。


決まったのは、聞き取りと記録の確認を先に進めること。現地調査の組み直しは、その結果を合わせてから。ガレスは冒険者運用側との調整へ向かい、エレノアは手元の紙に書き込んだ項目を見直しながら、階段を下りた。


右肩が、少し痛んだ。


昨日、短剣を振った側だった。今朝ほどではないが、鞄の紐が当たると鈍く響く。執務室に戻る前に、まず受付へ寄らなければならなかった。案内の範囲を広げた新しい地図の写しを、ルルに届けるためだ。


「アシュベリーさん」


後ろから声がかかった。ゼインだった。手には、会議で使った紙の束がある。


「受付へ行かれるのでしたら、私も同行します」


「受付へ、ですか?」


「ええ。昼食までの間は、私も受付に入ります。案内が変わった初日ですから、利用者の反応を直接聞いておきたい」


報告書の数字だけでは分からないことがある、と彼は言った。


人員をどう動かすか決める前に、困っているのが誰で、何に困っているのかを知りたいのだという。


「副ギルド長が受付に立つのは、珍しくないのですか」


「共通業務ですから。帝国支部でも、忙しい日は立ちましたよ」


あっさりした答えだった。


受付では、ルルがちょうど一人の冒険者への説明を終えたところだった。地図の写しを受け取り、今日の案内と照らし合わせて頷く。


「助かるわ。これで聞かれても大丈夫――あら、副ギルド長」


「昼食までの間、こちらでお手伝いします。部門長には伝えてあります。よろしくお願いします」


「まあ」


ルルは少し目を丸くしてから、すぐに笑顔に戻った。


「では、容赦なく使わせていただきますね」


「手加減していただけると助かります」


「考えておきます」


エレノアは、思わず二人を見比べた。着任から数日で、もうこういうやり取りができるらしい。


そのとき、玄関の向こうから籠を背負った男が近づいてきた。昨日、森の採取道で声をかけた一人ではない。五十代ほどの、日に焼けた顔の採取者だった。


「すまん、ちょっといいか。東の森の案内だが」


「はい。どうされましたか」


応じたのはゼインだった。男は一瞬、銀髪の職員が副ギルド長だとは気づかない様子で、身を乗り出した。


「今日も入るなって言われたんだが、明日はどうなる。依頼の期限が迫っていてね」


「今日の案内は、範囲を広げて利用を控えていただく形になっています。明日については、まだ決まっていません」


「決まってないじゃ困るんだよ。採れなきゃ、こっちは別の仕事を探さないと」


声に苛立ちが混じった。ルルが何か言おうとする前に、ゼインは地図を広げ、男の指す場所を確認した。


「おっしゃることは分かります。ただ、安全が確かめられていない場所へ、行ってよいとは言えません」


「そりゃそうだが」


「期限については、依頼管理の担当と確認します。今日中に、受付でお答えできるようにします。それでよろしいですか」


男はしばらく地図を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……分かった。夕方、もう一度来る」


「お願いします。お名前と、依頼の内容を伺っても?」


ルルが滑らかに引き継ぎ、記録を取り始める。男が去ると、ゼインは広げた地図を元に戻した。


「約束できないことは、約束しないんですね」


エレノアが言うと、彼は少し笑った。


「できない約束ほど、後で高くつきますから」


その言葉は、昨日、森で自分が採取者に言ったことと重なっていた。約束はできない。ただ、事情は報告する。立場が違っても、現場でするべきことは同じらしい。


次の来訪者のために椅子を戻そうとして、エレノアは右肩に手を当てた。地図の束を持ち直したとき、痛みが走ったのだ。


「肩を痛めていますか」


「大したことはありません。昨日、少し」


「少し、ですか」


ゼインはそれ以上追及せず、彼女の手から地図の束の半分を取り上げた。


「では、これは私が持ちます。少し、のうちに」


「すみません」


「謝ることではありません。治るまで無理をしないのも、仕事のうちです」


ルルが記録から顔を上げ、意味ありげに微笑んだ。


「エレノア、よかったわね」


「何が」


「いえ、別に」


エレノアは首を傾げたが、ルルは次の書類へ目を戻してしまった。


*


昼食は、受付の交代に合わせて短く済ませた。


食堂の隅の席で、エレノアはスープとパンのあと、林檎の焼き菓子に手を伸ばした。今日は二つある。一つはルルが「午後の聞き取り前に、頭を使うでしょう」と言って譲ったものだ。


「人の分まで食べるのか」


向かいの席で、リオネルが言った。


「もらったのよ」


答えながら、エレノアはスプーンを右手から左手へ持ち替えた。リオネルはそれを見ていた。


「肩、まだ痛むのか」


「痛いのは右で、食べるのは両手が代わる代わるでしょう」


リオネルは呆れたようにスープへ目を戻した。


ゼインがお茶を持って席に着くと、エレノアは焼き菓子の包みを少しだけ自分の側へ寄せた。別に取られると思ったわけではない。ただ、午後の楽しみは守っておきたかった。


「午後の診療所ですが」


ゼインは笑いを堪えたような顔で、本題に入った。


「青年の処分について、今日は決めないと先に伝えます。事実と処分を分けて話したいので、進め方はお二人に任せます」


「分かりました」


エレノアは頷き、残りの焼き菓子を一口で終えた。


*


診療所へ向かったのは、昼食を終えたあとだった。


同行するのは、リオネルとゼイン。試料の袋と記録はリオネルが持ち、エレノアは現地で描いた見取り図を鞄に入れた。


診療所の部屋には、薬と煮沸した布の匂いが漂っていた。


負傷した青年は、寝台に背を預けて座っていた。脚には包帯が巻かれ、脇には松葉杖が立てかけられている。前回よりも顔色はよかった。


エレノアは挨拶をしてから、後ろの二人を紹介した。


「記録はリオネルが取ります。それと、こちらはヴァレンティス副ギルド長です。今日の確認には、同席してもらいます」


青年は目に見えて身を固くした。


「副ギルド長が来るなんて……。やっぱり、処分が決まったんですか」


「違います」


ゼインは椅子を引く前に、はっきりと答えた。


「今日は、処分を伝えに来たのではありません。あの日、何が起きたのかを確かめるために来ました。処分については、事実の確認が済んでから、改めて判断します。今日、この場では決めません」


青年は毛布の端を握っていた手を、ゆっくりと緩めた。


エレノアは寝台のそばへ椅子を寄せ、見取り図を広げた。前回、青年は地図を読むのが得意ではなかった。だから今回は、倒木と標識、斜面と沢を描いた図を持ってきた。


「覚えている景色と、比べてみてください。違っていたら、違うと言って大丈夫です」


青年は図を覗き込み、まず倒木を指さした。


「これです。根の下を通って……。その先に、杭がありました」


「標識ですね」


「はい。その先の斜面で、草を見て。下りたら、葉の形が違って」


リオネルが最初の袋を取り出した。中には、先日の調査で採った葉が入っている。


「これが、その斜面で採った葉です」


青年は袋を受け取り、しばらく見つめた。


「……これです。端が、こうなってるやつ。遠くからだと色が似て見えて、青葉草だと思ったんです」


「近くで見て、違うと分かった」


「はい」


エレノアは、その言葉をそのまま書き留めた。


毛の入った袋については、青年に確かめてもらうことはしなかった。あの毛が何のものかは、彼にも分からない。


もう一つ、逃げる途中で身を寄せたという木の根元についても尋ねた。毛が見つかった根と同じかどうかは、分からない。形と、その前後に歩いた道筋を聞き、図に書き加える。


「襲われた場所は、この斜面で合っていますか」


青年は図の上で指を止めた。


「はい。上のほうに狼がいて。逃げるときに、沢のほうへ下りました」


「最初に聞いた斜面とは違いますね」


「すみません。地図だと、よく分からなくて」


「謝るより、今日確かめられたことのほうが大事です」


リオネルが記録を閉じた。


エレノアの胸に、静かに安堵が広がった。


襲撃地点は、自分の安全調査が担った区域の外で、ほぼ絞れたことになる。


けれど、その安堵を、今日は前ほど恥じなくてもいい気がした。


青年の怯えた顔を見て、ゼインは処分の話と事実の話を分けた。自分にできるのも、同じことだった。安心したことと、確かめるべきことは、別々に扱えばいい。


「今日は、ありがとうございました」


エレノアが言うと、青年は小さく頭を下げた。


「あの……。僕は、もう冒険者はできないんでしょうか」


誰も、すぐには答えなかった。


「それも、今日決めることではありません」


ゼインが言った。


「まずは脚を治してください。その先のことは、判断が出たときに、きちんとお伝えします」


青年は唇を結んで頷いた。


*


ギルドへ戻ると、受付の灯りは夕方の色に変わっていた。


執務室で、エレノアは地図を広げ、今日確かめた襲撃地点へ印を書き直した。倒木、標識、似た草、沢への経路。本人の話と現地の記録が、ようやく一つの場所で重なった。


「襲撃地点は、これでほぼ絞れましたね」


「ええ」


ゼインは地図を見下ろした。彼の指は、印の場所で止まらず、少しだけ北へ動いた。


「けれど、灰牙狼が普段いる場所は、もっと北でしたね」


「はい。ここから先は、まだ何も分かっていません」


「では次は、そこです」


ゼインは紙を一枚取り、明日の項目を書き始めた。


「奥で活動していた方々への聞き取りを進めましょう。どの道を通り、何を見たか。――何も見なかったのなら、それも聞きたい」


エレノアは頷き、地図を北へずらした。


確かめた場所が一つ増えた分、まだ確かめていない場所が、はっきりと見えるようになっていた。

お読みいただきありがとうございます。

次話「何も見なかった」――奥で活動していた冒険者たちへの聞き取り。集まってきたのは、「何もなかった」という証言ばかりで……。

※10月30日19時次話アップ予定です

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