第10話 何も見なかった
翌日の午前、調査部門の執務室には、大きな地図が広げられていた。
襲撃地点の印は、昨日のうちに書き直してある。今日確かめるのは、その北側だ。
窓際の席では、リオネルが既存の記録と証言の写しを並べていた。今日の聞き取りで新しい証言が出れば、その場で古い記録と照らせるようにするためだ。ガレスは冒険者運用側との調整に出ていて、昼には戻るという。
「聞き取りは、午前と午後に分けます」
ゼインが、対象者の名簿を机に置いた。冒険者運用側から上がってきた、最近奥で活動した者たちの記録だ。採取、護衛、運搬補助。仕事はばらばらだが、活動した範囲は重なっている。
「聞くことは、全員に同じにしましょう。どの道を通ったか。どこで休んだか。どんな音がしたか。何を見たか」
「答えが曖昧な場合は?」
「曖昧なまま記録してください。――答えが『何も』でも、そのままです」
「分かりました」
リオネルが、記録の束から顔も上げずに言った。
「『何もなかった』を集める仕事は、初めてだな」
「だからこそ、集めるんです」
ゼインは穏やかに答えた。
「何かあった話は、放っておいても集まります。なかった話は、聞かれなければ誰も口にしません」
エレノアは記録帳を開いた。
余白の「確かめるべきこと」は、この数日でだいぶ減った。倒木の位置。標識の番号。救助地点からの見え方。昨日、襲撃地点が絞れたことで、残りは一つになった。
北側で、何が起きているか。
見たことを聞くのは、いつもの仕事だ。けれど、見なかったことを聞くのは、少し勝手が違う。見なかった、と答えるのは、見た、と答えるより勇気がいる。相手が思い出す前に、こちらが答えを用意してしまわないようにしなければならなかった。
「では、最初の方をお願いします」
ゼインの声に、扉が開いた。
*
最初に来たのは、長く東の森に通っている採取者の男性だった。奥の沢の近くまで入ることもあるという。
「狼は見ていない。足跡もだ」
男性は首を振った。
「襲撃の話は聞いていたから、気にはしていたんだがな」
「ほかで、普段と違うと感じたことはありますか」
エレノアが尋ねると、男性は少し考えてから言った。
「……鳥だよ」
「鳥、ですか」
「行きは気づかなかった。帰りにふと思ったんだ。今日は鳥の声を聞いていないな、と。あの辺りは普段、沢の音に混ざって、けっこううるさいくらいなんだが」
「それは、いつのことですか」
「襲撃のあった日より、少し前だな」
「どの辺りですか」
エレノアが地図を示すと、男性は襲撃地点より北の、沢沿いの場所を指した。
「この辺り。半日ほどいたが、結局一度も聞かなかった」
「風の音や、水の音は?」
「それはいつもどおりだ。だから余計に、気になったのかもしれん」
男性は肩をすくめた。
「――こんなことで、役に立つのかい。何も見ていないんだぞ」
「もちろんです」
ゼインが答えた。
「見なかったことも、立派な記録です。ありがとうございました」
男性は少し照れたように頭を掻き、部屋を出ていった。
二人目は、護衛の依頼で奥へ入った若い女性だった。剣を帯びた、まだ二十歳ほどに見える冒険者だ。
「魔物には会いませんでした。依頼人も無事で、それはよかったんですが」
「ですが?」
「小動物の気配がなかったんです」
女性は眉を寄せた。
「普段なら、茂みを何かが走る音くらいはするんです。鳥も、鼠のようなものも。あの日は、私の担当した側じゃ、一度も」
「担当した側、というのは?」
「北側の見回りです。南側は相方が見ていたんですが、帰ってから聞いたら、そっちは鳥の声もあったそうです。だから私も、気のせいかと思って」
「気のせいかどうかは、記録が決めます」
エレノアはペンを止めずに、その一文も書き留めた。南では聞こえて、北では聞こえなかった。それも、記録だ。
「その日、依頼のほうは順調だったんですか」
「ええ。静かで、むしろ楽なくらいでした」
女性は言ってから、少しだけ首を傾げた。
「……楽すぎたのかもしれません」
三人目は、運搬の手伝いで奥へ入った中年の男性だった。彼は少し違った言い方をした。
「何も、というのも変な話なんだが。風の音しか、聞こえなかった」
「生き物の気配は?」
「なかったな。半日いて、そういう日は初めてだった。自分の足音がやけに大きく聞こえたよ」
三人の話は、それぞれ別の日に、別の仕事で入った森の話だ。けれど、重なる部分があった。
何も見なかった。何も聞かなかった。
それが三つ、並んだ。
*
昼の鐘が鳴り、聞き取りは一時中断になった。
戻ってきたガレスは、記録の写しを一瞥して眉を上げた。
「何もなし、が三件か」
「ええ」
「森で何もないのは、いいことのはずなんだがな」
それ以上は言わず、ガレスは運用側との調整の結果をゼインへ報告にいった。
エレノアはルルと、近くのパン屋へ出た。店先の長椅子に腰を下ろし、午前の分を思い返しながら包みを開くと、中には肉入りのパンが二つと、丸いチーズパン、それから林檎の焼き菓子が入っている。
「聞き取り、進んでる?」
「進んではいるわ。ただ、集まってくるのが『何もなかった』話ばかりで」
「何もないなら、いいことじゃないの?」
「普通はね」
エレノアはチーズパンを半分に割り、ルルへ渡した。
「今日の三人、全員そうなの。鳥の声がなかった、小動物の気配がなかった、風の音しかなかった。何もない場所が、地図の上で並び始めてる」
「……何もないって、案外こわいものね」
ルルは受け取ったパンを一口かじり、少し考えてから言った。
「だって、何かがいるから静かなのか、本当に何もいないから静かなのか、分からないもの」
「ええ」
エレノアは頷いた。
「受付でも、最近は森のことを聞かれることが増えたわ。奥のほうは大丈夫なのかって」
「案内は、まだ制限の範囲のままね」
「ええ。でも、聞かれるたびに思うの。何も分かっていないのに、大丈夫とも危ないとも言えないのって、もどかしいわね」
午後の聞き取りでも、同じ問いの繰り返しになるだろう。それでも、聞くしかない。何もなかったのなら、何もなかったと確かめるしかない。
「午後も頑張って。――はい、これ」
ルルが、自分の包みから焼き菓子を一つ取り出して寄せた。
「私の分、食べきれなかったら持って帰ろうと思ってたけど。あなたなら、今のうちに消えるでしょう」
「……ありがとう」
ありがたく受け取り、エレノアは午後の前に片づけることにした。
*
午後の聞き取りでも、新しい「何か」は出てこなかった。
最後に来たのは、南側を中心に活動している採取者で、彼の話だけが違っていた。鳥の声はいつもどおり、茂みを走る小動物も見たという。念のためと地図に印をつけると、それは襲撃地点より南の、普段と変わらない森だった。
夕方、エレノアは集まった記録を地図へ落としていった。
一人目の採取者が指した場所。二人目の女性が見回った北側。三人目の証言の範囲。色を変えて印をつけていくと、襲撃地点の北側に、静かな場所だけが寄り集まった。
南側の証言には、鳥の声も、小動物の足跡も、普段どおりにあった。
北側には、なかった。
「……線が引けますね」
エレノアは、印の集まりの縁を、指でなぞった。
「引けます。ただし」
ゼインが言った。
「これは『何かがいる』線ではありません。『何もなかったという証言が重なった』線です。そこを間違えないようにしましょう」
「はい」
「原因は、まだ何も分かっていない。狼が移ったのか、ほかの生き物が離れたのか、それとも、たまたま静かな日が重なっただけか」
「アシュベリーさんの意見は?」
不意に向けられて、エレノアは地図から顔を上げた。
「……静かな日が重なっただけなら、場所まで揃うのは不自然だと思います。何かが、北側で変わっている。ただ、それが何かは、証言だけでは決められません」
「私も同じ考えです」
ゼインは地図から手を離し、しばらく北側の空白を見つめていた。
「書類と証言で分かるのは、ここまでですね」
その言葉に、エレノアは頷いた。
次に確かめるべき場所は、もう決まっていた。問題は、誰が行くかだった。
「次の現地調査の体制を決めます」
ゼインは紙を取り、項目を書き始めた。
「現地の照合は調査部門。ガレスさんには前回と同じく同行を。護衛は前回と同じ顔ぶれを依頼する。範囲は、この空白の縁まで。奥へ追うことはしない」
出発の日取りを書き添え、ペンが止まった。
「それと、私も同行します」
エレノアは顔を上げた。隣で記録を閉じかけていたリオネルの手も、止まっている。
「副ギルド長が、ですか」
戻っていたガレスも、地図から顔を上げた。
「自らですか」
「ええ」
「ええ。証言だけでは、判断の材料が足りません。自分の目で確かめます」
穏やかな声だった。けれど、その場の誰も、冗談とは受け取らなかった。
「ギルド長と部門長には、私から伝えます。準備は明日から。アシュベリーさん、現地で確かめる項目を、明日までにまとめてください」
「分かりました」
エレノアは地図を畳み、記録帳を抱えた。
席に戻ると、彼女は新しいページを開き、明日の項目の見出しだけを書いた。鳥の声。小動物の痕跡。風以外の音。「何もなかった」を確かめるための項目は、書き出してみれば、どれも当たり前のものばかりだった。
何も見なかった、という証言の集まり。その先に何があるのかは、まだ誰も知らない。
今度は、そこへ行く番だった。
お読みいただきありがとうございます。
次話「空白の縁で」――ゼインも同行する現地調査へ。「何もなかった」場所の先に、何があるのか。
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