第11話 空白の縁で
出発は夜明け前だった。
ギルドの玄関先で、ルルが見送りに立っていた。
「夕方までには戻ってね。万一遅れるなら、伝令の手段だけ決めておいて」
「分かってる。馬を使うから、街道では稼げるはず」
「ならいいけど」
ルルはエレノアの荷物を一巡り見て、最後に水筒を指さした。
「お昼、ちゃんと食べてよ」
「食べるよ。多めに入れてある」
それを聞いて、ルルは小さく笑った。「多め」の基準が人と違うことは、もう言わないことにしているようだった。
街道の移動には馬を使った。森で使える時間を増やすためだ。道中、エレノアは記録帳を開き、昨日のうちにまとめた「確かめる項目」をもう一度目で追った。
鳥の声。小動物の痕跡。風以外の音。
当たり前のものばかりが並んでいる。それを、当たり前でなくなった場所へ確かめに行く。
編成は、調査部門のエレノアとガレス。護衛は前回と同じ二人、剣のロイと弓のタリア。それに、ゼインが加わった。
現地用の上着に私物の外套を羽織った副ギルド長は、馬上でも姿勢が崩れない。
「アシュベリーさん」
並んで走る馬の上から、ゼインが声をかけた。
「現地では、何か見つけようとしなくて結構です」
「……どういう意味ですか」
「証言の重なった範囲を、実際に歩いて確かめる。それが今日の仕事です。無理に答えを作らないでください」
エレノアは少し考えて、頷いた。
「分かりました。見たものを、そのまま残します」
「ええ。それが一番助かります」
森の入口で馬を預け、一行は沢沿いの道を北へ向かった。
襲撃地点の斜面を過ぎたあたりまでは、普段の森だった。鳥の声がする。茂みの中で何かが動く気配もある。タリアが一度だけ足を止め、耳を澄ましてから首を振った。小動物だろう、と。
それが、少しずつ減っていった。
最初に気づいたのは、ガレスだった。
「……聞こえるか」
「何がですか」
「何も、だ」
立ち止まって耳を澄ます。風が梢を揺らす音はある。水の音も、遠くにある。だが、その間を埋めるはずの音がなかった。鳥の声がない。虫の羽音も、茂みを走る小さな気配も。
エレノアは一行を止め、決めていた手順どおりに確認を始めた。その場で三分、声を出さずに耳を澄ます。目を閉じると、かえって何も聞こえないことが際立った。
地面も見る。獣の足跡は、古いものが少し。糞も、巣穴らしきものも、この範囲では見つからなかった。
記録帳に時刻と場所を書く。境目は急には来なかった。歩くにつれて、少しずつ薄くなっていく。だが振り返れば、来た道のほうでは確かに鳥が鳴いていた。
「証言のとおりですね」
「ええ」
ゼインが答えた。彼は木々の奥へ目を向けたまま、しばらく動かなかった。
「ここまで静かだとは、思っていませんでした」
護衛の二人も、顔を見合わせた。戦う相手がいる静けさではない。相手そのものが、いない静けさだった。
境目は、歩数で数えられた。あと十歩進めば鳥の声が遠くなり、もう十歩で、枝を渡る風の音だけが残る。エレノアは立ち止まっては記録し、また進んだ。線を引くようにして、静けさの始まる場所を地図の上に落としていく。
昼食は、その静けさの中で取った。沢の近くの岩場に腰を下ろし、各自の包みを開く。噛む音や、水筒の栓を抜く音が、普段の何倍にも大きく聞こえた。誰も大声は出さなかった。出す必要がないのに、出せないような気がした。
「多め」の昼食も、この静けさの中では半分ほどで手が止まった。残りは包み直して、荷物に戻した。
一行は声を落として進んだ。足音だけがやけに大きく聞こえる。運搬の男性が言っていた言葉を、エレノアは思い出した。自分の足音が大きく聞こえた、と。
沢から少し上がった場所に、平らな地面があった。
「待て」
ガレスが手を上げた。彼は地面を一巡り見てから、しゃがみ込んだ。
「焚き火の跡だ」
石を円く組んだ跡があった。中には古い灰と、炭の欠片。周りの地面は、人の出入りで踏み固められている。だが、灰は雨に打たれて久しく、炭も湿って崩れかけていた。
「いつ頃のものですか」
「分からん。最近のものではない。それだけだ」
エレノアは位置を記録し、跡の大きさを測った。石組みの内側は、一人が膝を抱えて暖を取るには少し広い。かといって、大人数で囲む大きさでもない。一人が長くいたのか、何人かが入れ替わったのかも分からなかった。道具の忘れ物はなく、残されたものは灰と石だけだった。
「誰か、ここで野営していたんですね」
「ああ。こんな奥で、だ」
ガレスは周囲へ目を向けた。
「採取のついでに休む場所じゃない。ここを目的に来なければ、こうはならない」
エレノアはその言葉も記録した。推測は推測として、断定とは分けて書く。
記録を終えたとき、タリアが低く声をかけた。
「こちら。何か埋まっています」
倒木の陰に、石の板の一部が土から顔を出していた。
*
ゼインは、石の板の前で足を止めた。
板は斜めに埋まり、見えているのは全体の一部だけだった。厚みは手の幅ほど。表面には彫りらしい凹凸がある。だが、土と苔に覆われ、長く風雨にさらされたらしく、文字として読み取れる形は残っていなかった。
エレノアが寸法を測り、ガレスが周囲を警戒する。板の方角、埋まり方、周りの地形との位置関係。彼女は一つひとつを声に出して確認し、記録帳へ落としていく。分からないものは、分からないと書く。その手つきを、ゼインはしばらく見ていた。
彼は板のそばに膝をつき、表面に触れないよう目を凝らした。
――来た。
視界の端で、色が欠けた。
子どもの頃から、彼の目にはそういう場所が見えた。世界の色の濃さが、場所によって薄くなる。師と呼べる者には、魔素の濃淡が見えているのだろうと言われた。だが、意図して見られるものではない。疲れているときほど強く出て、意味までは教えてくれない。彼にとってそれは、役に立つ力というより、説明のつかない癖のようなものだった。
帝国支部の頃にも、似た感覚はあった。遺跡の調査記録を扱う部署で、一度だけ。あのときも、意味は分からなかった。分からないまま、彼はその感覚を報告書に書かなかった。
今、その「欠け」が、板の周りで際立っていた。
板そのものではない。板の表面をなぞるように、欠けた色が揺れている。文字の形に沿って――いや、文字だったものの残りの形に沿って、視界の中で何かが瞬いた。
ゼインは目を押さえた。
「副ギルド長?」
エレノアの声がした。
「……いえ、何でもありません」
彼は手を下ろし、穏やかに言った。
「少し、日に眩んだだけです」
嘘ではなかった。光に眩んだような感覚は、本当にあった。ただ、それだけではなかった。
彼はその感覚を、報告書に書くつもりはなかった。自分にしか見えず、意味も分からないものは、証拠にならない。証拠にならないものを根拠に人を動かせば、判断を誤る。そういう考えで、彼はこれまでも、この目について多くを語らずにきた。
それでも、目を離せなかった。
「この板、持ち帰りますか」
ガレスが尋ねた。
「いえ」
ゼインは首を振った。
「全体の大きさも、由来も分かりません。下手に動かせば、位置の情報が失われます。今日は位置と、見えている範囲の形を記録するまでにしましょう」
「記録担当に照会しますか。古い遺構の記録が、残っているかもしれません」
エレノアの提案に、ゼインは頷いた。
「ええ。戻ったら、記録の確認をお願いします」
彼女は頷き、見取り図へ板の形を描き加えた。彼女の手は迷いがない。見たものを、見たままに残す。それが彼女の仕事だった。
自分の見たものは、その仕事のやり方では残せない。
ゼインはそのことに、少しだけ苦いものを感じた。
帰路、一行は来た道を戻った。静かな範囲を抜けると、やがて鳥の声が戻ってきた。その当たり前さに、彼はかえって足を止めそうになった。
沢のほとりで小休止を取ったとき、エレノアが昼の残りの包みを開いた。あの静けさの中では半分で止まった手が、今度はよく動く。包みの中身が順調に減っていくのを見て、タリアが小さく吹き出した。
「……何か」
「いえ、すみません。ほっとして」
ガレスも口元を緩めた。
「普段に戻った、ってことだ」
ゼインはその様子を見て、張りつめていたものの正体に気づいた。音のない場所では、人は無意識に息を詰める。彼女のよく食べる姿は、それを解く合図のようだった。調査部門の「日常」が戻ってきたのだと、護衛たちも感じているのだろう。
氷の女神、と人は呼ぶ。だが少なくともこの一行は、もう別の顔を知っていた。
ギルドに戻り、報告を終えたあと、ゼインは執務室で地図を開いた。
空白の縁に、今日の記録が書き加えられている。焚き火の跡。石の板の一部。
今日歩いた静けさの広がりは、自分が見た「色の欠け」の広がりと、どこか重なって見えた。
だが、それはまだ、彼の中だけの話だった。
口に出すには、材料が足りない。記録の照会で何か出てくれば、話は変わるかもしれない。出てこなければ、今日の違和感は、自分の胸にしまったままにするしかなかった。
お読みいただきありがとうございます。
次話「余白の一行」――見つかった石の板について、記録担当ミレーヌへの照会が始まります。古い記録の中に、森の静けさに触れたものはあるのか。
※次話は10月31日19時にアップ予定です
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