第12話 余白の一行
石の板の照会は、記録庫から始まった。
その朝、エレノアは調査部門の自席で、前日の記録を清書し、見取り図を写し直していた。隣の席では、リオネルが標識の照合表とにらめっこをしていた。
「記録庫へ行くなら、ついでに頼みたいことが」
「何?」
「標識の設置記録だ。古い分は記録庫の綴じにあるはずなんだ。番号の付け替えがあったかどうか、見てきてくれると助かる」
「分かった。見つけたら写してくる」
彼の照合も、まだ続いていた。エレノアは頼まれた分を、自分の用件の横に書き足した。
ルルが受付から顔を出して、行き先を聞いた。
「記録庫? じゃあ、ミレーヌさんによろしくね」
「うん、伝えておく。顔を合わせたことは何度かあるけど、用件でじっくり行くのは初めてだわ」
「記録のことなら、あの人の右に出る人はいないよ。古い綴じの場所まで、全部頭に入ってる」
ルルは少し笑った。
「あと、丁寧な人が好きな人だから。あなたの記録、きっと気に入るよ」
記録庫は、本館の東の端にあった。
扉を開けると、紙と埃と、かすかなインクの匂いがした。壁一面の棚に、年ごとに綴じられた記録が並んでいる。窓際の机に座っていた女性が、顔を上げた。記録担当のミレーヌ・オルフェだった。
ゆるく編んだ髪に、花柄のショール。今日も年よりずっと若く見えて、どこか物語の中から出てきたような、ふわりとした空気をまとっていた。挨拶を交わす以上の付き合いは、今日が初めてだった。
「あら、副ギルド長。珍しいわね、記録庫まで直々に」
「ご無沙汰しています、ミレーヌさん」
静かな場所に合わせるような、穏やかな声だった。
「照会をお願いしたくて。アシュベリーさんにも来てもらいました」
「あら、アシュベリーさん。あなたの評判は、聞いているわよ」
彼女はエレノアの差し出した記録帳を受け取り、まずは写し取った見取り図のほうを眺めた。石の板の形、位置、周囲の地形。しばらく黙って見てから、彼女は言った。
「良い記録ね」
「……ありがとうございます」
「分からないところを、分からないまま空けてある。書き手の想像で埋まってる記録が一番困るの」
彼女は記録帳を返した。
「若い頃、私も実地に出ていたからね。記録の癖は、見れば大体分かる」
ルルの言ったとおりだった。この人は、記録で人を見る。
ゼインが用件を切り出した。東の森の北部で見つかった石の板。古い記録に、同様のものへの言及がないか。
「石の板ねえ」
ミレーヌは棚の前へ立ち、指で綴じの背をなぞった。
「東の森の記録なら、ここからここ。でも、北部のものは昔から薄いのよ」
「薄い、というのは」
「調査自体が少ないの。採取の対象が南に寄っていたから、というのが表向きの理由だけど」
彼女は南側の綴じと、北側の綴じを一冊ずつ抜いて、並べてみせた。厚さが、目に見えて違った。
「ほらね。同じ年数分でも、これだけ違う」
彼女はさらに何冊か抜き出し、机に積んだ。
「見てみましょう。古い順に当たるわ」
リオネルに頼まれた標識の設置記録は、ミレーヌがすぐに在処を言い当て、該当のページを写し取ることができた。付け替えがあったかどうかは、彼の照合を待つしかない。
本題の作業は地味だった。一冊ずつ開き、東の森北部に触れた記述を探す。収穫記録、巡回の報告、魔物の目撃。どれも南側と沢沿いの話ばかりで、北へ分け入った記録は数えるほどしかなかった。
途中、関係のない記述に目が留まることもあった。何十年も前の調査員の字で、失敗の言い訳が丁寧に書かれていたり、採取量の数字の横に小さい花の絵が描かれていたりした。ミレーヌはそれらを見つけると、少しだけ目を細めた。
「昔の人の記録はね、余白に人間が出るの」
彼女は少し照れたように笑った。
「私も若い頃、やったわ。怒られたけど」
昼前、ゼインが執務へ戻ることになった。記録庫の扉の前で、ミレーヌが声をかけた。
「副ギルド長。支部長にも、この照会の件は」
「ええ、報告します。――昔の記録の扱いは、あなたを信頼しています」
「あら、光栄」
ミレーヌは笑って、エレノアのほうを見た。
「この人はね、借りた記録を、期限どおりに、しかもきれいにして返してくれるの。そういう上司は珍しいわ」
ゼインは少しだけ困った顔をした。その表情を、エレノアは初めて見た気がした。
ゼインが去ったあと、ミレーヌは扉のほうをしばらく眺めていた。
「あの人ね、皆が思っているほど、冷たくないわよ」
「……そうですか」
「隙がなくて、近寄りがたい。皆そう言うけど」
彼女は少し笑って、首を振った。
「私はね、あの人は『忘れられるのが怖い人』だと思うの」
エレノアは手を止めた。
「借りた記録は、必ず期限どおりに返す。約束は、小さなことでも必ず果たす。あれは几帳面なんじゃないわ。人との繋がりを、切らさないようにしているの。切れたら、もう戻らないって、知っている人のやり方」
彼女はそれ以上は言わなかった。エレノアも、聞かなかった。
ただ、思い当たることはあった。初対面の日から、ゼインはエレノアの記録の癖を覚えていた。誰の、どんな小さな報告にも、必ず目を通して返す。その丁寧さの理由を、自分は「そういう人だから」とだけ思っていた。
ミレーヌの見立てが正しいかどうかは、分からない。だが、そういう目で人を見る人が、記録庫にはいた。
残った二人は、読み進めた。
昼どき、ミレーヌが棚の奥から茶器を出した。
「手を止めて、お茶にしましょう。文字は逃げないわ」
焼き菓子まで添えてくれたので、エレノアは遠慮なくいただいた。二つ目に手を伸ばしたところで、ミレーヌが小さく笑った。
「よく食べるのね」
「……すみません」
「謝ることじゃないわ。よく食べる人は、仕事も丁寧。私の経験則」
年代を遡るほど、北部の記録はさらに減っていった。巡回の記録も、ある年を境に北へ入る行がぱたりと消えている。理由の記載はない。やめたのか、行く必要がなくなったのか。記録だけでは分からなかった。
「こういう途切れ方が、一番気になるのよね」
ミレーヌが綴じの端を指で押さえた。
「書くことがなかった、のではなく。書かなかった、のかもしれない」
昼を過ぎた頃だった。
「……これ」
ミレーヌの手が止まった。古い綴じの一冊、巡回記録の余白に、小さな走り書きがあった。字は荒く、書いた人の名もない。
――沢の北、石板あり。音なし。長居するな、と。
「誰の字かしら。記録の本文とは違う手ね」
エレノアは身を乗り出した。
「日付は」
「この綴じ自体は、私が生まれる前か、生まれた頃のものよ」
ミレーヌは静かに言った。
「少なくとも、何十年も前の誰かが、あなたたちと同じ場所で、同じものを見た。それだけは確かね」
音なし。
今の静けさが、いつからそこにあったのか。この一行は、その答えにはならない。だが、静けさのほうが、自分たちよりずっと先にそこにいた可能性だけが、余白から浮かび上がった。
「私が実地に出ていた頃ね」
ミレーヌは綴じを閉じ、遠くを見る目をした。
「当時の先輩たちが、北のほうをこう呼んでいたわ。『記録の残らない場所』って」
「記録が、残らない」
「調査に入っても、報告書に書くことがないのよ。何も見つからない。何も起きない。だから記録が薄くなる。私も一度だけ、沢の北に入ったことがある」
彼女は思い出すように、ゆっくりと続けた。
「若い相棒と二人でね。入ったときは冗談を言い合っていたのに、気づいたら、二人とも黙っていた。沢の水の音まで、遠くに聞こえたわ」
鳥の声ってね、なくなると分かるの。あのときの静けさは、よく覚えているわ。
「そのとき、石の板は」
「さあ。見ていない。――見ていても、気づかなかったのかもしれないけど」
分からない、がまた一つ増えた。だが今日は、それだけではなかった。何十年も前の余白に、自分たちと同じ問いが残っていた。
帰り際、ミレーヌが言った。
「他支部の記録室にも、照会の文書を回してあげる。石の板の記録が、よそに残っているかもしれないから。支部同士の文のやり取りなら、私に伝手があるの」
「ありがとうございます」
「ただし、馬便だから返事は早くても十日はかかるわ。あと、板の彫りを写し取るなら、紙と炭で当たる方法がある。次に現地へ行くなら、その用意をしておくといい」
「丁寧に記録する人の頼みは、聞きたいのよ」と彼女は笑った。
夕方、エレノアは執務室へ報告に上がった。
走り書きの写しを差し出すと、ゼインはしばらく黙ってそれを見た。
「『長居するな』、ですか」
「書いた人の名も、日付もありません。ただ、静けさと石板が、昔からそこにあったらしいことだけが」
「それだけでも、大きな収穫です」
彼は写しを丁寧に畳んだ。報告書の端を、指先で揃えてから、彼はふと付け加えた。
「リオネルさんのほうの写しも、取れましたか」
エレノアは少し驚いた。朝の席で頼まれただけの、ついでの用件だった。それを、この人は覚えていた。
「はい。写しは取ってあります」
「助かります。彼にもそう伝えておいてください」
昼間の言葉が、ふと浮かんだ。
忘れられるのが怖い人。
確かめる材料は、まだ少ない。だが目の前のこの人は、誰の小さな用件も、なかったことにしない。――あの見立ては、案外と的外れではないのかもしれなかった。
「この件は、部門長たちにも共有しましょう。――アシュベリーさん、今日はありがとうございました」
執務室を出て受付に寄ると、ルルが顔を上げた。
「ミレーヌさん、どうだった?」
「記録で人を見る人だった」
「でしょう? で、何か出た?」
「昔の人の、余白の走り書きが一行」
ルルは少しだけ眉を上げて、それ以上は聞かなかった。聞かないでいてくれるのが、この友人の優しさだった。
「じゃあ今日は、いい仕事したってことで。夕ごはん、食堂の新メニュー試しに行かない?」
「行く」
自席に戻り、エレノアは自分の記録帳を開いて、今日の分を書き加えた。
沢の北、石板あり。音なし。
何十年も前の誰かの言葉を、自分の字で書き写す。それは答えではない。だが、問いが一人分ではなくなったことだけは、確かだった。
お読みいただきありがとうございます。
次話「息抜きの一杯」――たまには副ギルド長にも息抜きを。カイルに連れ出された酒場で、ゼインが見せる素顔とは。
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