第13話 息抜きの一杯を
ゼイン視点です
夕方の訓練場に、ゼインは視察を兼ねて顔を出した。
訓練生たちを見回って戻ろうとしたところで、その男が待ち構えていた。
「よ、副ギルド長。視察は終わりだろ」
カイル・ナディールは、木剣を肩に担いだまま、にやりと笑った。
「……まだ、明日の準備が」
「準備は朝でもできる。今から飲みに行くぞ。それが今日のお前の最後の仕事だ」
言い切られてしまえば、断る理由もなかった。ゼインは観念して、外套を手に取った。
夕方の通りは、帰宅する人々と屋台の煙で賑わっていた。焼ける油と香草の匂い。子どもの笑い声。着任してから、ゼインはこの街の夕方を、窓の外の音としてしか知らなかった。
連れて行かれたのは、ギルドから二本通りを入った先の、小さな酒場だった。カイルの行きつけらしい。主人が顔を見て、断りもなく二人の前に杯を置いた。
「お前、着任してから一度も飲みに出てなかったろ」
「忙しかった」
「忙しいのは分かる。けどな、ゼイン」
カイルは杯を掲げた。
「息抜きしない奴は、いざというとき判断を誤る。教官の言葉として言っとく」
「……ありがたく受け取っておく」
乾杯の音が、小さく響いた。
店は十人も入ればいっぱいになる広さで、壁には古い巡回路の地図が貼ってある。主人は元冒険者らしく、カイルの注文を聞く前から、焼いた肉と豆の煮込みを小皿で出してきた。
「いつの間にか、常連の扱いだな」
「そりゃ、通ってるからな。お前も行きつけの一つくらい作れよ」
カイルは豆を頬張った。
「お前も作れよ、行きつけ。執務室と自室の往復じゃ、街に根が生えない」
「……考えておく」
「考えておく、は、やらないって意味だろ」
図星を突かれて、ゼインは杯に口をつけた。
酒が回るにつれ、話は他愛のないものになった。王都の物価。訓練生の腕前。支部長の、のんびりしているようで妙に目が届くところ。
「セオドール様は、掴みどころがないよな」
「ああ。だが、任せるところは任せてくれる。仕事はしやすい」
「お前がそう言うなら、本物だ」
カイルは肉の盛り合わせを追加で頼んだ。ゼインの皿にも、断りなく分けていく。学生の頃から変わらない仕草だった。
話が訓練場のことに移った。
「ロイとタリアは、いい護衛だぞ」
カイルが言った。
「ロイは型が正直すぎるが、守るべきものの前では絶対に下がらない。タリアは目がいい。教官としても太鼓判を押す」
「二人を推薦したのは、お前だったのか」
「運用の連中に聞かれたから、名前を出しただけだ」
カイルは肩をすくめた。
「それが当たったようで、何よりだ」
「で、森の件だ」
カイルが声を落とした。
「若い連中の間で噂になってる。『北のほうは、音がない』ってな。護衛で入ったロイも、帰ってきてからしばらく口数が少なかった」
「……大げさな話にはしたくない。分かっているのは、静かな範囲があることと、古い記録にも似た記述があることだけだ」
「ふうん」
カイルは杯を置いて、まっすぐゼインを見た。
「お前さ。また『報告できないこと』を抱えてる顔だぞ」
ゼインは答えなかった。
カイルも、それ以上は聞かなかった。長い付き合いで、二人の間にはそういう決まりができていた。言えることは言う。言えないことは、言える日まで待つ。
だが、その沈黙のあとで、ゼインのほうから口を開いた。
「……沢の北で、倒れた石の板を見つけた。古い記録の余白に、同じ場所の走り書きがあった。『音なし。長居するな』と」
「穏やかじゃないな」
「ああ」
カイルは腕を組んだ。
「気配のない場所ってのは、剣を持っていても怖い。相手がいないんじゃない、こちらの勘が働かないんだ。――奥へ行くときは、俺の名前も名簿に入れておけ」
「お前は訓練が本業だろう」
「本業の合間だよ。本気で危なくなったら、そう言え。待ってるだけの親友に、用はないだろう」
ゼインは少しだけ笑った。
「……覚えておく」
「まあ、抱え込むなとは言わねえよ」
カイルは笑って、話を変えた。
「そういや、アシュベリーは元気か」
「……なぜ急に」
「護衛で付いたタリアが面白がってた。『氷の女神が、森で黙々と昼飯を食べてた』ってよ」
カイルは笑った。
「あいつ、駆け出しの頃から昼飯の量だけは別格だったからな。懐かしい話を聞いた」
「駆け出しの頃から、知っているのか」
「当たり前だろ。お前より付き合いは長い」
ゼインは、沢のほとりでの光景を思い出した。音のない場所では半分しか進まなかった手が、音の戻った場所ではよく動いた。一行の肩の力が、その様子で抜けていったこと。
「……仕事の丁寧な人だ。記録は正確だし、判断も確かだ」
「へえ」
カイルが、意味ありげに目を細めた。
「何だ」
「いや。――お前が部下を褒めるの、珍しいなって」
「俺は事実を言っただけだ」
「はいはい」
カイルは笑って杯を空けた。ゼインもつられて、口元が緩んだ。
会計で、小さな攻防があった。ゼインが財布を出すと、カイルがその手を押さえた。
「今日は教官のおごりだ」
「悪い」
「悪くない。――お前は、次に誰かを誘えばいい」
店を出たのは、夜も更けてからだった。
並んで歩く帰り道、カイルが言った。
「たまには息抜きしろよ、副ギルド長。――明日は、また森か」
「ああ。石の板の彫りを、写し取りに行く」
「気をつけてな。『長居するな』って書かれてたんだろ」
ゼインは足を止めなかった。だが、その言葉は、昼間の執務とは違う重さで耳に残った。
分かれ際、カイルが手を振った。
「次はお前が誘えよ。酒でも飯でも。――誰かをな」
一人になってから、ゼインは歩きながら明日の支度を思い浮かべた。紙と炭。石の板の彫りを写し取る道具。ミレーヌの言っていた方法がうまくいけば、摩耗した表面から、何かしらの形が浮かぶかもしれない。
空には月が出ていた。森の静けさとは違う、街の夜の静けさが、肩の力を抜いてくれた。
明日は、また確かめに行く。今日のところは、それでよかった。
お読みいただきありがとうございます。
次話「読めない文字」――石の板の彫りを写し取るため、再び森へ。静けさの縁で、何が浮かび上がるのか。
次話は19時アップ予定
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